プロローグ
━━いったい、どういう経緯かは定かではないのだけれど。
ただ、定かではないなりに僕にも言えることは幾つかある。
それはそこが僕にとって、まったく見知らぬ部屋であったということ。
そして、僕はその部屋に据え付けられたベッドの上で今の今まで眠っていたらしいということだ。
ここはいったいどこなのか。
どうして自分がこんな所で寝ているのか。
見覚えのない天井を見上げながら、心臓の鼓動が早鐘のように鳴っているのを感じる。じわり、と嫌な汗が肌に浮き上がっていた。
あまりの事にただ茫然自失としながらも、僕はベッドの上に身を起こす。
眠り過ぎた時に感じる様な気怠さ。それが全身に纏わりついている。自分の身がひどく重たくなった様に思われ、僕の意に反して動作は緩慢なものだった。
頭の中が真っ白になりつつも、まず周りの状況を把握しておかなければと思ったのは、理性的な判断からというよりも単純に恐怖のせいだった。自分が全く訳のわからない所にいるというだけで、まるで魔物の口の中にでも放り込まれているかのような気分さえする。
そこは真新しい洋室のようだった。
床は板張りで、窓は部屋に一つきり。
僕が寝ている大きめのベッドとその脇に置かれた真っ白なベッドサイドテーブル、部屋の隅に置かれた簡素な姿見以外に家具らしい家具は無い。
なんとも殺風景で生活感に乏しい部屋だ。
ベッドサイドテーブルの上には、お盆に載せられた大きな水差しとコップ。
そして、ガラス製の花瓶。
そこには名前の分からない小さな白い花が生けられていて、この無機質な冷たさに満たされた部屋で唯一、優しい温かみを僕に与えてくれた。
その花の姿に幾らか勇気をもらった僕は、ベッドを降りて立ち上がる。
そこで初めて、僕は自分が大きなダボダボのシャツ一枚を着ただけの姿でいることに気づいた。
何とはなしに袖口を掲げて匂いを嗅いでみると、清潔な生地の香りに混じって、ほんのりとタバコの臭いがした。
いったい、これは誰の物なのか?
自分はまだ高校生の身の上だし、こっそりとタバコを吸うような習慣も無い。家族の中にもタバコを嗜む者はいない。
とすると、この部屋の主が着せてくれた物なのだろうか。
……そこまで思い至って、ぶるりと悪寒に身を震わせた。そうなってくると『別の意味』での不安も現れてくる。
なるべく、その事については考えないようにしよう。
努めて別の事柄に思考を向ける事にして、改めて僕はシャツへと目を落とす。
大きなシャツだ。高校生の男子としては標準くらいの体格はあるつもりでいたが、このシャツはそんな僕からしてもぶかぶかで相当大きい。これから相手の体格を類推するとかなりの大男ということになる。
そう考えつつも、僕は心のどこかで違和感を覚えていた。いや、違和感というならこの状況そのものがすでに違和感なのだが、それとはまた異質のものだ。
その違和感の正体がなんなのかが掴めずにモヤモヤとしたものを感じながら、僕は部屋に設えられた窓へと向かって歩く。まだ起きた時の気怠さのようなものが頭や体にのしかかっているように思われて、足取りがどうにもおぼつかない。上手く思考がまとまらないのもそのせいだろうか。
ひんやりとした床の感触を裸足の裏に感じながら、窓の元へと辿り着く。
両開きの窓は開け放たれており、外からはやわらかい風が吹き込んできていた。
……それにしても、この窓枠。少し位置が高くて、ちょっと不便じゃないかな?
そんな窓の外に見えたのは、まず青空。時刻はまだお昼前と言ったところだろうか。
そのまま視線を下ろしてみる。
どうやらこの部屋はマンションの3階位の高さにある部屋だったらしい。
眼下には白亜の街並みが広がっており、立派な石畳の路の上を沢山の人が往来している。そのなかには二頭立ての立派な馬車や、槍や剣を担ぎ鎧を着込んだ人達の姿もあって━━って……え?
全く想像だにしない光景に、思わず僕は両の目をこする。そして目を閉じたまま、大きく深呼吸してからゆっくりと目を開いて外を見直してみる。
しかし、見間違いだったのではないかという、祈りにも似た僕の思いは神様には届かなかったらしい。そこには変わらず、現代の日本にはおよそ似つかわしくない中世ヨーロッパ風の街並みが見えるばかりだった。
果たして、自分は正気なのだろうか?
誰かにそう問われて「勿論」と答えられる自信が、今の僕には無い。
何故なら、正気であるはずのこの眼に映る景色が、どこまでも『異常』そのものなのだから。
くらりと眩暈のようなものすら感じ、窓枠をしっかりと掴む。僕には、眼下の光景を唖然と見つめながら立ち尽くすしかなかった。その表情はきっと、すっかり青ざめていたに違いない。
僕の背後から声が聞こえたのは、そんな時のことだった。
「━━エリスティアの街を見るのは、初めてかな?」
男の人の声。
弾かれたように、という例えは正にその時の僕の事を言うのかもしれない。
怯えた獣の様に振り向いた僕を見て、入り口に立つ男の人はすこしだけ目を丸くしてから、少し戯けたように肩を竦めて苦笑いを見せる。
……いや、今はそんなことよりも。
え、エリスティア……?
マイナー県の地方都市に住んでいて県外なんかに出かける事もほとんどない僕だけど、日本中のどこを探したってそんな横文字の街があるわけないということくらいは分かる。
改めて見直してみてもその街は、僕の記憶の中にある日本のどの風景にも合致しないものだった。
眩暈が一層強くなった気がして、額に手を当てる。
頭も軋むように痛んでいた。
そんな食い入るように窓の外を見つめる姿をどう思ったのか、男の人は僕の隣まで歩いてくると一緒に窓の外を眺め始める。
並んでみると、男の人は僕よりもずっと背が高かった。
……いや、これは違う。
そんな単純な話じゃない。
違和感が、嫌な感触に変わっていく。
不安がどんどんと膨れ上がって、胸が、苦しい。
「夢中になる気持ちは分かるよ。俺もよくボーッと眺めたまま、随分と時間を無駄にするからね」
こちらへとやわらかい笑みを向けながら、ぽんぽん、とその手が僕の頭を撫でる。
「色々と洒落た店も多いし。年頃の女の子としては、そういうのも気になるんじゃない?」
「女の子?」
予想もしない言葉に、思わず声が出る。その声は細くて高くて、僕の声だったものとは似ても似つかぬ、全然知らない人の声。
まさか。
まさか、まさかまさか、まさかまさかまさかまさか━━。
古今東西、知る限りの神様へと祈りを込めながら。
部屋の隅に置いてある姿見の方へと、おそるおそる振り向く。
……そして、またしても僕の祈りは神様に届かなかったらしいと思い知らされた。どうやらその場凌ぎの信心深さなど、神様にはお見通しであるらしい。
そのぞんざいな造りに反して、綺麗に磨かれた姿見の中。
そこには絹糸の様に白い髪をした少女が、これ以上ないと言わんばかりの驚愕した表情でこちらを見つめている。
驚きたいのはこっちの方だよ。
鏡に映った少女の口の端が、ちょっぴり自嘲気味な笑みに歪められ。
そのままぐらりと体が揺らいだかと思うと━━硬い床が僕の額を打っていた。
ああ……全部、悪い夢だったらいいのに。
眩暈も、胸の苦しさも、額の痛みも、もう感じない。
不思議と穏やかな心地の中、僕は早々と意識を手放した。
自分を鼓舞する意味で、プロローグのみですが投稿させていただきました。
拙い文章ばかり目についてしまうものかと思われますが、これからゆっくりお付き合いいただけましたら幸いでございますー(´∀`)