2.『ガール?』・ミーツ・ガール
ルインハイマート。
それがヴァンセットさん達が住む、この世界の名前だという。
『エーテル』と呼ばれる神秘のエネルギーに満たされたこのルインハイマートでは、遥か古の時代より、そのエネルギーを応用する為の技術が研究され続けてきた。
それが『魔術』だ。
「──つまり僕も、そういう力でこの世界に召喚されたってことですか?」
「まぁ、まだ憶測の域を出ないから断言はできないけどね……その可能性は高いと思うな、俺は」
その言葉に、これまでしてもらった説明を思い返しながら二個目のリンゴをちいさく齧る。
『魔術』と一言に括っても、それはあくまで技術群の総称に過ぎない。実際のところその形態は、規模や効果や行使法を含め千差万別なのだという。暖炉の薪に火を付ける程度のものもあれば、束ねた雷で軍勢を焼き払う魔術も存在するという。その一方でシチューを焦げ付かせずに調理したり、タバコの煙で汚れた空気を清浄化するなんて言う、やたらと家庭的な術も一般に広く浸透しているらしい。つまりそれだけ、ルインハイマートの人々にとって魔術はごく身近な技術ということだろうか。
ともかく。
僕をこの世界に喚び寄せたと思われる『召喚術』も、そんな魔術の一形態であるらしい。
「でも、ちょっとだけ安心しました」
「ん?」
「だって、喚び寄せる術があるなら相手を帰す術だってきっとありますよね? 召喚術を使える人に聞けば、元の世界に帰る方法も分かると思って」
そう微笑みかける。
当然、ヴァンセットさんも明るい笑みをかえしてくれると思っていたのだけど。
「…………」
その予想に反して、なんとも言えない重苦しい無言だけが返ってきてしまう。
え、なんですかこの空気……って、うあー。
この世界に来てもう何度目だろうか。
この心臓に悪い感じの、嫌ぁな予感。
そして、その予感を肯定するような低いトーンで、ヴァンセットさんはおもむろに口を開く。
「いないんだ」
「いない?」
「そう。召喚術は色々あった末に、もう数百年も前に絶えてしまったと言われてる魔術なんだよ。もはや伝承の中で語られるだけの物で、使える人間が現在もいるとはとても……」
「思えない……と?」
希望が見えたと思ったら、そこがどんづまりだった件について。
もう泣き叫びながら床をゴロゴロと転げ回りたい気分です、ほんとに。……まぁ、この部屋の床の散らかりようを見ると二の足を踏んじゃうんだけれど。
……ん?
「でもそれだと、誰がどうやって僕をルインハイマートに?」
そう、それでは僕がここにいる説明がつかない。
そもそも僕が召喚術で喚び出されたと言ったのはヴァンセットさんだったじゃないか。
「そう、そこだよ。ナルミちゃんの手にあるのは召喚印……それが召喚術であれば、紛れもなく召喚術が行使された証しだ」
憮然とした表情を浮かべていたであろう僕を他所に、先程とは打って変わって、ちょっと鼻息を荒くするヴァンセットさん。謎解きを楽しんでいるような、そんな雰囲気だ。今後の人生の行く末がかかっているこちらとしては正直、複雑な気分ではある。だが、今はこの人の知的好奇心に頼る以外に話が進まないのも事実だった。
「これが召喚印でない可能性はないんですか? 例えば何かと見間違えているとか」
「……あー……いや、確かに、俺も何かの文献でデザインやなんかをちょっと見たことがあるってだけではあるんだけど。ただ、召喚印じゃないかって言うのには他にも理由があってさ」
「他の理由……?」
「そうだね……ナルミちゃんは不思議な事に気づかないかな? こうして話していてさ」
僕の質問には答えてもらえず、逆に問いかけを返される。
不思議なことに気づかないかって。目が覚めた瞬間から不思議なことだらけなんだけど……うん、ヴァンセットさんが聞きたい言葉はそんな事じゃないよね。
でも、話していてって…………あ。
「──言葉、ですか?」
「その通り。……異なる世界の住人である筈の俺達が、こうして自然に言葉を交わしている。これこそ、その召喚印の持つ力の一つだと思うんだ」
あまりに違和感が無くて全く頓着していなかったけれど、ヴァンセットさんの言う通り、この状況はかなり不思議なものだろう。
「僕、ずっと日本語で喋ってました。それにヴァンセットさんも日本語ペラペラで……」
「そうかい? 俺にはずっと、君の言葉は大陸共通語で聞こえていたよ。それもお手本にしていい位の綺麗な発音でね」
──ヴァンセットさん曰く。
ここまで自然かつ美しく、双方向にリアルタイムで言語を完璧に自動翻訳し意思疎通する魔術というのも遥か昔に失われた術の一つであるらしい。
「召喚術は、召喚印自体にも様々な力があるとされていてね。『異世界の獣との意思疎通を可能ならざしめる』という意味の一文が、俺の見た文献にもあったんだよね、確か」
「ただの刺青なのかと思ってましたけど……そんなに凄い機能が」
改めて、まじまじと自分の右手にある紋章を眺める。
もしかすると先程の『パン』と『リンゴ』という言葉も、この召喚印が僕に合わせて意訳してくれたもので、本来の名前は別にあるのかもしれない。
そう考えると、なんとも高機能で親切設計な術だ。
……もしかして、僕の体が女の子になってしまったのも、召喚術やこの召喚印のせいだろうか?
そのことについても聞いてみようかと思ったが、口を開きかけたところで思いとどまった。今はまだ、色々と情報を整理しきれていない自分がいる。
ここでこれ以上の情報を増やしすぎても、混乱するだけかもしれない。いずれ落ち着いてから、その話はしてみることにしよう、そうしよう。
「──まぁ、そんな諸々の状況を鑑みて、君が召喚術で喚ばれた召喚獣なのではないかと俺なりに推測してみたわけだよ。──とは言っても、俺も魔術に対して専門的で深い造詣があるわけではないし、まるっきり見当違いな事を言っている可能性もある」
「つまり、今のところ推測の域を出ずに、確かな事は分からないってことです?」
「そういうこと。……ナルミちゃんには申し訳ないけどね」
眉をハの字にしながら、肩をすくめて見せる相手を見て、僕はふるふると頭を振る。肩にかかる白い髪がさらさらと涼しげな音を立てた。
「いえ、自分が召喚術で喚ばれたかもしれないっていう事が分かっただけで、今は充分です」
それは僕の偽らざる思いだ。
見たことも無い世界、すっかり変わってしまっt自分の体。
分からないことだらけで、自分がうやむやな存在になってしまった様な気さえしていた。
それがヴァンセットさんのお陰で、少しずつだが『僕』という輪郭を再び取り戻せそうな希望を抱くことが出来たのである。今の僕にとって、これほど心強いものはなかった。
「そっか……そう言ってもらえて嬉しいよ」
向けられる、穏やかで温和な笑み。
もう何度も見ているはずなのに、なぜだか妙に気恥ずかしくなって僕はちょっとだけ俯いてしまう──って、何を女の子みたいに!
……まー、一応、今は女の子なわけだけど。
そして、そんな女の子の体はわりと空気を読んでくれないらしい。
きゅるるるるるる。
本日、二度目。
その可愛いお間抜けな音に、ガクッと力が抜けそうになる。
「んー、やっぱりあれっぽちじゃダメかぁ。どうやらお腹の中のお姫様は、まだまだ満足してくれてなかったみたいだね」
「……何度も何度もすみません、ほんと。ははは……」
かなりブルーな気持ちが、乾いた笑い声となって僕の口の端から漏れ出した。
それを聞きながら「気にしない気にしない♪」と、またあの鼻歌と共にヴァンセットさんは食べ物を探しに行ったのか、事務所にある小さな扉をくぐって行く。どうやらそこは、ちょっとした多目的倉庫みたいになっているようである。
「…………」
さすがにもう何も残っていないのだろうか。
倉庫を漁るようなガサゴソという音だけが、事務所の中に響く。
自分のせいではあるのだが。
少しだけ手持ち無沙汰になってしまった僕は、ソファーから立ち上がる。そして、散らかった床の上を慎重に歩きながら、事務所に設えられた窓の元へと向かった。
先程まで僕が寝ていた部屋と同じ造りの窓だ。枠に取り付けられた留め金を外し、ゆっくりと窓を押してみる。
あまり頻繁には開けられていないのだろうか、おもむろに開いていく窓は、少しだけ錆びついたような重さと共に軋む様な音を立てていた。
──吹き込んでくる優しい風。
日本で言えば春風のような心地に似ているだろうか。ほのかに草花の甘い香りをはらんでいる。
眼下の往来は相も変わらずファンタジーな様相を呈していたけれど、初見よりもいくらか落ち着いた気分で僕はそれを見つめる事が出来た。
「まさか異世界なんて……人生なにがあるかわからないよ、ほんと」
目覚める前までは何の変哲もない日々を送っていた僕が、今や異世界で迷子をしている。
そんな状況がおかしいやら悲しいやら。
窓枠の上に組んだ腕を乗せて。そこに口元をうずめる様にして、僕はエリスティアの街をぼんやりと眺めはじめる。
──コン、コン。
事務所の扉が鳴ったのは、ちょうどそんな時だった。
ビクリとしてそちらへと振り返ると、また先程と同じリズムで扉が鳴る。
「──……先生? いないんですか? 母から、先生の頼んでいた物を預かって来たんですけど」
扉の向こうから聞こえて来たのは女の子の声だった。
どこか物憂げというか面倒くさそうというか、抑揚にちょっぴり乏しい、でも凛とした雰囲気をたたえた声。
「ど、どうしよう?」
ヴァンセットさんの入って行った倉庫を見やるも、中からはまだガサゴソ音が続いている。その様子からして、どうやら来客に気づいていないらしい。
代わりに出るべきだろうか? ──そう考えて、僕は自身の体を見下ろしてハッとなった。
そう、僕はいまだ、大きなシャツ一枚を着たきりの、かなりマニアックであられもない姿をしていたのだ。
「留守? でも、鍵は……あいてる」
ドアノブをまわす音。扉の向こうにいる女の子は、今にも部屋へと入って来そうな雰囲気である。
これは由々しき事態だ。
独身男性の部屋に──中身は特殊であれ──幼げな娘がこんな格好でいる状況。
下手するとヴァンセットさんが、社会的に抹殺されてしまうかもしれない。
……その位の破壊力はあるだろう、たぶん。
ヴァンセットさんに声をかけるべきか、いや、まずは自分が姿を隠すべきか。そんな迷いの中で、おろおろとその場で右往左往する。
結局、そんな風にグズグズしていた結果。
僕は思いっきり発見された。
「先生、入りますよ? ──……って、美少女?!」
静かに開かれる扉の向こう。
入ってきた女の子が、窓際に立つ僕を見て、これ以上ないってくらいに目を丸くする。その驚きようたるや、持っていた荷物をその場に落っことし、飛びず去る様に体を大きく仰け反らせるほどだった。
永遠と思われる程の沈黙が、僕と女の子の間で流れる。
「え、えと……」
このままではヴァンセットさんが(社会的に)マズい……!
何とか誤魔化さなければと、引きつった笑顔と共に口を開きかける。
しかし、その前にヴァンセットさんがのんびりとした様子で倉庫から事務所へと戻ってくる。
「やー、ごめんごめん。やっぱり何も無かったよ」
僕の顔を見ながら、ふにゃりとした笑顔を浮かべるヴァンセットさん。
いやいや、それどころじゃないっす!
そう目線で訴えながら、つんつんと事務所の扉を指差して。
そこでようやく、ヴァンセットさんは来客に気付いたらしい。
「──……ん? おお、マキナ君。来てたのkぉぶろば」
立ち尽くす女の子へと親しげな様子で声をかけるヴァンセットさん──その笑顔がモーフィング映像の如く流れるように、苦悶の表情へと変わっていく。
何事か、その一瞬ではよく目で追えなかったのだが。
女の子の左右の腕が、鋭く交互に、ヴァンセットさんのお腹へと突きこまれたらしい。
「おごご……!」
「先生、貴方って人は……! とうとうこんな犯罪を! いつかやるんじゃないかとはおもってましたけど!」
うあ、盛大に勘違いされてる……ていうか、酷い言い様だよ!
その場にうずくまるヴァンセットさんへ、さらに容赦無く女の子の蹴りが飛ぶ。
……何度も何度も。
「えーと、これは……」
……ヴァンセットさんが社会的にヤバくなるっていうのは僕の勘違いだったかもしれない。
このままだと、物理的に、ヴァンセットさんがヤバそうだった。