241 アスカム子爵領 10
帝国軍は、必死で行軍を続けていた。
強行軍という言葉も生温い、無茶な行軍である。しかし、目的地に到着した後に戦う必要はなく、敵に追いつかれれば死ぬ。この状況では、死ぬ気で進まざるを得なかった。
もはや戦うつもりなど全くなく、生きて帰還できることが全て。そして司令官公認で不要な物資や装備等の放棄が許可されているため、元々消耗品の大半を失っている帝国軍は身軽であり、完全装備で補給部隊を伴う王国軍を振り切れる可能性はあった。……もし、帝国軍の兵士達が普段の状態であったなら。
既に何日も前に食料と水の殆どを失った帝国軍は、物資集積所以外の場所にあった僅かな食料と水、魔術師が魔法で創り出す僅かな水の配給、そして移動の途中で採取した小動物や野草を頼りに行動していたが、兵士達の大半はそれらにすら碌にありつくこともできず、川に立ち寄った時に個人携帯の水筒や皮袋にいれた水も、とっくに尽きていた。そして、帰路では、遠回りして川を経由する余裕はない。そんなことをすれば、追撃している王国軍に追いつかれ、捕捉されてしまう。
空腹と渇きにふらつきながらも、殆ど無意識に足を動かす兵士達。
アスカム子爵領を抜けて、帝国との国境線に接するセスドール伯爵領にはいれば、食料を徴発できる村もあるし、井戸もある。セスドール伯爵領の制圧維持のために配備してある兵達と合流し、彼らから食料を分けて貰えば……。
朦朧とした意識でそう考えながら歩く先頭部隊の兵士達が、俯き加減の顔を少し上げて前方に眼をやると、そこに、それがあった。
……一張りのテント。そしてその前に置かれた長机と、簡易椅子に座った、3人の少女達。そしてその後ろ、少女達とテントの間に置かれた、樽と木箱。
出入り口が閉じられて中が見えないテントには、看板が掲げられていた。
『移動食堂 聖女屋』
「「「「「「何じゃ、そりゃあああああああ!!」」」」」」
「……水はあるか?」
長机の前で立ち止まった兵士が、震える声でそう尋ねると、まだ成人したかどうかの年齢なのにやけに胸の大きな少女が、にこやかに答えた。
「はい、水、カップ1杯銀貨5枚。エールは小金貨1枚、ワインは2枚です」
「「「「「「高けええええぇ!!」」」」」」
そう、銀貨5枚は、日本円にして約5000円。小金貨1枚は、1万円相当の金銭感覚であった。
「高過ぎるだろう!」
そう怒鳴る兵士に、少女は平然と答えた。
「需要と供給のバランス。商売の基本ですよ。高いと思われるなら、買わなければいいだけのことです。私共は、この価格で買ってもいい、と言われるお客様に買って戴くだけですから。
それに、若い娘が水樽を背負って戦場に売りに来るということを、どうお考えですか?
戦いに巻き込まれる危険、兵士達に襲われる危険、それら全てを覚悟して、何日もかけて運んできた水に、街中で飲む水と同じ価値しかないと?」
「う……」
反論できない。
「し、しかしだな……」
「水をくれ!」
食い下がって値引きを求めようとした兵士を遮って、横から声が掛けられた。
「お前は、端金を惜しんで、懐に銀貨を入れたまま勝手に死ねばいいだろ。俺は、俺達のために命懸けで女の子が運んでくれた水を、喜んで買う! 銀貨5枚、命の値段としては、格安だ!」
そう言って、長机に5枚の銀貨を置く兵士。
「はい、ありがとうございます!」
少女は、すぐに樽から水を汲んだカップを渡す。
「うめぇ! うめぇ……」
ぐびぐびと水を飲む兵士。豪快な飲みっぷりであるが、一滴たりとも溢していない。
幸せそうに水を飲み干した兵士は、名残惜しそうな顔で呟いた。
「もう1杯飲みたいが、限りのある水を俺ひとりで飲むわけにゃいかん。後は、他の奴らに譲ってやらんとな……」
そして、ばんっ、と長机の上に再び5枚の銀貨が叩き付けられた。
「水だ!」
「お、俺も!」
「エ、エールくれ!」
「邪魔だ、買わないなら、どいてろ!」
値段に文句をつけていた兵士が横に押し退けられ、次々と押し寄せる兵士達。
「はいはい、運んだのは私ひとりじゃないですから、まだ在庫はあります。慌てず、押さず、落ち着いて並んで下さいね。あんまり押すと、机が倒れて、全部零れちゃいますからね~」
本当は、エールには利尿作用があるため、却って脱水症状になりやすい。しかしポーリン達はそんなことは知らないので、仕方ない。決して悪気はなかったのである。
ポーリン達が忙しく飲み物を売っている時、ひとりの兵士が、何かに気付いたように呟いた。
「移動食堂、聖女屋……」
そして、その兵士がポーリンに尋ねた。
「な、なぁ、『食堂』ってことは、何か食い物も売ってるのか?」
それを聞いた周りの兵士達が動きを止め、黙り込んだ。
し~ん、となった中で、ポーリンがにこやかに答える。
「勿論、ありますけど?」
「「「「「「…………」」」」」」
「な、何がある?」
震える声で尋ねる兵士。
「えと、雑炊、堅パン、干し肉、スープの素をお湯に溶いてクズ野菜を入れたやつ、とかですね。
全部、小金貨1枚です」
「「「「「「高けええええぇ!!」」」」」」
そして、飲み物も食べ物も、飛ぶように売れた。
前方が止まったため後ろの兵士達がつんのめり、青筋を立てた下士官が後方から飛んできたが、理由を知ると、すぐに仕切り始めてくれた。
「立ち止まるな! さっさと買って、そのまま前方へ進め! 後ろの者に譲ってやらんか! それに、王国軍が迫ってきてるんだぞ、元気になったなら、先に進め!」
下士官のおかげで、かなりスムーズにいくようになった。希望者には、その場で飲むのではなく水筒に入れるサービスも行っている。漏斗を使えば、簡単である。雑炊やスープは、受け取った後、テントの周りを大きく一周しながら食べて、容器を返却して、先へと進む。売り場の前を塞がないための工夫である。さすが下士官、知恵が回る。勿論、自前のカップを持っている者はそれに注いで貰い、そのまま街道を進む。
「ありがとう、お前達のおかげで、多くの兵士が生きて故郷に帰れる。感謝する。
そろそろ売り物も切れるようだから、王国軍に見つからないうちに、早く逃げた方がいいぞ」
下士官にそう言われ、ポーリンが後ろを振り向くと、そこに積んであった樽や木箱は殆ど空になっていた。
「あ。お願い」
「「了解!」」
ポーリンに返事すると、レーナとメーヴィスがテントへはいり、樽と木箱を抱えて出てきた。
「え……」
そして何度もテントと売り場を往復し、新しい樽と木箱を運び出し、空になったものをテントに運び入れるレーナとメーヴィス。
「大丈夫、まだ水も食べ物もたくさんありますから。
餓えと渇きに苦しむ者がいる限り、そこがたとえ戦場であろうが地獄の底であろうが、お呼びとあらば、即、参上! それが、我ら……」
レーナとメーヴィスが、ポーリンの左右に駆け寄って、びしぃ、とポーズを決めた。
「「「移動食堂、聖女屋!!」」」
今回は、カラースモークも爆発音も無しである。
そしてテントの入り口をほんの少し捲り、中からマイルがギリギリと歯噛みしながらそれを見つめていた。
大勢に目撃されたため、いくらあの時は仮面を着けていたとはいえ、さすがに兵士達に顔を見せるのはマズいと、テントの中に籠もってアイテムボックスから補充品を出す役目に専念していたマイルであるが、どうやら、自分もやりたかったらしい。
「お、おぅ……」
そしてポーリン達の横には、ぽかんとした下士官が立ち尽くしていた。