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恋する❦カレープリンセス 

作者: 宇佐美陣梧

 恋する❦カレープリンセス 


 東京下北沢のいかにも昭和めいた、ぼろっちい文化住宅に

  時枝(ときえだ)駿(しゅん)国際探偵事務所はある。


 お金さえ払ってくれたら、世界中どこに行ってでも、お目当ての人を見つけて日本に絶対、連れ帰って来ます! という宣伝文句が売りの、そんな一風変わった商売をしているところには、やはり一風変わった依頼者が吸い寄せられて来るものらしい。


 そうして、今日もその時がやって来た。



 1 インド(東部ベンガル)のカレー


 今日の昼飯あたり、なんとなくカレーの気分かなと思っていたら、本当にその通りになった。

「ほう……。初めて来たけど、ここは正解でしたね」

 時枝駿はフィッシュカレーを一口食べて、思わず独りごちた。

 ルーはまるでスープカレーのような、しゃばしゃばとした食感で、チャツネとクロガラシの充分効いた香辛料ではあるものの、ふつうにカレーと聞いてイメージされるような濃厚な類ではない。この汁気たっぷりなルーが日本米とは意外によく合う。

 あの濃厚で粘り気充分のカレーは、やはりデリーを中心とした北インドのカレーのようだ。日本にある多くのインド料理の店はムガル帝国時代の宮廷料理を模したメニューが主体のせいで、どうしても、カレーはガラムマサラを多用したどろどろ系、それにはライスよりもタンドール窯で焼いたナンを合わせるというセットスタイルが定着してしまっている。

 だが、今日、初めて足を踏み入れたこの店は、完全にインド東部、ベンガル地方のカレーのみを提供していた。

 ありがちな北インドのカレーに食傷気味だった駿には、ことのほか嬉しいチョイスだ。ユーラシア大陸を二年も放浪したことがある駿は本場のインド料理には少なからずこだわりがある。

「あんさんが喜んでくれて、わしも嬉しいわ」

 テーブルを挟んで向かい合う大牟田(おおむた)(きん)()も出されたカレーをもりもり頬張りながら、微笑んでいた。

 大牟田が頼んだのは羊の脳カレーだ。名前だけ聞いたら、ゲテモノふうだが、羊の脳症は程よくルーに溶けて、さほど気持ち悪くも見えない。イスラム教徒の多いインド東部のベンガル地方は魚食、肉食は当たり前で、徹底した菜食(ベジタ)主義(リズム)を採る他のインド料理とは一線を画している。

「あのー、この白身のお魚、美味しいですけど、何の魚ですか?」

 駿はオープンキッチンの奥で調理をしているシェフに声をかけた。顔つきは彫りの深いインド独特のアーリア系の顔立ちよりも、少し柔和そうで浅黒い東南アジア的な風貌をしている。インド料理と銘打っていても、実際、ネパール人やバングラデシュ人が経営、調理しているインド料理店が少なくない。

「何のサカナ……。ヨクワカラナイナ。外国ノサカナダナ」

 シェフも把握してないようだ。駿はパイク(カワカマス)だろうか、と勝手に想像した。シェフの愛想はいいが、日本語は今一つのようだ。日本人客はそういうところを案外、気にかける。馴染み易いと取るか、怪しいと取られるか、という意味である。

 これで日本語ベラベラ、‘日本大好き’をアピールできる外国人オーナーやシェフがいれば、味は二の次でも物珍しさから下北沢という立地も手伝ってメディアが放っておかないはずだ。

 店内をぐるりと見回したが、昼の一時を過ぎても、客は駿と大牟田以外ほとんどいない。奥のボックス席に同僚と思しき初老のタクシー運転手が二人、駿の目の前にあるカウンター席におかっぱ髪の女性が一人、背を向けて食べている。味はそこそこ良くても、なぜか流行らない民族料理店のそれもありがちな現実だった。

 この店は割と清潔な方だが、外国人だけが働いている店は全てが彼らお国柄の価値基準でなされるため、清掃が行き届いていないところをしばしば見かける。店の雰囲気も含めて日本ではサービスがいかに大事か身をもって覚えるのに相当な年月が要るのだ。

「で……。にいちゃん、最近の仕事の景気はどないや?」

 すでに大皿を半分以上も平らげてから、大牟田が話を向ける。

「うーん。大して景気はよくありません。今は専ら、みいちゃん探しに全力を挙げています。報酬の振り込みはまだですが」

「ん? みいちゃんって、何や?」

「商店街の花屋のおばさんが探してるネコちゃんです」

「ネコ? 行方不明のペット探しをしとんか?」 

「ペットというか、餌づけしてる野良ちゃんなんですけど……」

 駿はコップの水を飲み干してから、溜め息を吐いた。人でも猫でも、請けたからには仕事だが、ギャラはたかが二万五千円。それも粘り強い交渉で勝ち取った額だ。なのに、初日に貰えた五千円から今のところ一円も増えていない。依頼した花屋の絹枝は、下北沢南口商店街の界隈ですれ違うたび、明日払う、明日払うを口癖のように言い、いつもなぜか前掛けのポケットに忍ばせてあるビックリマンチョコを駿の掌に握らせ、ウィンクして去っていくのだ。そんなことがもう二週間も続いていた。 

「その残りの二万は、別に成功報酬ではないんやろ?」

「違います。あくまで、それは着手金です。みいちゃんを見つけたら、別に成功報酬の二万五千円もらうという約束です」

 言えば言うほど、虚しくなる。それでも、これしか仕事がないのが現状だった。また、駿の事務所の経営状態を気に掛けて、食事に誘う大牟田も何かしら責任めいたものを感じているのかもしれない。そもそも、駿がこの下北沢で国際探偵事務所を設立したのは大牟田の意向が強く働いている。

「さよか……。わしは、あんさんの人探しの才能と実力は高く評価しとるんやが、いかんせん回せる仕事が今はないさかい、すまんとは思うとるんや」

 大牟田はつるりと禿げあがった頭をオシボリで軽く拭きながら、肩を落として言った。季節はまだ春の陽気をさほど感じない三月上旬。カレーの辛さが大牟田の表情を赤くし、頭から多量の汗を滴らせている。いつも着ている着流しの和服をこの時ばかりは一枚残らず脱ぎ捨てたいに違いない。

「いえいえ。そんなことより、大牟田さん、先月のオファー、断ってすいませんでした」

 駿は素直に頭を下げた。大牟田は笑って首を振る。

 今年に入って早々、大牟田が相談役を務める日本屈指の総合商社、三橋物産の子会社である三橋電産の技術者が突然、行方不明になった。それも中国へ社員旅行に出かけた最中のことだ。

 現地の公安警察が信用できない大牟田は秘かに技術者の男の捜索を駿に依頼した。駿は一週間足らずで男の居場所を中国国内で突きとめる。なんと、四川省重慶にある中国系電機メーカーの現場責任者として、十倍の給料で迎えられていたのだ。

 駿は現地で当人と接触したが、三橋にはもう帰らない、ときっぱり断言された。いくら高額でヘッドハンティングにされたにせよ、逃げ出すように三橋電産を辞めて、大の大人の行為として許されるはずもない。だが、大の大人が自らの意思で、そこに残ると言い張る以上、駿の掲げる‘日本に絶対、連れ帰って来ます’という事務所の営業趣旨とはそぐわないことになる。

 結果、この依頼の遂行は中止せざるを得なくなった。

「ええんや。別にそれはにいちゃんのせいやない。とりあえず、その商店街のオバハンが払ろうてない野良ネコの捜索代、わしに立て替えさせてくれへんか?」


 ― あーあ、食事までご馳走になったうえに、結局、二万も貰っちゃった……。

 駿は大牟田を乗せたリンカーンの白いリムジンが、下北沢の雑然とした街並みから遠ざかるのを見届けながら、なんとなく申し訳ない気がしてならなかった。

 事務所兼自宅の扉を開けると、すぐに香辛料のきつい匂いが鼻孔に侵入してきた。だが、それはさっき食べたカレーのスパイスとは全く違う。八角や唐辛子といった中華の四川料理で使われる類のものだ。

「アイヤー、センセイ、せっかくゴハン作ったのに、アナタ、どこ行ってたか?」

 (ハン)(リー)(ホワ)がしゃもじを握った手を腰に当て、ぎろりと睨んできた。リビングに漂う匂いからして、今日も麻婆豆腐か麻婆茄子でも中華鍋いっぱいに、こしらえたようだ。

 麗華は、今年で二十三歳になる中国国籍の女性で、駿の事務所の公私専属秘書であり、ルームメイトでもある。

 月に十万の給料を払う約束とは別に、本来、三万の部屋代を彼女から徴収するところ、炊事、洗濯、掃除を駿の分を含め買って出るので免除してくれと交渉して来た。彼女の故郷の激辛四川料理ばかり食べさせられるのは、いささか難有りだが、洗濯と掃除をこまめにやってくれるのは男所帯にはありがたい。

 ちなみに一つ屋根の下にいて半年以上経つが、男女の関係というのは、今のところ、まったくもって何も無い。

「おう、駿、探してるネコは見つけたのか?」

 奥の居間から、酒やけのかすれ声が聞こえた。三橋物産の企業内弁護士、芹沢(せりざわ)(きょう)(ぞう)だ。大牟田の手足となって、表沙汰にできない企業の裏のあれこれを火消しするトラブルバスター的な役回りをしている。パンチパーマと吊り上がった三白眼からして、見た目はヤクザの若頭格だが、実年齢はまだ四十手前だ。

 本来、そんなに暇でもないはずなのに、この界隈に用事があるときは、いつも駿の事務所を訪ねて来る。

 実のところ、駿よりも麗華に興味があるようだが。

「芹沢さん、また勝手に上がりこんで、ご飯まで食べて……」

「センセイ、あの人、すぐスケベするから、ワタシ嫌い……」

 麗華が小声で耳打ちしてきた。真冬でも半袖、ミニスカートの真紅のチャイナドレスを気合いで着込む麗華を、芹沢は‘キャバクラ大学に通うパチモン留学生’と呼んで憚りない。

 が、それはあながち的外れな指摘ではない。確かに初めて入国してからの二年、日本語学校にはマジメに行っていたようだが(日本語が喋れないと水商売で働けないので)、その後、進学した医療系の短大にはまったく通っている素振りがない。

 以前、昼間は食品工場、夕方からホカホカ弁当屋で働いていたが、最近は歌舞伎町に出勤するホステス稼業一本槍で荒稼ぎしている。クラブでは‘中国美人谷の出身’と捏造した過去を吹聴し、ナンバーツーの座に君臨しているとか、いないとか。

「へぇ、会長に飯おごってもらって、安物のカレーかぁ?」

 麗華によそってもらった麻婆丼を三杯も平らげた芹沢が、なんだかなぁと納得のいかない声を出した。三年前に七十歳を過ぎて、三橋物産代表取締役会長の職を勇退した大牟田のことを芹沢は今でも会長と呼ぶ。芹沢にとって大牟田金吾は遠縁に当たる。だからかもしれないが、日本で有数の総合商社の元経営者に向かって、ときに歯に衣着せぬ言い方をするときがある。

「いいんですよ、芹沢さん。私、カレーは大好物ですから」

 億万長者の大牟田の懐を考えれば、和風懐石でも、フレンチのフルコースでも何でもござれだろうが、あえて駿は今日はカレーが食べたかった。それは大牟田に、これだけ安価でも、これだけ美味しいぞ、と自慢してやりたい感情もあったからだ。

「あの……センセイ、誰かノックしてます……」

 麗華に袖を引っ張られ、駿はすぐに振り返って、扉の外の様子を窺った。

 瞬時に二か月滞納している家賃を思い浮かべる。それに加えて、国民健康保険料三か月分、都民税二年間分も未納、NHKの受信料と国民年金に関しては、生まれてこの方、三十一歳になる今まで払ったことがない。

「おい、麗華、ちょっと見て来てくれ。なるべく……日本語を下手クソに喋るんだぞ……」

 駿に背中を押されて、麗華がアイヤと呻きつつ扉に向かう。

 片言のガイジンを差し向ければ鬼の徴収官も仏心と諦めが芽生えるのではないかという、姑息な期待を胸の内にはらむ。

 扉を開けて対応する麗華の脊姿を駿はコタツで身体を隠しながら、コタツ布団から目だけ出して凝視していた。

 それから一分後、愛嬌満面の笑みで麗華が居間に戻って来る。

 次の瞬間、コタツに潜む駿の尻に激痛が走った。芹沢に蹴りを食らわされたのだ。

「お前はヤドカリか! 早く、出ろ。どうやら客みたいだぞ」

「え? 依頼者さん?」


 居間のコタツに通されたのは、おかっぱ髪でやや小太り気味の色白女性だった。紺のニット帽をかぶり、グレーのニットセーターを着て、ベージュ色で長めのスカートを履いている。

 見た瞬間、駿はこの界隈の人間だと思った。この、もさっとした女性のファッションがいかにも‘シモキタ’っぽい。

「あの……突然、押しかけてすいません。こちら、時枝国際探偵事務所さんですよね? 人探しをしてもらえるっていう……」

「はぁ……。そうです、そうです。私、時枝駿が、お金させ支払ってくれましたら、世界のどこにでも行って、お探しの方を見つけて、必ず連れ帰って来ます! ってな感じでやってる事務所ですけど……。うちのホームページを見られましたか?」

 駿の国際探偵事務所のホームページ。麗華の日本語学校の同級生に五万で作ってもらった。頼みもしないのに、日本語だけでなく中国語表記まで付けてくれた。

「いや、さっきのカレー屋さんで、確かそんな話をされていたから……。ちょっと気になって、失礼とは思ったんですが、あなたの跡をつけて来たんです。そしたら、建物の下の郵便受けのところに‘あなたの大切な人を必ず連れ帰ります! 時枝駿国際探偵事務所’って貼り紙が見えたから……」

 ― カレー屋? さっきのカウンター席に座ってた女性客か?

 駿は、そうですか、そうでしたか、と手もみをしながら相合を崩す。ここで、あなたはストーカーですか! などと憤慨してはいけない。とにかく、どういうアプローチにせよ、久方ぶりの依頼には間違いがない。駿のテンションの高まりは麗華にも伝染したのか、女性に麻婆丼をしきりに勧めるが、昼食はカレー屋で済ませましたので、とやんわり断られる。

「それで……早速ですが、どちらのお国の、どなたを探しましょうか?」

 女性は麗華が差し出したプーアル茶を一口、ずずっと啜ってから、意を決したように口を開いた。

「私の……運命の人を探し出して欲しいのです」

「はぁ? 運命の方ですか……」

 何やら面倒くさそうな響きがすでにしている。

「私、(かれ)()(かおる)っていうんですけど、あのカレー屋さんに働いていた外国人の彼に一目惚れ、というか、一口惚れしてしまって……。どうにも彼のことが忘れられないのです」

 一見、大人しそうに見えるアラサー女子が、カレーのカプサイシン効果でヒートアップしたのか、それからと言うもの、のべつまくなく、息つく間もなく語りだした。いや、単に要諦をまとめて話すということに慣れていないだけにも見えたのだが。

 枯井薫が言うには、枯井家は代々、下北沢でカレー屋を営んでいたらしい。しかも、初代店主の枯井馬太郎は、かの日本初の本格インドカレー店、新宿中村屋でカレーを伝導したラース・ビハーリー・ボース氏の愛弟子にして無二の知り合いを自認する謎のインド人シェフと太平洋戦争下のビルマで知り合い、直々にインドカレーを学んだという。

 師匠であるインド人はボース率いる自由インド仮政府の義勇兵として、馬太郎の所属する大日本帝国陸軍と共にインパール作戦に従軍した。戦況は悲惨を窮め、死屍累々と餓死者が連なる退却路は白骨街道と呼ばれた。馬太郎は命からがらビルマに戻ったが、師匠のそのインド人は生死不明の生き別れとなる。

 やがて終戦を迎え、馬太郎は焼け野原と化した戦後の東京に戻り、カレーをひたすら煮込み続けた。師匠の冥福を祈りつつ。

 カレーを煮る。そして、それを地域住民に振舞う。それが枯井家の使命であり、家族の戦後史そのものであった。

「本格派にして、冒険的。それでいて家庭的な懐かしさもある、決して辛味だけが売りじゃない枯井家のカレー……。残念ながら、お店は、十五年前のバブル崩壊の余波を受けて潰れちゃったんですが、まさか、こんなところで、また、あの味に会えるなんて……。馬太郎おじいちゃんのカレーと、再び会えた気がしたんです。あの彼のカレーを食べた瞬間……。彼のカレー。あ、彼のカレー? あ、駄洒落じゃないですよ!」

「はぁ……」

 聞けば聞くほど、よく分からない女性、枯井薫である。

「で、時枝さんもさっき食べてたカレー屋さんに、私、彼に会うために通い詰めていたんです。でも、今日、行ったら、お目当ての彼はいないし、その上、店名まで‘ガネーシャ’とか言うのに、突然、変ってるじゃないですか。いったい、どういうことって、私、混乱しちゃって。今日のカレーは少しばかり甘く感じました……。通い続けて増えた私のこの体重、何とかしてって叫んじゃいたい気分ですぅ!」

 と言いつつも、すでに枯井薫は唾を飛ばして叫んでいる。

 つまり、そのカレー屋にいた店主か店員を探せという依頼か。 

「‘ガネーシャ’……? ああ、あの下北沢商店街の北側にあるカレー屋というか、インド料理の店だろ? 確か、半月ぐらい前は、同じ所に、別の名前の店があったな」

 同じくコタツでプーアル茶を啜っていた芹沢が話に入って来た。まだ駿の事務所でしぶとく油を売っていて帰る様子がない。

「芹沢さん、その店、知ってるんですか? さっきはカレーなんて安物だ、みたいな言い方してたのに」 

「いやいや、会長に奢らせるぐらいなら、もっと高いのがいい、と言っただけだ。実は、俺はこう見えても、カレーは飲み物だと豪語したタレントより二年も前に、そのセリフを吐いたほどのカレーマニアなのだ。仮にカレーソムリエの資格があるなら、間違いなく日本初の永久ライセンスを取るだろう。と、話が脇にそれちまったが……その人が言ってる前の店は、多分‘カレー・アルカイダ’とか言う店じゃなかったか?」

 芹沢の言葉に力強く、薫が、うんうんと頷いている。

「そうです、そうです。‘カレー・アルカイダ’! 下北を取り上げたカレー特集のグルメ雑誌には、間違えて‘カレー・アルカディア’って載ってたけど、アルカイダが正しいです」

「‘カレー・アルカイダ’のオーナーは確か日本人の若い男だ。ふざけて名前、付けたんだろうけど、そのうち外事警察やら、遂にはアメリカ大使館の職員……おそらくCIAだろう、そういう連中がやたらカレーを喰いに来て、店を閉める直前はあいつらが落とす経費で店が成り立っていたみたいだったな……。あんた、その日本人のオーナーを探しているのかい?」

 あんた、と芹沢に突然、人差し指を突きつけられて、薫は一瞬、きょとんとしてから、首を左右にぷるぷる振った。彼女が顔を振ると、肉付きのいい両頬まで、ぷるるんと震えている。

「ち、違います。私が探してるのは、そこのお店で働いていたコックの外人さんです……」

「へぇ、あんた、外人のコックに片想いしちゃったわけか! 本当はコックになりを潜めたアルカイダのテロリストなら、おもしれぇがな! ひゃふはひゃふはっ」

 芹沢はからかうような下品な笑い声を上げるが、当の薫は真剣な眼差しで睨み返している。

「で、枯井さん、そのコックさんのお名前は分かります?」

 駿の質問に薫は眉尻を下げて悲しそうな顔を見せた。

「いえ……。彼とは何度か、言葉を交わしたんですが、その、なんちゃらかんちゃら、とか言う母国語の名前が難しくて、私は彼の事を、トシちゃんと呼んでました」

 ― トシちゃん? 田原俊彦に似てるとか。

「彼、顔立ちが、なんとなく、カレー沢寿明じゃない……唐沢寿明に似てたので。それで、トシちゃん……」

 ― そっちのトシかっ! 

「枯井さん、その方の写真はお持ちですか?」

「いえ、持ってないです。あ、私、絵が得意なんで、彼の似顔絵を描きます」

 薫が自分のメモ帳を広げて、愛しのトシちゃんの顔をボールペンで描き始めた。

「そう……こんな感じかな……いや、違う……間違えた」

 描き上がった似顔絵は、かなり唇のぶ厚い奇怪な魔人顔だ。くしゃみをすれば土瓶から飛び出て来る魔法使いのアニメを思い出させる。薫の画力は参考にならないと見ていいだろう。

「……他に、手掛かりはありませんか?」

 薫は肩に下げていた革製のポシェットから一枚のハンカチを取り出した。ハンカチには茶色い染みが付いていた。

 ― もしや……。

「そのお店のテーブルにこぼしたカレーを、このハンカチで拭いたんです。だから、ここについているカレーと同じ味を探せば、多分、彼に行き着くと思います。舐めてみます?」

 薫はそう言って、染みのついたハンカチを駿の顔に近づけて来た。思わず、駿は上体ごと後ろに仰け反った。

「駿はアルカイダのカレー、食べたことないだろう? カレーソムリエの俺が代わりに舐めてやろうか?」

 芹沢がハンカチに手を伸ばすと、薫がすぐに引っ込めた。

「あ、あなたは舐めちゃダメです。時枝さんならいいけど……」

「何ぃ? 駿はよくて、何で俺はダメなんだ? 差別じゃねぇか」

 言い合いを始めようとする二人の前で、駿がわざとらしく咳払いをした。

「枯井さん、とにかく依頼の趣旨は分かりました。で、報酬ですけども……当事務所のホームページは見られてないようですが、海外への捜索は基本、お一人につき、五百万円からです」

 外国人シェフなら、すでに帰国してしまった場合もあり得る。

「で、でも、トシは……彼はまだ国内にいると思います」

 食ってかかる薫を前に、駿が腕組みして、ううんと唸った。

「そうですね……。国内の捜索でも最低五十万は着手金として、まずはいただかないといけません」

 ― これで、乗ってくれば本気と見ていいけど……。

「分かりました。では、明日、お持ちします!」

 ― ええ! ほんとに払うつもりなの?

 薫が発した予想外の一言を聞いて、傍にいる芹沢と麗華が、やんややんやと喝采を上げる。

「よかったな、駿! やっと、たまった家賃払えるじゃねぇか」

 ― お客さんの前で、そんなこと言わないで……。

「センセイ! 明日、来月分の給料、ワタシに先にくれよ!」

 ― まったく、麗華のヤツ、自分のことばっかだな。

「では、枯井さん。明日、着手金を受領次第、ただちに捜索に着手します」

 これで時枝国際探偵事務所が目下、抱える案件に野良ネコ探しとは別に、謎のカレーシェフの行方を追う依頼が加わった。


  2 ネパールのダル(豆)・バート 


「時枝さん。そんなにふて腐れてると、せっかくのカレーが美味しくないですよ」 

 口に運ぶスプーンの手を止めて、薫にたしなめられた。

 が、駿が不機嫌になる原因を作ったのは彼女である。

 昨日、約束したはずの着手金五十万は、今日になって、勝手に五万に減額されたうえで、薫に半ばゴリ押しで依頼を請けさせられた。駿は断固として受任を拒否したが、とりあえず、とりあえずと言って、強引に引き受けさせたのは例のごとく芹沢と麗華だ。しかも、その五万円は駿が一度も触れることなく、目の前を素通りして、麗華の財布の中へと姿をくらました。生活費に充てると言われたが、使いみちの詳細が明かされることはないだろう。

「着手金の残りは、そのうち工面しますから。それより、トシが見つかるまで、毎日のカレー代は私が払いますから」

 ― ええ! 見つかるまで、毎日、カレーって……。

 さすが、枯井家のDNAは年がら年中、カレーを食しても耐え得る胃袋を備えているようである。薫は大口を開けてひたすら幸せそう食べ続ける。若干、昨日より頬が膨らんでいるように見えるのは駿の目の錯覚だろうか。

 今、来ている店は、昨日も食べに来たインドカレー店‘

 ガネーシャ’だ。店を選んだのは駿の発案である。以前、ここでやっていた店、カレー・アルカイダについて何か知っていることがないか、店の人間に聞こうと思ったからだった。

 駿は基本、一人で搜索対象者の追跡を行うが、薫が東京都内は探すのに付き合うと言ってきかない。もちろん、昼飯代も報酬のうちということで、こうして一緒にランチを取っている。

 だが、手掛かりを少しでも期待していた南アジア人ふうのシェフは何を聞いても『ワタシ、ワカラナイネ』を繰り返すだけだ。早速、行き止まりにぶち当たった気分を味わう。

「おい、カーンはどこにいるんだ? 今日は店に来るのか?」

 カウンター席でカレーを食べていた初老男性がキッチンで調理をしているシェフに何事か尋ねている。駿は自然と会話に耳を傾けた。

「シャチョウ、ドコカ、ワタシ、ワカラナイネ」

 カーンというのは、パキスタンやバングラデシュのムスリム(イスラム教徒)に多い名だ。社長と答えたからには、カーンという人物がこの‘ガネーシャ’の店主だろうか。

「ワカラナイ、ワカラナイって、いつもそうじゃないか。いつになったら、ここの火災保険金、払ってくれるんだ? 本来なら、契約時に払うもんだぞ。泣きつかれたから、わしが立て替えてやったのに。ったく、いっつも、どこか行きやがって……」

 外国人が経営する店は、この手の金銭トラブルは確かに多い。駿は、初老男性が呟いた保険金や契約という単語に弾かれたように立ち上がると、すぐ傍にまで駆け寄った。

「あの、すいません。ひょっとして、ここのお店の大家さんか、管理してる不動産屋さんですか?」

「んん? ここの物件の管理人だけど、お宅さんは?」

 男性はあっさりと認めた。駿は以前、この店で借りていた人間について、出来るだけ丁寧な口調で質問した。

「前の店子について教えて欲しい? ダメダメ。ほら、最近、個人情報の保護とか、何とかうるさいでしょ。お宅が警察とか法律関係の人なら話は別だけど、そんな簡単に言えませんや」

 駿はダメ元で、東京都知事が発行した探偵業者届出済証のコピーを恐る恐る男性に見せた。ちなみに枯井家とカレーのつながりも簡単に説明する。

 話を聞き終えると、男性はえらく感動したようで、うっすら涙まで浮かべているではないか。

「そうか……。いやあ、俺の親父もビルマのインパール作戦で命からがら生き延びた者の一人でね。枯井馬太郎さんだっけ? 知ってるよ。たしか、かなり前に店を閉めたけど、商店街にあったよね? ‘ウマカレー太郎ちゃん’って店だろう?」

 男性は枯井家のカレーを覚えていた。しかも驚いたことに常連さんだった。

 薫がカレー皿を手にしたまま、カウンター席に歩み寄り、私、馬太郎の孫娘の薫です、と名乗ると男性がおでこに手を当てて泣き笑顔を見せた。

「そうかぁ。あんた、シモキタのカレー伝道師、ウマ爺ちゃんのお孫さんかぁ。あんたも立派なカレー好きになって……こいつは泣けてくらぁ。こりゃ、一肌、脱がなきゃ、インパールの戦友である死んだ親父に顔向けができねぇ。よしっ、前の契約書を見てやっから、ちょいとうちの事務所に来な。おっと、その前に馬太郎さんの孫のお譲ちゃん、その食べかけのカレーが冷めねぇうちに、ぐいっと喰っちまいな。待っててやっからよ」

 腹を割って話せば、個人情報も漏らす良い人のようだ。


 ‘ガネーシャ’の店を管理している不動産屋からの情報によると、前にあった‘カレー・アルカイダ’の借主は伊沢(いざわ)健吾(けんご)という二十八歳の男性だった。連絡先の携帯番号まで教えてくれると言われたが、さすがにそれを聞くのは躊躇われた。でも、いちおう有力な情報として取っておく。

 それよりも情報として有難かったのは、伊沢が下北沢とさほど離れていない三軒茶屋で別の飲食店を始めているという話だった。契約に携わったのは別の不動産屋だが、伊沢が新しい店の内装工事の業者を初老男性から紹介してもらったそうだ。

 その工事業者とも連絡を取り、新しい店の住所もすぐに分かった。これで今日中に、お目当ての唐沢寿明似の外国人男性が見つかれば、逆に頂戴した五万が多過ぎるような気がして、駿は少しばかり申し訳なく思った。


 夕方五時過ぎ。東急世田谷線の三軒茶屋駅を降りて五分ほど歩いたところの住宅地の一角に伊沢がしているという古めかしい洋館ふうの店があった。

 店名は‘カレー・タリバン’。

 ― また、こんな人目を引く、テロリストチックな名を……。

 店の看板を駿と共に仰ぎ見る薫の瞳はドラマチックな再開を期待してか、爛々と輝いているように見えた。

 店内に入ると、ほのかにお香の匂いがした。アジアンテイストの調度品が周囲に配された掘りコタツ式の座敷席が六つある。入り口のすぐ右側はガラス張りになっていて、南アジア人ふうの白いエプロンを着た男がタンドール窯に長い鉄串を突き刺している。タンドリーチキンでも仕込んでいるのだろう。

 駿は薫に顔を向けるが、首を振って否定された。タンドール窯の前の男は唐沢寿明というより、どちらかと言えば、木梨憲武を浅黒くした感じだ。インドというよりネパール人っぽい。

 その右奥のキッチンには顔は完全に見えないが別のコックが野菜を刻んでいた。駿は薫の横顔を見るが、彼じゃないと小首を傾げて見せられた。

 キッチンを巡るようにL字になったカウンター席があり、その一番後ろに無精髭を蓄えた若い日本人男性が煙草を咥えて座っていた。手元には電卓とノートが見えた。売上計算でもしていたようだ。

「あの、お店、六時からなんすけど……」

 歩み寄って来た駿と薫を目にして若い男性が口を開く。

「ええと、あなた、店長さんですか?」

 駿が確認する。

「はぁ、まぁ、そうっすけど……」

 つまり、彼が伊沢だ。

 駿はこの店を訪れた経緯をかいつまんで話した。だが、話を聞く伊沢の表情は余り優れない。

「唐沢寿明? 似てるって言えば、似てましたかね……。そうそう、シモキタの店で雇ってたあいつは、ラーマンですね」

 ラーマン。

 薫が恋焦がれるカレー王子トシちゃんの実名が、遂にここで明らかになった。

「そのラーマンさんは、今、こちらのお店におられますか?」

 駿の問いに、伊沢が煙草を灰皿でぐっと押し付けて消しながら、大きくため息を吐き出した。

「いや……あいつは消えましたよ。あっちの店を閉める最後の日に、レジにあった金を全部、持ち逃げしてね」

「え! そうなんですか……」

 窃盗犯。恋した男の新たな一面を知って薫の表情も曇る。

「いや、何、あの店、ああいう名前だったから、妙に私服刑事くさいのがメシを喰いに来てたんすよ。それで、あの日、冗談でラーマンに『お前、まさか、アルカイダじゃないよな?』って聞いたら、えらいブスっとして……。いつも閉店後の掃除を任せてるんすけど、俺がちょっと店を出た隙に消えてましてね。レジを開けたら、中にあった売上の金がすっからかん。以来、何の連絡もありませんよ」

「そうでしたか……。で、ラーマンさんって、ちなみに、どこの国の人なんですか?」

 せめて国籍が分かれば、同国人のコミュニティを伝って情報が得られるかもしれない。

「実はラーマンについては、それが本名かどうかも分からないんです。パスポートはって、聞いたら失くしたって言うし、どうもビザもあるのかないのか怪しい。俺ね、二十代前半から、この手のエスニックレストランやってるから知ってるんすけど、コックができる正規のビザがないのに雇ったら、入管から罰金で二、三百万請求されるらしいんすよ。だから、この際、あいつのプロフィールについては、あえて聞かないことにしようと思ったんです……。三ヶ月ぐらい前かな? 月三万円でいいから雇ってくれって、ラーマンの奴が一週間ぐらいメシも喰ってないフラフラの状態で前の店に突然、倒れ込んで来たんすよ。料理はできるのかって聞いたら、カレーなら任せとけって言うから作らせたら、腕だけは確かでしたね。でも、どこの国の人間か、年は何才か、何で日本に来たか、あいつの経歴は全然知りません。って、ここまで喋っちゃったけど、そちらさん、警察とか入管の人じゃないですよね?」

 伊沢はやたら冗長的に全て話し終えてから急に心配そうな態度を見せた。駿は、もちろん違います、私は国際探偵です、と名乗って軽く営業がてら名刺を渡しておく。

「あの、タンドール窯のところにいるコックさんにも話を聞いていいですか?」

「ああ、ラムですね。あいつはネパール人です。でも、ラーマンとは確か日本語で話してましたよ……」

 駿は客席に出てきたラムにラーマンのことを聞いてみた。店長の伊沢が把握してないことをコック同士が話していることもある。だが、ラムは「ワタシ、ワカラナイネー」の一点張りだ。ラムの発する日本語はある程度、こちらの暮らしに慣れた発音に聞こえるが、どうもわざとポイントをずらした答え方をする。

 ラーマンがレジの金を持って逃げたという‘カレー・アルカイダ’の最終日だが、ラムは風邪を引いて店を休んでいたそうだ。ちなみに彼はネパール料理のコックとしてのビザはちゃんと持っていると外国人カードまで見せられた。

 駿はキッチンの奥で作業をしているもう一人のコックにも話を聞きたかったが、どうも仕事が忙しそうで話かけるタイミングがなさそうだ。

 加えて、愛しのラーマンが盗みをしたことにショックを受けたのか、薫のテンションはかなり低い。

 駿たちは店主の伊沢に一礼して、‘カレー・タリバン’を後にした。


 三軒茶屋にある別の南アジア系民族料理店‘サガルマータ’に駿と薫は打ち合わせをしに足を踏み入れた。ちなみに、サガルマータはネパール語で世界最高峰エベレストを示す。

 始めはチャイだけを頼むつもりだったが、薫が『心身共に疲れました』と言って、早めの晩飯もついでに注文した。

 二人が頼んだのはネパールの国民食とも言うべきダル・バートだ。現地の言葉でダルは豆、バートはごはんを意味する。いわゆる豆カレーの定食だ。銀の大皿の中央にサフランライスが盛られ、銀製のカップに挽き割り豆のスープカレーが入っている。それに野菜の炒め物タルカリと油っぽいジャガイモのネパールふう漬物アルコアチャールが添えられている。

 全て野菜でヘルシー志向のアラサー女子には人気のひと皿だ。

「時枝さん……。まさかトシちゃん、もう警察に捕まってるってことは無いですよね?」

 名前がラーマンらしいということが分かっても、薫の中ではまだトシちゃんのようだ。

「どうでしょうか……。さっきの店のオーナーの言い方だと、別にレジ泥棒を警察に届けたわけではなさそうです。もし、届けてビザのない外国人を雇っていたことがバレるほうが、面倒なことになるでしょうからね」

 だとしても、ビザのないラーマンがどこぞで警官に職務質問されるだけで、即、アウト。入管に引き渡され、強制送還だ。

「あの、これは……個人的な質問ですが、枯井さんは、その、ラーマンさんを見つけて、結局、どうされたいんですか?」

 駿の問い掛けに薫はアルコアチャールの油でネトネトになった唇をもぐもぐ動かしてから飲み込み、答えに応じた。

「私、トシちゃんを見つけたら、あの人にコックになってもらって、もう一度、シモキタで‘ウマカレー太郎ちゃん’を復活させたいんです。私が看板女将になって……。来年あたり、二人は結婚。それが私の未来予想図なんです」 

「そうだったんですか……」

 まさか薫が単なる一口惚れから行方知れずの外国人と結婚まで意識しているとは思わなかった。そして、祖父馬太郎の意志を受け継ぎ、老舗カレー屋の復活まで考えているとは。

 まさに枯井家のDNAのなせる業だ。

「あの、失礼ですけど、時枝さんって、おいくつでしたっけ?」

「私は三十一です」

 駿が平然と答えると、えー、全然、見えない、と薫に笑顔で感想を漏らされた。見えないというのは、年上に見えるということか、下に見えるということなのか、聞こうとしたが止めた。

 今度は自分の番だとばかり、駿が薫に聞く。薫は少し照れ臭そうに俯いて、水を少し飲んでから、もじもじと答えた。

「ああ、私……今、三十……三です。あ、でも、そうは見えないって、よく周りから言われるんですよ。たまに二十代とか」

 ― むむ。自分で言うか? まぁ、確かに目は大きいから得する顔立ちだ。それに、ぽっちゃりな人は年齢、分かりにくいのは事実だけど。

 そしたら、また薫が唐突に話を始めた。

「私、‘アルカイダ’でトシちゃんと初めて会ったとき、DVのカレから逃げてる最中だったんです。そんなとき、彼が作ってくれた、汗が出るぐらい、じんわりと辛いカレーで心があったかくなっちゃって……カレーへの、いや彼への恋心に目覚めたというか……。そういうことって、人生にはありませんか?」

 ただ、ふつうにラーマンの作るカレーが辛かっただけで、彼女の心情など彼は知る由もないだろうが、そんなことは一言も触れず、駿は「あ、あるかもしれませんね」と相槌を打つ。

「その……DVされた彼氏さんとは、今、大丈夫なんですか?」

 ふつうの彼氏でも今の薫の行動には嫉妬心を抱くだろうが、そういう交際相手なら最悪、刃傷沙汰にもなりかねない。

「そのカレ、ギャンブルで作った借金で闇金に追われていて、今のところ、こっちには戻って来てないから大丈夫です」

 ― 大丈夫というか、一時的に離れてるだけかもしれない。

「ところで、時枝さんは……カノジョいないんですか?」

 ― ったく、何でこっちの話になるんだ?

「いやー、別にいません……」

「別にいない? ビミョーな言い方しますね? あの事務所にいた中国のコと付き合っちゃてるんじゃないんですか?」

「いやー、あれはただの秘書兼同居人で……」

「へぇ、ホントですか? 時枝さんって、すらっとしてるし、顔立ちも母性本能くすぐられるタイプだから、モテると思うんだけどな……。ひょっとして、地元とかに許嫁(いいなずけ)がいるとか?」

「いやいや、いませんって。私の話はもういいでしょう……」

 許嫁という言葉には苦い記憶がある。

 神戸出身の駿だが、関東の国立大学を出て就職試験を受けたのは、大牟田が会長を務めていた総合商社、三橋物産だ。

 だが、帰国子女でもなく、海外での留学経験のない駿はあっさりと三橋の面接に落ちた。この際、海外で何かしら経験を積んでやろうと、駿は青年海外協力隊に応募し、東アフリカのマラウイに二年間、派遣されたのだ。

 マラウイで独自の仮面文化を持つチェワ族と裸の付き合いをする駿は、部族の長に大いに気に入られた。そのうち族長の娘と結婚して、マラウイに永住してくれと懇願までされた。

 駿はチェワ族の文化や風俗に興味を抱いていたが、娘は正直、自分の好みではなかった。だから、ある意味、逃げるようにしてマラウイを立ち去らなければならなかったのを覚えている。

 そんな昔話を薫にしても仕方がないので、特には言わない。

 ただ言えることは、人を好きになるのも、人から好かれるのも、人間の営みにとって、とても大切なことには違いない。

 まだそんなに国際探偵の依頼数をこなしているわけではないが、そういう人の気持ちが、自分の仕事を産み出しているのだと常々思うのだ。


 駿と薫は店の外に出た。いろいろと関係のない話をしてチャイをお替りしていると、もう時計の針は九時を過ぎてしまった。

 ラーマン搜索の方法については、また改めて考え直さないといけない。駿はラーマンという名前から彼がムスリムだと考えた。それでいて、唐沢寿明似の東洋人っぽい風貌なら、あたりを付けるのはインドネシアか、マレーシアか。バングラデシュ人もミャンマー国境付近に住む民族はインド人のようなヨーロピアン系の顔より、どちらかと言えば東洋人的な風貌だ。

 その辺りの連中が集まる民族料理店を薫と訪ねるカレー行脚がまた明日から続くと、肝に命じた。

 店を出て、駅の方角へ歩き始めてから三分。駿はふと思い当たることがあって、さっき食事をした民族料理店‘サガルマータ’へ戻った。

 ラーマンのいた店の主人は日本人だったが、コックはネパール人だった。なら、さっきの‘サガルマータ’のコックたちとも繋がりがあるかもしれない。

 人の良さそうなオーナーシェフは、やはり‘カレー・タリバン’のコックを知っていた。最初、ラムの名前を出されたが、駿は他のコックは知りませんか、と食い下がる。ラムはラーマンが去った日、風邪で休んでいたので、これ以上、話を聞いても進展はない。駿は、もう一人、キッチンの奥で作業していたコックを思い返していた。

 ‘タリバン’のもう一人のコックはカルキ・プラヴィンと言うネパール人らしい。そのカルキと直に携帯で連絡を取ると、向こうも駿たちに話をしたいことがあると逆に言われた。

 こうなれば、渡りに船である。明日の朝八時半に三軒茶屋駅前の喫茶店で落ち合うことになった。


 翌日の午前八時半。

 駿と薫は指定された喫茶店で、カルキ・プラヴィンと向かい合っていた。まだ二十代半ばの若い男で、とても物腰が低く、愛嬌のある子どもみたいな顔をしている。すぐに好感が持てた。

「ラムさんが、あなたに昨日言ったことは、ウソ入ってます」

 カルキは笑みを絶やすことなく口火を切るが、言ってることはショッキングな内容だった。とりあえず、彼の話す日本語はかなり聞き取り易いので安心して会話ができる。

「ウソ……? どこの部分がですか?」

 駿の質問に、カルキは頼んだモーニングのバタートーストをかじりながら、まくし立て始めた。

「まず、レジのお金、ラーマンさん、盗ってませんな。盗ったのはラムなんだな。あいつが、ラーマンさんに、まず、お金、十万出せ、言いました。出さないと、お前がここに働いてるを、入管とか警察に言うぞ、と言いますな。ラーマンさんが、ワタシお金ない、て言うと、ラムが彼の荷物とか調べ、彼の身体を、チェックして、お金一万円、とりましたな。それでも、お金はそれしかないのから、あの日、ラムは刑事を呼びました。そしたら、ラーマンさんが急にいなくなりましたな」

 どうやらラーマンが‘カレー・アルカイダ’から消える原因を作ったのは同僚のコック、ラムにあったようだ。

 カルキの話のおかげで、薫の表情がだいぶ晴れやかになった。

「ビザがないのにつけこんで、お金を強請るなんて、ひどいわ」

 薫が不意に漏らした言葉は日本人なら誰しもが抱く率直な印象だろう。しかし、在日外国人の世界では、この手のことは日常茶飯事なんだと駿は思う。よく金が無いのは首がないのと一緒と言うが、在日外国人たちにとって、ビザがないのは即ち首がないのと同じなのだ。ひとたび通報されて拘束されてしまうぐらいなら、もはや何もかも捨てて、逃げ出すしか道がない。

「でも、ラムが刑事を呼んだのに、店長の伊沢さんは警察には届けてないみたいだったけど」

 駿の指摘にカルキが大きく頷いてから、言葉を継いだ。

「ラーマンさんを探してる刑事は、スペシャルな刑事ですな。交番にいる警察とかとは違うみたいなんだな」

 ― スペシャルな刑事……。つまり、公安、外事警察の類か。

 それにしても‘カレー・アルカイダ’に働いているからと言って、真剣にマークしないといけないものなのか。

 それこそ、笑い話のネタである。これが本当なら、日本のインテリジェンス能力も底が知れる。

「それから……ラーマンさんが今、働いてるお店、ワタシ、知っているんだな。実は、そこはワタシが紹介したんですから」

 カルキがしれっと言ってのけた言葉に、駿と薫は互いの眼を見合わせてから、再び彼に向き直った。

「で、どこにいるんです?」

 ほぼ同時に二人は叫んだ。カルキは思わせぶりな笑みを浮かべつつ、たっぷりと時間をかけてコーヒーを飲んだ。

 それから、自分の右手をぱっと開いて見せる。

 最初はよく意味が分からなかった。やがて痺れを切らしたカルキが自分の口ではっきりと言った。

「ラーマンさんの居場所……五万な」

 つまり、彼も同じ穴のムジナということだ。



  3 パキスタンのカライ(焼きカレー)


 カルキ・プラヴィンから情報を引き出す交渉はあれからたったの五分で肩が付いた。

 薫がポシェットから一万円札を一枚取り出し、これしかないの、ごめんね、を繰り返すと、カルキはあっさりとその額で承諾して、電動仕掛けの人形のように、ぺらぺら喋り出した。

 それから、ラーマンが働いているというレストラン名と電話番号を紙に書き、ご丁寧に携帯電話の番号まで教えてくれる。

 だが、さすがにいきなり、その番号には掛けられない。

 カルキが最初に電話をしてあげようかと提案して来たが、何しろ相手はビザが切れたらしい不法滞在者だ。ここで警戒心を抱かせて、また居場所を変えられると厄介なことになる。

 カルキには、とくに電話も何もしないように釘を差し、二人はラーマンの新たな就職先へと向かった。

 次の店も電車を使えば、すぐのところだった。

 午前十一時前に二人は小田急線参宮橋駅に着いた。明治神宮が右手に見え、落ち着いた雰囲気を匂わせつつも、駅周辺は割り合い賑やかなスポットだ。

 お目当てのレストランはその界隈ですぐに見つかった。

 店名はずばり‘モヘンジョ・ダロ’だ。日本では有名な古代インダス文明の遺跡だが、現地のパキスタン人にそれを言っても『?』という顔をされることが多い。駿は一度、モヘンジョ・ダロの古代遺跡に訪れたことがある。正直、観光には力を入れておらず、酷暑と砂埃で相当、疲れたことだけが記憶に残っていた。

 表通りに置かれた‘モヘンジョ・ダロ’の看板には南パキスタン家庭料理という日本語の下にアラビア語っぽい蛇のように、うねった文字が併記されている。パキスタンの公用語であるウルドゥー語だろう。発音自体はインドのヒンディー語とほとんど変わらないが、イスラム教の聖典コーランを読む宗教上の関わりからか、ウルドゥー語はアラビア文字を用いる。

 ランチタイムには少し早いけど、二人は構わず、扉を開けて店内に入った。逆にまだ客のいない今の時間帯のほうが話を聞き易い。

「イラッシャイマセェ、ア、デモ、十一時半カラネ」

 褐色の肌に口髭を蓄えた南アジア系の初老男性が、開店前に入店して来た二人に対応する。顔つきが同じ南アジアでもインドやネパールより断然彫りが深く、欧米的なコーカソイドに近い。おそらく店名に偽りなく、正真正銘のパキスタン人だ。

「準備中のお忙しいときに、すいません……。私たち、実はある人を探してまして……」

 駿はラーマンのことを男に尋ねた。男はこの店の店主でラティーフと名乗った。彼が言うにはラーマンは確かにこの店に二週間前からいるらしい。

 それを聞いて、薫が、やったね、と駿の肘をぎゅっと握った。

「今、ラーマンは買い物してるのネ。あなたタチ、チャイでも飲んで、ここで待つがイイネ」

 ラティーフの案内で二人は一番奥のカップルシートに腰を下ろした。暇つぶしにと、薫がテーブルの隅に立てかけてあるメニューに手を出した。彼女は一目見て、美味しそう、と呟く。

「へぇ……。パキスタンの焼きカレー、カライかぁ。鉄鍋で挽肉と野菜をスパイスで焼き上げてるのか。こういうカレーって見たことないな~」

 薫の呟きに相槌を打つことなく、駿は置かれたチャイを手に取り、メニューには目もくれず、黙って飲んでいた。

 ラーマンが買い物から戻って、薫と会えれば、自分の仕事はそれで終わる。今日のランチぐらいはスパイシーな料理から離れて、うどんかそばでも食べようと考えていた。

 だが、この珍しいカレー料理を目にした薫の食欲はもう留まるところを知らないようだ。

「あのー、ラティーフさーん、このカライっていう焼きカレー、二人分、注文していいですかぁ?」

 キッチンの奥で料理の仕込みをしていたラティーフが、顔を上げてイイヨー、と声を上げた。

 駿の意見も聞かず、勝手にまたランチはカレーになっていた。


 注文してから二十分後、ようやく姿を現したカライセットは八百円という値段以上に豪華な見映えがした。

 挽肉のキーマと野菜と肉を団子状にしたコフタがドライカレーの大皿に盛られ、プラウと言う、やや塩味の付いたパサパサのインディカ米が別皿で出された。それにミニサラダまで付く。

「やっぱ東京って、食に貪欲なところですよね。ここにいるだけで、世界中の料理が楽しめちゃう」

 もりもりと、スプーンをシャベルカーのように動かし、すでに大皿の大半を制覇したところで薫が料理研究家のようなことを言い出した。それには駿も同感だ。そもそも日本人には文化や宗教を理由として、食物や料理を排除するという概念がほとんどない。余りにゲテモノ嗜好や愛玩動物を食材にするような料理は忌避されるが、それ以外なら、まさに美味ければ何でもありの来るもの拒まずの気風がある。

 ― 確かに変わってて美味しいが……。そんなことより、ラーマンがいっこうに帰って来ないけど。どうなっとるんじゃい?

 駿は店主のラティーフにラーマンさんはまだ帰って来ませんか、と何度も聞くが、ただ肩をすくめて見せられるだけだ。

 駿は手早く食べ終えて、トイレに向かった。後ろ振り返ると、鼻唄まじりで、お代わりしたカライにプラウを浸して、まだ食べ続けている薫の笑顔がそこにあった。ここでもまた、ラーマンにたどり着かなかったらと思うと、何だか彼女が可哀相に思えて来た。カレーを食べ続ける表情は幸せそうだけど……。

「ちょっと、アナタ、イイカ?」

 トイレから出たところで、駿はラティーフに呼び止められた。

 店員でもないのにキッチンの奥へと連れて行かれる。香辛料が塗された食肉の香ばしい臭いが鼻についた。

「アナタ、何でラーマン、探してる?」

 ラティーフの口調はシンプルだが、別に表情は怒っていない。

 中途半端にごまかすより、ここは誠意を見せておこうと、駿はラーマンが薫の一口惚れの相手だとはっきり伝えた。

 それに、彼女はシモキタにあった知る人ぞ知るカレーの名店‘ウマカレー太郎ちゃん’の創業者の孫娘でラーマンと結婚して彼を看板シェフにしたい野望があるとも伝えた。かなり独善的かつ奇想天外な話だが、ラティーフは引かずについて来てくれた。しかも、ワカル、ワカルね、と納得までしてくれている。

「愛のカリーね……」

「……はぁ?」

「あのオンナノコ、ラーマン得意ノ、愛のカリーにハマってしまったクチなのね……」

 ラーマン得意のということは、カレーを媚薬に用いて、ナンパを繰り返しているふうに聞こえなくもない。だが、ラティーフが言うにはラーマンはとても真面目な男とのことだ。

「でも、ラーマンはもう、ここに戻ることはナイのね……。カウンターにいるコートの男を見るのね。あっ、今、見たらダメなのね。帰りし、チラッとだけ見るのね……。あのコートの男、スペシャルな刑事ね。あの男からラーマンは逃げてるのね。だから、もう彼はここには戻らないのね」

 ― 何! 今、この店に、例のスペシャル刑事が来てるのか!

「ラティーフさん、どこかラーマンさんが行きそうなところ、知りませんか? 私のクライアント、薫さんが、ぜひ彼と会って、もう一度、彼のカレーを食べたいのです」

「愛のカレーを?」

 そうラティーフに聞き返されて、駿は少しニヤけてしまったが、「そう、愛のカレーをです……」と合わせておいた。


 駿はキッチンから出ると、チャイを飲んでいる薫に、今日はラーマンが戻って来ないことを伝えた。背後には巨大なナンを袋状にして、中にキーマカレーを詰め込み、豪快にマイ・キーマカレー・サンドを作って頬張っているスペシャル刑事の存在を感じる。

 とにかく、詳細は彼女を店外に出してから話そうと決めた。

「私って、ほんとについてないな。まさか、またトシちゃんとすれ違うなんて……」

 店を出て即、薫が吐いたゲップはカライのキツい香りがした。

 ― いや、別にすれ違ってはいないんだけどな……。

 ラティーフから聞いた話を駿が始めようとした瞬間、後ろから、すみません、と声をかけられた。

 振り返ると灰色のトレンチコートを着て、背の低いずんぐりとした中年男性が立っていた。額は後退し、不摂生をしているのか肌艶は悪く、顎回りの無精髭も目立つ。そこら辺のくたびれたオジサンに見えなくもないが、銀縁眼鏡の奥に潜む両眼には油断ならない光を湛えていた。

 ― あのコート! スペシャル刑事か。

「は、はい……」

 立ち止まって怪訝な表情を浮かべる駿と薫に男は歩み寄って、私、実はこういう者でして、と一枚の名刺を渡してきた。

 警視庁公安部外事第三課第二係主任 警部補 丸山晋吾

 見た瞬間、駿は頭が痛くなった。やっぱりスペシャル刑事だ。

 本来、警察官が民間人に自分の職分を名乗るなら、ドラマのシーンでよくあるように、金バッジがあしらわれた警察手帳の身分証明書を提示しなくてはいけないはずだ。

 だが、身分を秘匿したい公安の人間はそれも省略したいのか。

「突然、すいませんね、お忙しいところを呼び止めてしまって。いや、さっきのお店で、ラーマンさんのことを店長さんに聞いてらっしゃいましたよね? お知り合いの方ですか?」

 丸山と名乗る公安刑事に質問をぶつけられ、二人ともすぐには答えられなかった。

 薫が視線を駿の横顔にちらつかせて来るが、自分からは何も喋ろうとはしない。

 この際、あなたに関係ないでしょう、とダッシュで走り去るか、それとも、彼のカレーに一口惚れしちゃったんですぅ、とアラサー女子の乙女心を包み隠さず曝すべきか。

「いや、僕たち、彼のカレーのファンでしてね。それでちょっと、あいさつしたいな、と思いまして」

 駿は咄嗟に誤魔化した。ラーマンのファンと言っても、彼がさっきの店で働くようになって、それ程、経っていない。不自然に思われはしなかったか、不安になったが、丸山はそれには何も疑問をぶつけて来なかった。

「それで、なんで、警察の方が外人のコックさんを探しているんですか?」

 これぐらいは聞いてもいいだろう。一般市民のふつうの野次馬根性としても、まっとうな感覚だ。

「ま、本来なら、こんなこと、立ち話で言えることではないのですが」

 丸山の勿体ぶった言い方に駿は少し腹が立った。

 ― 呼び止めたのは、あんただろうが。

 丸山は一枚のスナップ写真を取り出して二人に見せた。

 どこかのパーティ会場の風景。大勢の正装した人たちが写っている。その中で一際目立つのが、中央で誇らしげに胸を張っている顔の大きな熟年男性だ。

 確か『友達の友達がアルカイダ』とか珍奇なコメントを連発するので有名な閣僚経験もある与党の大物議員だ。

「この写真の端に移っている白人男性ですが……テレビとか報道で見たことありませんか?」

 丸山が指を差したのは、その政治家と同じテーブル席の隅で微笑を蓄えている茶色の癖の強い巻き毛が印象的な男だった。

「えーと、見たことあるかな……。私、しばらく日本を留守にしてたんで、もし三年以上前のことなら知らないですけど」

「なら、ご存知ないかな? そちらのお嬢さんも見たことありませんかね?」

 もうお嬢さんと言える年ではないが、丸山にそう言われて悪い気はしないのか、薫はいちおう笑みを見せてから首を傾げた。

「なら、言いましょう。この白人はアルジェリア系フランス人でアルカイダ派生組織の極東支部幹部アリエル・テュポンです」

 なんと。そういう輩が堂々と日本の政治家の政治資金集めパーティに参加しているとは。本当にお友達なのかもしれない。 

 そう言えば、このフランス国籍のアルカイダ・メンバーとは何ら関係のないバングラデシュ人が警察に逮捕され、その後どうなったかというドキュメンタリー番組を見たことがあった。

 ― その男とラーマンがいったい何の関係が……。

 駿が抱いた疑問はすぐに丸山が明らかにしてくれた。

「この男はタイでビザ・ブローカーもしていたんです。高額な報酬と引き換えにタイの偽造旅券を使って、ラーマンのようなミャンマー難民をバンコク経由で日本行きの便に乗せ、七十二時間滞在のトランジットビザで成田入管を突破させる……。その手口でもう八十人ぐらいは入国させました。もちろん、その収益はアルカイダなどの国際テロ組織へと流れます。何としても、我々はラーマンを確保して資金の流れを解明したいのです。どうか、ご協力、願えませんかね?」

 駿は丸山の説明を聞いていて、どうも腑に落ちない。それなら、ブローカーの親玉であるフランス人を捕まえるべきであって、ラーマンのような単なるユーザーを確保するのに、どれだけの意味があるのだろうか。

 ― 待てよ。ラーマンを自分たち子飼いの内部協力者にするつもりなのかもしれない。合法的なビザを取引材料にして。

 自分たちが犯した失点を立場の弱い人間を踏み台にして穴埋めしようとする魂胆が透けて見え、駿は口の中が苦くなった。

 去り際、丸山に名前と連絡先を聞かれて、駿と薫は渋々、答えた。名刺をすでに受け取っておいて、こっちだけ名無しの権兵衛を貫く訳にもいかない。

 丸山が立ち去ってから、駿はすぐに芹沢に電話をした。芹沢は警視庁の上層部とコネクションがある。丸山がどんな人間か、まず調べておいて損はない。

 芹沢との電話を終えると、再び駿は薫と向き合った。

 彼女には‘モヘンジョ・ダロ’の店主ラティーフから聞いた切ない現実を伝えておかなければならない。

「トシちゃんって、ミャンマーの人だったんですね……」

 喋ろうとして、薫に機先を制された。

 ラーマンの国籍については駿も驚いていたが、実はすでにそれもラティーフから聞かされていた。

「そう、彼はイスラム系ミャンマー人のアブドゥル・ウダイ・ラーマンって言うのが本名らしいです。さっきの店のオーナー、ラティーフさんの話だと、タイ国籍のイスラム教徒として入国したみたいだけど、それは偽造パスポート。さっきの丸山氏の話だと、それをアルカイダ関係の人から買ったらしいです……」

「まさか、ほんとにアルカイダなんて、冗談マジできついわ」

「いや、ですから、アルカイダのメンバーではないんですって……。それより、彼が次に現れる場所が分かりましたよ」

「ええ? どこなの?」

「代々木にあるモスク ― イスラム寺院です」

 結局、この日は薫にとって一番、重要なことを駿は言い出せなかった。

 ま、所詮は、男と女、会わせてみれば、なんとかなると安易に思ったのは間違いだったのだろうか。



  4 ミャンマーのチンバウンヒン (カレースープ)


 その週の金曜日がやって来た。

 駿と薫は代々木上原にあるイスラム寺院、東京ジャーミィの外観の豪壮さに少しばかり度肝を抜かれていた。戦前にソ連から亡命したトルコ系ムスリムによって建てられたこのモスクは駐日トルコ大使館によって現在、管理されている。

 金曜日はイスラム教徒には欠かせない礼拝の日だ。東京近郊に住む在日ムスリムたち ― 多くはトルコ、パキスタン、バングラデシュ人や少数のナイジェリア人たち ― が正午の祈りを棒に続々と巨大モスクの門へ入っていく。

 当然、イスラム教徒ではない二人は礼拝堂に入ることはできない。見学できる時間帯もあるようだが、金曜日は完全に礼拝者のために門は開かれている。

 だが、駿の狙いは実はモスクそのものではなかった。

 モスク前面の大通りである井の頭通りの裏路地にあるミャンマー料理屋‘ネオ・ロヒンギャ’がラーマンを待ち受ける舞台だ。店名が示すロヒンギャは、ミャンマー西部アラカン地方に集住するイスラム系民族だ。仏教を厚く信仰し、軍事独裁体制を敷くミャンマーが少数民族に対する虐殺を続けていることは有名である。とりわけタイへは海路で多くのロヒンギャが難民として流入したが、現地では単なる経済難民と見られ、劣悪な生活環境で暮らしている。

 ラティーフが言うには、今日の金曜礼拝はラーマンにとって特別な日なのだ。五年前のこの日、ラーマンは不法滞在中の仲間を病気で失った。死因はインフルエンザを悪化させた肺炎で、病院に行きさえすれば助かっていた。

 その仲間の妹はラーマンが故郷に残して来た幼妻だ。

 以来、ラーマンは毎年、この日に‘ネオ・ロヒンギャ’で不法滞在中の仲間たちと集まり、故郷のミャンマーカレーを食べ、若くして命を落とした友を偲んでいるのだ。

 ラティーフから聞いたことの全てをまだ薫には伝えていない。

 ただ、駿は強く思うのだ。

 薫がラーマンとここで食べるカレーが、愛のカレーになろうと、それがほろ苦い失恋のカレーになろうと、彼女には思う存分、ミャンマーカレーを味わい尽くして欲しいのだ。

 それが異国の地に来て、日本人の物質的幸せなど何ら掴むことなく、命を落として逝った不法滞在者たちの存在を知る機会にもなると思ったからだ。

 午後二時が過ぎた。

 店内には礼拝を終えたばかりのイスラム系ミャンマー人たちが続々と集まり出した。こういう民族料理店は在日マイノリティにとって様々な情報交換ができる社交場だ。

 この中にすでにラーマンの仲間が来ているかもしれない。

 周囲の喧騒をよそに東南アジアの大衆食堂のような、小汚い店内で駿と薫はただ水だけを飲んで待っていた。

 ただ、ラーマンとミャンマーカレーを掻き込む瞬間だけを夢見て。

 午後二時十五分。店ののれんを挙げて、一人のほっそりとした男が入って来た。東南アジア人っぽい風貌だが、かなりのイケメン。駿の中では、正直、唐沢寿明ですら霞んで見えた。

 薫の眼にはどう写ったのだろう。毎夜、夢の中でしか会えないカレー王国の王子が今まさに現実の世界で相見えたのだ。

「ひ、久しぶり……トシちゃん」

 緊張からか、薫の声がうわずっている。

「アー、アナター、プリンさんデスネー。久シブリネー」

 声は唐沢というより、どちらかと言えば、笑福亭鶴瓶っぽい。

「プリンさん?」

 駿の問いに、薫が頬を朱に染めて小さく呟くように言う。

「そう……。私、トシちゃんに、プリンセスのプリンちゃんって呼んでもらってたんですぅ」

 果たして、それが呼んでもらっていたのか、単に意味も分からせず彼に呼ばせていたのか、ここでしつこく聞いて明らかにするのは無粋と言うものであろう。

 ちょうどテーブルに運ばれて来たミャンマーカレー、チンバウンヒンの立ち上がる湯気を前に、二人の視界にはもはや互いの姿とカレーしかないのだ。ここは思う存分、愛のカレーを水入らずで食べてもらおうか。いや、別に水は水で飲んでも差支えないのだが。

 パサパサのタイ米の隣で暖かい湯気を上げているチンバウンヒンはミャンマーの代表的なカレー風スープ。駿も現地では食べたことがあった。ヒンはカレー風味の香辛料が効いた煮込み料理全般を言い、インド風のヒンはとくにカレーヒンと呼ばれる。味はインドとタイに挟まれたミャンマーらしくスパイスの辛味と具材であるケナフという葉っぱから出す酸味が同時に来る。梅干や納豆に慣れていない外国人が食わず嫌いをするように、駿も茶黒いどろっとした液体から粗雑に飛び出た葉っぱの印象がどうも美味そうに見えず、余り手を出さなかった。

 しかし、具材は冬瓜、タケノコ、あとはひたすらケナフの葉に挽きわり豆という野菜(と植物?)だらけでヘルシーそのもの。油っぽいインド系のミャンマー料理の中では比較的あっさりした部類でもあるし、肉を含まない調理法はムスリムであるロヒンギャにとってハラールかハラールでないか、つまり宗教的に問題ないかどうかを考慮しなくてもいい。

 しばし、手を取り合って懐かしんでいた薫とラーマンだが、やがてきゅるると鳴り出した薫の腹の虫を合図に、もはや堪らずチンバウンヒンを食することにした。

「プリンさん、ボクが入れるナ」

 大皿を手にし、タイ米を大きくよそってから、カレーヒンの汁と具材を豪快にラーマンがぶっかけてくれる。

「ああ……。ありがとう、トシちゃん」

 ラーマンの華麗なるカレー汁ぶっかけ手裁きを熱い眼差しで見つめる薫の瞳が潤んでいる。彼女にとって待ちわびた瞬間なのだ。ラーマンは隣にいる駿は、まるで見えていないかのように、自分の大皿にも同様に食事を盛り、薫と向き合った。

「さ、プリンさん、いただきましょうかナ」

「はい、トシちゃん」

 二人がスプーンを手にしてカレー皿に向き合った直後に、すっと駿の背後から近づく影があった。

「キヒヒ……。ラーマン探したぞ。何で、急に消えたりなんかしたんだ? 俺はお前を信じていたんだぞ」

 声がした方を駿が振り返る。

 先日と同じ服装をした公安刑事、丸山がひょうひょうとテーブルのすぐ近くに立っていた。

 芹沢に確認したところ、丸山は確かに渡して来た名刺と同じ部署に実在した。たまに出向扱いになって公安警察が民間に設立した調査会社にも所属しているらしい。その会社は捜査情報を売買し、公安警察が外部で活動しやすいよう裏金作りに勤しんでいるということも分かった。

 あんぐりと口を開けてスプーンを運ぼうとしたラーマンの手がぴたっと止まっている。一方の薫はすでに、がしがしと喰い始めていた。だが丸山の存在に彼女も気づいたのか、さらに二食べしてから、スプーンを皿の上にそっと置く。

「マ、マルヤマさん、食べ終わるまで待って欲しいナ……」

「フッ。いいだろう、ラーマン。彼女と最後の晩餐をゆっくり味わうがいい……。いや、それは昼飯か。キヒキヒ」

 不気味な声で笑う丸山を駿は立ち上がって真正面から睨んだ。

「おやおや、あなたはこの前の……確か時枝さんでしたね? いけませんねぇ、ラーマンを見つけたら、通報して下さるとお約束していただいたはずなのに、こんなところで一緒に国際テロリストの関係者とランチなんて……。市民の義務を果たしていただかないとねぇ。それとも、捜査協力費をいかばかりかお渡ししたほうが良かったですか?」

「市民の義務ですって? 私の依頼者が愛する人をあなたに売るのが市民の義務だとはまったく思えません。それより、丸山さん、なぜ、ここだと分かったんです……」

 まさか、駿と薫を丸山が尾行けて来たのだろうか。

 だとしたら、今の危機を招いた責任は自分にある。依頼者を守れずして、国際探偵は失格だ。

「ンン? あんた、国際探偵とか言って気取ってるようだが、俺を舐めるんじゃねぇぞ、コラッ! こいつは気づいてないが、ラーマンは仲間に売られたんだ。今日という特別な日に、ここに来てるのも、こいつだけだろうが」

 以前、路上で話しかけて来たときは打って変わった剣呑な丸山の口調に駿は背中に悪寒すら覚えた。

 しかし、それよりもっと気になるのは言葉の内容だ。

 ー 売られた……。異国の地で歯を食いしばって共に頑張って来た仲間に裏切られた。

 それは、なんとも物悲しい結末だ。

「分かってる、それは分かってるナ、マルヤマさん。だけど、今は、今だけは……ボクのプリンさんと、この一杯のカレーを食べさせてくれナ……」

 スプーンをきつく握り締めるラーマンの手首に血管が浮かび上がった。うなだれる彼の両目から涙が垂れる。

「だから言ってるだろう、早く食べろって、ほらほら……」

 丸山がスプーンを手に取り、大鍋に残されたチンバウンヒンのカレー汁を強引にラーマンの皿の上にかけ始めた。

 だが、涙を流したまま、ラーマンの手は微動だにしない。

 ― こんな悲しい食事を見るのは初めてだ。

 しかも、二人の大好きなカレーを弄ばれて見続けるのは何ともいたたまれない。

「やめてください」

 毅然とした声を出したのは薫だ。丸山は手の動きを止めると、腰をしゃがめて彼女の顔をのぞきこんだ。

「クックッ、あんた、枯井さんて、おっしゃいましたかな? ラーマンを助けたいんなら、手を貸してもいいですよ。私から入管にかけあって、正規の滞在ビザを何とかしてやってもいい。言っとくがね、日本の裁判所、法務省はミャンマー難民には最近、甘くなって来たけど、イスラム系のロヒンギャだけは別もの扱いなんですよ。タイやインド、どこの東南アジアでもイスラム過激派との軋轢に苦しんでる。仮に難民申請しても日本政府も決して認めませんよ……。でも、あんたが本気でこいつと結婚したいなら、手を貸してやってもいい。あんたは知ってるかどうか知らないが、こいつは本国で妻子持ちだ…… 」

 丸山が無慈悲に口に出した冷厳な事実を耳にして、駿はぐっと眼をつむった。折を見て薫に伝えようと思っていたのに、先を越されてしまった。今の薫の表情を直視できない。

「でもねぇ、方法は無いわけじゃないですよ……。ミャンマー政府から独身証明を取るのが困難だと説明して、婚姻届を出す区役所で、私は独身ですって、こいつに宣誓書を出させたら、それで通っちまうんですよ。日本っておかしな国でしょ? 厳しいんだか、簡単なんだか……。その段取りも私がしてやりますよ。ただねぇ、もう一度、彼をタイに行かせて、この前、写真を見せたフランス人の組織と接触して、私に情報を回して欲しいんです……。どうです、そういう条件でお互いウィンウィンで行きませんかぁ?」

「……わ、わかりません」

 薫は下を向いたまま、ぼそりと呟いた。

「ンンー? ちょっと話が難しかったかな。とりあえず、私の言うとおりにすれば、全て上手くいくということです……」

 ガタンっと音がした。急に薫が立ち上がって、椅子が後ろに倒れた。腰をしゃがめたまま、丸山が不敵に笑って言う。

「おや、トイレですか? ま、この食事が終わるまでに返事をしてくださいよ。とにかく、ラーマンは今日、私が連れて帰りますから……」

 丸山の言葉を最後まで聞くことなく、薫はチンバウンヒンがまだたんまり残った鍋を両手でつかむと、持ち上げてそれを一気に彼の頭に降り注いだ。

 突如として、あっついカレーが丸山の顔全体に覆われた。

「ぬわっ! あぢっ! あづいー。カレーが目に染みるぅっ」

 床の上でのたうち回る丸山をひと睨みしてから、薫はラーマンの手の甲を握った。

「トシちゃん! 逃げよう!」

「でも、プリンさん!」

「いいからっ、早く!」

 二人は手を取り合って、店の出口へと掛けて行った。駿はとりあえず、三人分のランチ代をレジに置き、二人に続く。

 後ろから、丸山の、水、水をくれぃという叫び声が聞こえた。


 駿が電話をすると、三分で芹沢が運転するシーマがエンジン音をけたたましく響かせて近づいて来た。

 後部座席に薫とラーマンが、助手席に駿が飛び乗った。

 ハンドルを握る芹沢に駿がだいたいの流れを説明する。

「その丸山ってのは、きったねぇ野郎だな。でも、そいつの言った結婚の仕方は、この際、ありかもしれねぇけどな」

 清濁併せ飲む芹沢の考えに時に反発することが多い駿だが、この時ばかりはそうもいかない。

 あくまで決めるのは薫とラーマンだ。

「あの……結婚というのも、私、すぐにはトシちゃんとできないんです。その……DVのカレと籍がまだ抜けて無くて……今年こそは家裁で離婚調停しようと思ってたんですけど、彼が行方が分からなくなったから……」

 薫の告白に駿と芹沢は唖然とした。

「あんた、結婚してたのかよ。なんか、恋するオトメみたいな感じだったのに、やることやってやがったのか」

 芹沢の下品な表現に駿は目を反転させて口を噤んだ。

 ― 芹沢さんったら……。でも、そこ、重要なポイントだったな。まさか、枯井さんが結婚してたとは。

 こうなれば、ラーマンと結婚して、祖父の店をシモキタで復活させるという話もどこまでが単なる願望でどこまで現実に即した計画なのか分からない。

 だが、その混沌としたマサラスタイルのカレー的思考が即ち、彼女、枯井薫なのだ。

「結婚できないなら、他に現実的な選択肢がないぞ。タイの偽造旅券を使ってるなら、もちろんタイにも戻れないし、そもそもロヒンギャはミャンマー政府から弾圧を受けて無国籍状態だしな」

 どこまで芹沢の説明を理解できたが分からないが、ラーマンが急に口を開いた。

「スイマセン。ワタシを、品川のイミグレーションに連れて行ってください」

「ええ?」

 ラーマンの決断に三人全員が耳を疑ったように聞き返す。

「ワタシ、日本大好きデス。ミンナ、本当にイイ人です。イッパイ、イッパイ、ワタシを助けてくれました。でも、ワタシ、ミャンマーのツマ、コドモ、愛シテマス。大事デス。イツカ、家族モ日本へ呼びたいです。ワタシ、本当に、プリンさん、アリガトウ言います。ワタシのカレーをいつも食べて、アナタの笑顔、サイコーでした。でも、今は、サヨナラです……アリガトウ……ゴメンナサイ」

 ゴメンナサイか。

 つまり、愛しのトシちゃんことラーマンはいろいろ喋ってくれたが、薫をフったということだ。

 彼の気持ちも無視して、日本に居残れる方策として、やれ結婚だ何だと周囲が先行して画策するのに、もはや耐えられなかったのかもしれない。

「分かったよ……トシちゃん。あなたが作ったのじゃなかったけど、最後に一緒にカレーを食べれて、マジで良かったよ」

 薫はこの時、ラーマンに笑顔を見せていた。

 だが、彼を品川埠頭にある東京入管に出頭させ、駿と芹沢が車に戻ると、彼女がハンカチを目に当てて静かに泣いていた。



 それから週に一度、駿は時間のあるときは東京入管にある不法滞在者の収容施設に行ってラーマンと面会をしている。

 ラーマンは日本では難民申請をすることはなく、海外へ難民支援をするボランティア団体のサポートでカナダやオーストラリアへの移住を望んでいる。

 ラーマンに聞いたが、薫はここには一度も面会には来ていないという。

 彼女がラーマンを探すモチベーションの全てが崩れてしまったのだ。それは当然と言えば、当然のなりゆきだった。


「センセイはブタ専ね?」

 また朝から麻婆豆腐を食べさせる麗華の指摘に駿は意味が分からず、ただ顔をしかめた。

「ブタセン? なんじゃそりゃ?」

「あのカレー・カオルっていう、ぽちゃっとしたお客さん、けっこうタイプだったんでしょ? だから、ブタ専」

 そう言って麗華が人差し指を鼻に当てて、ブヒーと豚の鳴き声のまねをした。

 ― ブタセン……。それってデブ専のことか?

 麗華の露骨な表現に駿は苦笑を浮かべてから聞いた。

「中国ではカレーは人気ないのか?」

「んー、あんま、ナイね。辛くて美味しいのは一杯あるからね」

 駿は目の前に置かれた麻婆豆腐を見て、それはそうだ、と納得した。

 食べ終わった駿は立ち上がって大きく背伸びをした。ベランダに出ると、一匹の三毛猫がとなり家の屋根瓦で毛づくろいをしているのが目に飛び込んできた。

 ― あ。まさか、みいちゃん!


 駿がみいちゃんを見つけた、ちょうどその時、薫は池袋の中華料理屋で餃子を朝からもりもり食べていた。

 一口噛んで、ジューシーな味わいが口いっぱいに広がった。

 余りの美味しさに、しばし悶絶して脚をばたつかせから、薫の視線は店の奥で中華鍋を振るう一番、若い男に向けられた。

 ― やっばい。私、恋しちゃったかも!


 何も期待してないときに、探していたネコのようにひょっこり現れる。

 恋も美味なる物も。

 それが人生にとって最高の調味料かもしれない。                


  了   九十六枚


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