1.『女の子』、はじめました。
七海 ナルミ。
年齢17才、高校生。
性別、男。
性別、オ ト コ。──大事なことなので二回言ってみました、はい。
ともかく。
簡単に言うとそれが『僕』だったはずだ。
それ以上でも以下でもない。
……いや、文章にするとたった三行程度しかないものを『僕』と言い切るところに、多少の切なさを覚えないわけではないけど。
つまり、僕はそれくらい何の取り柄もないごく普通の高校生だった。
なんとなく選んだ高校に進学し、なんとなく帰宅部を選び、なんとなく日々を過ごしている内に学年がひとつ上がって現在に至る。もちろん『彼女が出来た』なんていう華やぐようなイベントが訪れる事もなく。似たような境遇のクラスメイト達とそんな各々の不遇を嘆きあいながら、それでも、それなりに充実した日々を送っていた。
今日だって、これと言って特別な事はなにも無かったはずだ。
いつものように学校が終わると友達とゲームセンターや本屋を巡り、他愛のない話題で盛り上がったりしながら、これまたいつもの様にすっかり日も暮れた時間に自宅への帰路につく。
毎日毎日、飽きるほど歩く道はやっぱりいつもと全く変わりがなくて。囁く様に聞こえた誰かの声に足を止めなければ、さっさと家に帰りついていたに違いない。
…………ん?
そうだ、そう!
歩いていたら誰かから呼び止められた様な気がして、その場に立ち止まったんだ……すっかり忘れてた。
それで確か、声のした方に振り向いて、それから……それから?
それからどうしたんだっけ?
それから……それから……それから──
──冷たい感触。
僕の額に触れたそれは、なぞる様に頬を撫で。
また額へと帰ってくると、ぽってりと覆いかぶさる様にしてそこから動かなくなった。
それから幾らか時間が経ったのだろうか……自分の額に乗っかったそれが濡れたタオルなのだと気づくまでに少しの暇が必要だったけれど、その心地よい冷たさに少しずつ意識が醒めていく。
うっすらとだけ瞼を持ち上げてみた。
そこにあったのは見慣れた自室の天井で、丸い傘をかぶった蛍光灯が僕の顔を見下ろしていた──そんなオチを期待していたのだけど……やっぱり目の前に広がるのは見覚えのない天井で、僕は大いに落胆することになった。
そんな落ち込みブルーのまま、再びベッドの上に身を起こす。
今度は先ほど目覚めた時の様な気怠さは感じられなかった。頭もすっきりしているような気がする。
「…………」
しばし、姿見を横からじっと睨み。
もっそりとした動きで、僕はベッドから降りることにする。
個人的にはとても触れたくない部分ではあるのだけれど……こんな状況では確認しないわけにもいかなくなった。
それは、もちろん「この部屋が夢でなかったということは最後に見た『あの姿』も夢ではなかったのか?」という事だ。
姿見に自分の姿が映り込んで見えたりしないように、空き巣に入ったコソ泥の如くソソソと慎重に部屋の中を移動する。確認しなければと思い立ったものの、正直、まだ心の準備ができていなかった。いま不意に見てしまったら、また倒れてしまう可能性だってある。我ながら、剛毅とかそういう言葉とは無縁の人間なのだ。
姿見の横へ移動を完了すると、大きく深呼吸。
そして、覚悟を決めるとグッと歯を食いしばって──そーっと、鏡を覗き込むために頭を動かす。
その動きにあわせて。
ゆっくりと、姿見の中に白髪の少女の顔が横からフェードインしてくる。奥歯でも噛み締めているのか「むむっ」とばかりに口元がきゅっと引き締まっている。
思わず、引きつった笑みに口の端が歪む。それと同時に鏡の中の少女も口の端を歪ませた。
どうやらもう、これは夢でもなければ幻でもないらしい。
「おうふ……」
嫌な予感にいくらか覚悟はしていたとはいえ。
タチの悪い現実を前にしてなんとも言えない気持ちが、謎の言語となって口から飛び出す。もちろん、女の子の声で、だ。
「いったい、何がどうなってるんだろう……?」
観念して、姿見に今の全身を映してみる。
スノウホワイトの長くて真っ直ぐな髪に、やわらかい輪郭を描く綺麗に整った色白な顔立ち。
空の青を写したような大きめの瞳はすこし幼さを残していて、愛らしさと共にどこか儚げな雰囲気を帯びているように見える。
体格は小柄で華奢な方だろうか。今は大きなシャツを着ているせいで、余計にそう感じるのかもしれないけれど。
ともかく、客観的に見ても驚くほど可愛らしい女の子の体には違いない。それが自分の身体らしいというのだから、なんだかなーといった感じだけれど。
そのまま、自分の胸に注目してみる。
ダボダボシャツの上からは、かすかだが二つの膨らみが確認できた。……確認できたのだが。
「これって……もしかして、すごく小さい……?」
ふにふに。
思い切って触れた膨らみからは、やわらかい弾力が返ってくる。ただ、他に触れた経験がない為に何とも言えないが……申し訳程度と言った感は否めなかった。
なんだろう、この悔しいというか寂しいというか、不思議な感覚は。
「……いや、小さいとかはどうでも良くて」
そう、そんなことは些細な問題だ。今は脇に置いておこう、そうしよう。別に見るに耐えなくなったとかそういうことじゃないよ、うん。
誰に対してというわけでもないけどそんな言い訳めいたことを考えつつ、さらに視線を落としていく。
正直、一番気がかりだった部分だ。
……ごくり。
そんな息を飲む音が聞こえそうな緊張感の中、ゆっくりとシャツの裾を持ち上げる。そして、下着の中を覗き込み──思わず、またその場にくずおれそうになった。
案の定というか、なんというか。
そこには、あるべきものが、ついていなかった。
自分に胸がついていたことも充分な程にショックだったが、この場合、ついてないということの方が衝撃度は上だ。
どうやら本当に、女の子の体になってしまったらしい。
「──っ!」
しばし、下着の中を見下ろしながら思考を停止していたが、不意に部屋の外から聞こえてくるゴツゴツとした重い足音。
その足音に、慌ててベッドの上へと戻る。
別にそうする理由もないのかもしれないが、この見知らぬ部屋で自分の温もりが残るベッドは、僕にとって唯一の自領土だ。身を守る物もない為、座ったまま薄い掛け布団を自分の首元まで引き上げて、緊張しながら扉の方を睨む。
そんな僕の緊迫した気持ちを他所に、足音が部屋の前で止まり。何かを気遣うような静かさで扉が開いていく。
現れたのは、先ほど頭を撫でてくれた男の人だった。手には樽の様に板を組み合わせて作った桶を持っている。
「ああ、目が覚めたかい? よかったよ、急に倒れちゃうもんだから……」
気さくな笑みを浮かべながら部屋の中へと入ってきた男の人は、ベッドの傍に立つと、さっきまでで僕の頭にのっかっていたタオルを手にして桶の中へと戻した。
そして、こちらの顔を覗き込みながら、申し訳なさそうに頬をかく。
「タオル、すっかりぬるくなってたね。ごめんよ、ここから井戸ってちょっと離れててさ」
「あ、いえ、その……ご迷惑をおかけしたみたいで……ありがとう、ございます」
どうやら倒れた僕を、この人がずっと看病してくれていたようだった。
……悪い人じゃないのかもしれない。
そう思うと、少しだけ緊張感が解れて。自然とお礼の言葉が口をついて出てきていた。
そんな僕の姿に嬉しそうに「どういたしまして」と笑みを大きくした男の人は、ベッドサイドテーブルの上にあった水差しへと手を伸ばす。そして、コップにたっぷりと水を注ぐと僕の方へと差し出してくれた。
それを見て、僕はようやく自分の喉がカラカラになっていたことに気づく。
おそるおそるコップを受け取り、まず一口。それから堰を切ったような勢いで、コップの水を貪り飲む。
美味しい。
ただの水がこんなに美味しく感じられたのは初めてだったかもしれない。
水を飲み干した僕は、よほど物欲しそうな顔をしていたのだろうか。男の人は苦笑を見せながらも、僕からコップを受け取りお代わりを用意してくれる。
「……時にお嬢さん。名前はなんて言うんだい?」
涼しげな音を立てて注がれていく水。それをじっと見つめていると、そんな話題を男の人から向けられる。
これまたよっぽど、僕はコップの水に夢中になっていたらしい。
「あ、ナルミです」
思わず脊髄反射的に名前を答えていた。
答えてから、ちょっと不注意だったかもしれないとピシッと身を固くする。
こんな明らかに外国風味な街で、和風な名前なんておかしいんじゃなかろうか?
とは言え、別の名前が思いつくわけでもないし、もう名乗ってしまった以上は後の祭りだ。
「そうか、ナルミちゃんか……俺の名前はヴァンセット。このエリスティアの街で、まぁ、なんて言うか……何でも屋みたいな事してるんだけど」
しかし、どうやらそんな僕のモヤモヤした悩みは杞憂に終わったようで。特に訝しむ風もなく男の人──ヴァンセットさんは、自分も名乗りながらコップを僕に手渡してくれる。
それにしても、ヴァンセットさん、か。
これはいよいよ日本じゃないらしい……なんだかゲームに出てきそうなファンタジーの世界に迷い込んだような気さえしてきた。
そんな事を考えながらコップの水を飲む僕の隣に、ヴァンセットさんが腰を降ろす。
そして、僕が水を飲み干すのをゆっくりと待ってから、話を切り出してきた。
「さて、それじゃあナルミちゃん。ちょっとお話を聞かせてもらってもいいかな?」
「……話?」
僕に聞きたい話って、何だろう……。
むしろこっちが聞きたいくらいなんだけど。
不安気な表情を見せていただろう僕とは違い、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめるヴァンセットさん。
その笑みがちょっとだけ怖く感じられたのは、僕の気のせいだろうか?