第二十話 呪と棘薔薇
光のない新月の夜。
清涼殿に集まったわたしと竜胆、そして主上は、呪物である琵琶を部屋の中心におき、暗闇の中正座している。
「では、まいります」
「うむ。気をつけろよ」
わたしは前に進み出て、主上の髪を巻き付けた杖を持ち、その先端を琵琶の穴に差し入れた。
次の瞬間、足元から棘薔薇があふれ出し、わたしの身体を覆っていった。
あああああああああ! 痛い、痛い、痛い。
声にならないほどの激痛が、腕を、胸を、腹を、脚を、引き裂くように駆け巡る。
床に落ちる血潮の音が耳にドクドクと響き、今にも倒れてしまいそうなのに、頭だけはさえわたっていく。
笑うしかないだろう。
ああ、口の中に鉄くさい味が広がる。不味い。
生温かい。わたしはこんな色をしたもので生きているのか。
視界がちらつく。赤い。どこまでも、赤い。
棘薔薇がわたしに降りかかる呪を迎撃し、捻りつぶしていく。
(錯乱の呪か)
棘薔薇を伝って呪がもたらそうとしていた事象が伝わってくる。
棘薔薇に貫かれ、もはや音を奏でることすら出来ないでいる琵琶は、恨めし気にわたしを見ているようだ。
だが、術者は気づいてはいないだろう。
主上が錯乱したと思っている。
その証拠が、今、簀子縁を歩いて近づいてきている。
暗闇に控えている竜胆が息をひそめ、ゆっくりとした所作でその人物の口を覆う。
後ろ手に縛り、部屋の中へと転がすように蹴り入れた。
「な、何をする……はっ! へ、陛下……」
「お前、何をしにこんな夜分に清涼殿へ? 確認したかったのか? 私が苦しむ姿を」
「そ、そんな……め、めめ、滅相も……あ、ありあり、ありません」
「そうか? 元中納言よ」
男は額に汗を浮かべ、急いで平伏した。
その正体は、前皇帝の女御の実兄にして、中納言だった男。
今はその地位を奪われ、前皇帝と共に地方官僚になったはずだ。
「わ、わた、わたくしは、そ、その、あの……」
「なぜここに? 私はお前を呼び戻した覚えはないぞ」
「あ、あっ……」
元中納言の顔は青ざめ、大量に血を失ったわたしよりもふらふらと揺れている。
「恨むならば、我が一族から皇位を簒奪する手伝いをしたお前の先祖を恨むんだな」
「あ、は、あ……」
「失せろ。次に扶桑京でその顔を見た時は、必ず切り捨ててやるからな」
「あ、あひひいいいいい!」
元中納言は穴と言う穴から液体をこぼしながら脱兎のごとく逃げ出していった。
「汚い奴だ。身も心も汚らわしい」
主上はそう呟くと、身を翻し、すぐにわたしに駆け寄ってきた。
「大丈夫ではなさそうだが、私に出来る治療はあるか」
「い、いえ……。放っておいていただければ、数時間で完治いたします。ただ……」
「なんだ、どうした?」
「お部屋を汚してしまい、申し訳ありません。思っていたよりも呪が強く、出血が多くなってしまいました」
「よいよい。気にするな。もともと清涼殿は一番最後に改装予定だったのだ。この床もそのうち張り替えよう。気にするな」
「恐れ入ります」
「ほら、部屋まで運ぼう」
「いえ。竜胆に世話を頼んでおりますので、お気遣いなく……うわっ」
身体が浮いた。あたたかい腕の中、わたしは横抱きにされていた。
「お、おろしてくださいませ! 奥方様方に見られては、申し開きが……」
「妻たちはもうとっくに眠りについているから気にするな。それよりも、血だらけの女子を見捨てたとなれば、皇帝として、国の父としての威厳も失墜しよう。おとなしく抱かれておけ」
「あ、はぁ……では、すみません」
「いくぞ、竜胆。掃除は明日陰陽術師たちにさせるから放っておいてよいぞ」
「かしこまりました、陛下」
竜胆は嬉しそうに微笑んでいる。きっと、主上のことを気に入ったのだろう。
わたしですら、動揺したくらいだ。主上に恋している后たちならば、熱に浮かされて身体から力が抜けるほど喜ばしいと思うのだろう。
綺麗な顔だ。イケメン、ハンサム、美男子、美丈夫、容姿端麗……。
美しく整った姿かたちを称賛する言葉は数あれど、そのどれもが霞むほど、主上は煌めきにあふれているように見えた。
かといって、恋の対象になるかと問われると、それは無い。
「さぁ、ついたぞ。ゆっくりおろすから、しっかり掴まってろよ」
ふわりと香るベルガモット。
「皇后陛下はとても趣味がよくていらっしゃいますね」
わたしは床にそっと足をおろし、血で固くなった水干を整えながら微笑んだ。
「おお、よくわかったな。妻に選んでもらった香油だと」
「陛下を心から愛していらっしゃるから選んだ香りでしょうから」
「ほう。それはなんとも照れるな」
わたしは主上から一歩離れ、深くお辞儀をした。
「運んでいただき、ありがとうございました」
「そんな、友人なのだから当然だろう」
わたしは姿勢を直し、小さく微笑んだ。
「あ、友人……。そうですね。友人です」
「お! やっと認めたか。よかったよかった」
主上はホッとしたように微笑む。まるで少年のようだ。
「陛下、残りの呪物はいかがなさいますか? 今回は元中納言様が犯人でしたが、おそらく製作者は別にいると思われます」
「そうだな。あの馬鹿者にあれほどの琵琶を作る技術はないだろうし……。翼禮に預けてもかまわないだろうか。是非、調査してほしい」
「かしこまりました。喜んでお引き受けいたします」
「ありがとう。明日の午後、陰陽術師たちに届けさせよう。では、私はこれで。ゆっくり休むんだぞ。竜胆もな」
「はい」
「はぁい」
主上は爽やかな笑顔と残り香を漂わせて去って行った。
「あれはすごいわ。私、恋しちゃいそうになったもの」
「目の保養になってよかったですね」
「さすが、皇帝陛下ね」
「あはは」
「それにしても、ちょっと! びっくりしたんだからね! 出血しすぎ!」
「大丈夫ですよ。仙子族ですから」
「でも……。液化薬、もう飲むのやめたら?」
「……気づいてたんですか」
「あたりまえじゃない。私は禍ツ鬼よ?」
『液化薬』とは、仙子族が人間やその他の種族の中で生きるにあたり、周りを混乱させないように、血煙を血液にする薬。
本来、仙子族の血は液状ではなく白い煙状なのだ。
「液化薬はその性質上、血の凝固作用を阻害してしまいます。それでも、仕方がないんです。わたしの身体から煙が出ているのを目撃されたら、京中で『妖魔』だという噂が立ってしまいます。家族が危険にさらされるようなことは避けたいんです」
「それは……そうかもしれないけど……」
「血が煙なのは仙子族だけです。たった一つの種族の特徴をその他大勢に理解してくれなんて言えません」
「……わかったわ。じゃぁ、せめて、もうあんな怖いことしないでほしいの。もっと安全な方法で仕事しましょう?」
「考えておきます」
「もうっ」
「ふふふ」
灯篭の優しい光。
中に入っているのは電球だが、和紙を通して漏れる光はとてもあたたかい。
わたしは空枝空間への扉を開き、竜胆と共に中へと入っていった。
今日はもうお風呂に入って眠ってしまいたい。
報告書は明日書けばいい。
それくらい、疲れてしまった。




