四 青空
鐘元の用意した建物の見取り図は、頭に叩きこんであった。
地味な背広にアタッシュケースをぶらさげて裏の搬入口へ向かい、警備のわずかな隙を衝く。江又の決めた順路通りに動いた。江又が遠隔で監視カメラの映像を差し替えたはずだ。
機械化が進んでいるため常駐職員は少ない。危うい場面はあったが、死角を縫うように監視をくぐり、保脳機関内部に潜入できた。
ベルトには鐘元から買った銃が挿してある。撃つ予定はないが、切り札だ。
給湯室で一人のところを背後から銃で脅し、すぐ隣のトイレの個室に引き入れて首の後ろを銃身で打つと、無脳者の弓張もさすがに気を失った。
有人は自身の頭に機材を取りつけ、電源を入れた。これが江又への唯一の合図だ。
江又が保脳機関のシステムに侵入し遠隔操作。弓張の脳と躰の間に割りこむかたちで、一時的に躰を奪う恰好になる。連中の言葉を借りるなら、強制的にログアウトさせ、不正にコードを使用して他者がログインするということだ。
眼の前には機材をつけた有人の姿があった。蓋をおろした便座に腰掛けている。
有人のベルトに挿してある拳銃に手を伸ばす。やめた。弓張の姿であれば、銃は逆に不審だ。
痛む首をさすり、鏡の前で白衣をきちんと着る。弓張の顔には見覚えがあった。眼鏡を外し、息を呑む。
その顔は、あの夜、殺した男と一緒にいた女だった。
どういうことなのか。考えながら弓張の机へ向かう。時間がない。弓張が目覚めれば、有人の脳は弾き出される。江又によればそのとき、命の保証はない。
手順通りに、茉莉のコードを検索。データ量が多く、数分かかるようだ。検索している間に、引き出しを漁る。
一人の男についての書類がやけに多い。殺した男ではない。日本人だ。協力を依頼したが、身を隠し脳を渡さない男。実験用器具の設計図のようなもの。
ほかにも、研究者の会議で使用された書類からわかったことがあった。
どうやら連中は、人の脳をバッテリーのように捉えているらしい。なかでも、子供の脳は柔軟で伸び代が大きく、用途も幅広いため重宝されるようだ。
箇条書きで意見が並んでいる。複数の脳を連結すれば、多様な実験が可能。実験に使える脳が不足。母体が死ねば自由に使える条件。
保脳の停滞を解消する方策として実施中のもの。不安を煽り、メディアと連携して脳を啜る害獣の発生、危険性を昼夜呼びかける。実際に、たびたび人を襲わせる。効果があり、決心する富裕層が押しかけている。と書かれている。
毎日耳にしていた放送は、連中によるものだったのだ。肌が粟立つ。
最後の走り書きを眼にしたとき、文字をなぞっていた有人の指は止まった。
実験に使用する脳が緊急で必要な場合は、事故やテロに見せかけ、躰を潰して脳を得る。
茉莉。鼓動が速くなる。茉莉は、おかしな事件に巻きこまれて死んだ。あれが連中の仕業だとしたら。
乱れた呼吸を整えた。まずやるべきことをやる。考えるのはそれからだ。
一番下の深い引き出しの奥で、錠剤の束を見つけた。薬。あの男から買ったものか。
弓張は、夜遅くに男と会っていた。人身売買や臓器売買を仲介していたというあの男から、薬以外にも買っていたのではないか。
端末の画面表示が変わる。茉莉のコードがわかった。書き留め、画面を閉じる。
すぐに保脳堂へ向かう。点検作業でなかへ入る手続きをし、弓張の姿をした有人は保脳堂内部へ踏みこんだ。職員は誰もがここのセキュリティを信じている。受付は怪しむ気配すらなかった。
アルファベットは脳の保管されている棟。十二桁の数列を照らし合わせ、エレベーターでおりる。
茉莉の脳を見つけた。棚から水槽のような容器をおろし、胸に抱く。
語りかけてみたいような気もする。だがなんと言えばいいのか。
警報が鳴る。容器を動かしたことで、ほかの職員に潜入が気づかれたのか。
間に合わなければここまで来た意味がない。有人は、茉莉の脳が入った水槽を床に落として割った。
警備の呼び交わす声と足音。すでに囲まれているようだ。
トイレの個室。有人は自分の躰へ戻っていた。弓張が目覚めたということか。どこでばれたのか。確かめようもない。確かめたところでどうしようもない。
まだ立てる。立っている。視界が暗くなり、また戻る。頬が冷たい。床に這いつくばっているのか。壁だった。痛みは遠い。
心は、血にある。
心臓から流れ出て、全身を廻る。心は常に移ろい、流動するものだ。
頭に脳がなければ、全身を駆け廻るはずの心は、脳との関わりを失ってしまうのではないか。考えても、なにが正しいかなど有人にはわからない。
葉巻を吸いたかった。顔が生あたたかく、濡れている。口や鼻、眼や耳からも血が出ていた。躰から血が、心が、命が、流れ出ている。
本当は、この保脳堂すべてを壊したかった。虚ろな魂の檻のような、暗く、冷たい場所。
脳は、培養液のなかで管理され、幽閉されたまま生き続ける。愛した者が、永遠にこの世に繋ぎとめられ存在している。それは本当に幸せなことなのか。
あれはもう、茉莉であって茉莉ではなくなっていた。胸に抱いたあと、それがよくわかった。
生きている間に、なにもしてやれなかった。これが弔いになったのかもわからない。
いずれにしろ茉莉は、ようやく本当の眠りにつけたのだ。それだけは多分、間違いないだろう。
血は止まらない。拳を握ってみる。腕はどうにか動かせそうだ。
腰に手を伸ばす。銃はまだベルトにあった。身を起こし、壁に寄りかかった。
俺の脳は、茉莉との記憶は、誰にも渡さない。冷たい銃口を、こめかみにあてる。
黒い土が、死が、すぐそこで呼んでいる。懐かしいような、あたたかい呼び声だ。
これで夢から覚める。いや、夢へと向かっているのか。向こうに、ともに眠る茉莉がいるのなら、それも悪くない。
蝉の声。空が見える。見えるはずのない空。恋い焦がれた真っ青な空。
生きるとは、なにか。自分は生ききったのか。
やはり、花を用意しておけばよかった。有人は引き金に指をかけながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。