第二十五話 それから
アスガルドの大通りを南に行ったあたりに、広々とした土地を生かした巨大な建造物がある。十階建てのその建物の一室、よく日の当たる窓際で、チトセはベッドに横たわっていた。
壁もベッドも真っ白で清潔感溢れるそこは、時折薬品の臭いが漂ってくる。つまり、病院であった。チトセはベッドの中で何かをすることもなく、ただ時間を潰していた。
彼は何も怪我を負ったり病気になったりしたわけではない。先日のゴブリンキングの討伐の最中に、腕が吹っ飛んだため検査入院中なのであった。それに加えて生命保険が降りるには腕の欠損の証拠が必要であり、それも兼ねてのことだ。
既に検査は終わって、全く異常がないことが確認されており、さっさと帰してほしいところなのである。あれからゴブリンキングを解体して、腕の骨が一本と足の骨が二本出てきたことから、無事保険金は出来ることになったのだ。
金額は100万ゴールドほどになる予定だと聞いている。それはこの世界における保険が、通院日数などに応じて支払われるものではなく、状態に応じて支払われるものだからだ。その理由として、ジョブ持ちのスキルによる回復はあまりにもレベルによる差があるため、回復にかかる日数と費用が比例しないことによる。
スキルを使用しない再生医療も随分と進んでいて、実際に行うことも可能らしい。そしてその際の費用が100万ゴールドほどだそうだ。また、僧侶のスキル【ヒール】によって回復を行ったとしても、それなりの日数がかかるため、やはりその程度の金額に到達してしまうようだ。
それゆえに、四肢切断により保険を受けようとする者が、既に再生を終えているというのは異例の事実だった。また、そのために全額が丸々チトセの自由になる金となったのだった。
チトセは立ち上がって、窓の外を見た。個室になっている壁の一面は、ガラス張りの窓になっている。夜になれば、きっと美しい夜景が見られるだろう。
そこは七階だったので、遠くまでよく見える。大通りを中心に栄えたアスガルドの町並みは、異国情緒あふれるものではないが、それでも全く違う世界に来たのだと感じさせられる。
ちらりと学園の方を見ると、チトセはこれまでの経緯を思い出す。彼が複数のスキルを使用したことは既に班員たちに知れ渡っていた。そして教員もそれを確認している。検査入院中ということもあって、とりあえずその件については保留になっているが、そのうち詳しい話をする必要があるだろう。
また、腕を斬られたときに失った鎧の方の部分は、今現在修理中だった。修理費は支給されるとのことだったが、もしそうでなければ、あまりにも割に合わなかったと言えるだろう。
色々やることがあって面倒だな、と嘆息していると、入り口の方に人気を感じて振り返った。そこにはチトセと同じく、作務衣状の水色の患者衣を着ているアリシアの姿があった。彼女は物静かなのもあって、病気で入院している病弱な少女と言われても違和感はないだろう。
「あ、えっと……チトセ、くん」
「アリシア、検査の方はどうだった?」
「問題ないって、お医者様が」
「そっか。それは良かったな」
アリシアは俯きがちに、しかしちらちらとチトセの方を見ていた。その顔はほんのりと赤くなっているようにも見える。
彼女はそうして入り口に突っ立っていたので、チトセはベッドに腰掛け、彼女にも座るように促した。アリシアはその隣におずおずと座る。
チトセは彼女と話したことはあまりない。それゆえに何を話したものかと思っていると、彼女から口を開いた。
「あの……あのとき、ごめんなさい」
チトセはアリシアの方を見た。俯きがちな彼女の表情はよく見えない。それゆえに何を思ってのことなのか、推測が出来なかった。
何か謝られることはあっただろうか、と暫く思い返す。そしてチトセは納得した。
「誰だって敵は怖いからね。漏らしちゃうのも仕方ないよ」
「え? あ、えっと、そうじゃなくて……! ご、ごめんなさい!」
アリシアは顔を真っ赤にして、暫く慌ててから頭を下げた。
チトセは違ったのか、と反省する。確かに生死がかかったあの状況でお漏らしが一番重要な出来事にはなり得ないだろう。だとすれば、チトセが腕一本なくなったあたりの下りだろうか。
「えっと。何も気にしなくていいよ。もう済んだことだしさ」
目の前の少女の頭をぽんぽんと軽く叩く。何だかちゃらいイケメンのような行動にも思われたが、手持無沙汰であり、他にすることもなかった。そして女性にそんなことをしたのは初めてであった。深い青の髪はふわふわと柔らかく、ほんのりと甘い香りがする。
アリシアは顔を上げて、上目遣いでチトセを見た。
アクアマリンのような澄んだ水色の瞳が、すぐ近くにある。しかしそれはほんのりと潤んできらきらと輝き、宝石をどれほど磨いたところで出せそうもないほどの美しさがあった。
「チトセくん。……ありがとう」
「おう」
「あのね。チトセくん、とってもかっこよかった」
「そうか? 戦功を上げたのはほとんどカナミだと思うんだけど。俺なんて二回もぶっ飛ばされて、情けなかったしさ」
「でもチトセくんが一番かっこよかったの」
アリシアはそう断定して、うっとりとした表情を浮かべた。女性にこういった類の感情を向けられるのは初めてのことであり、チトセはどうしていいのか分からなくなった。
儚く、触れてしまえば壊れてしまいそうな笑み。そこには純粋なる憧憬や恋慕とは一線を画する、異質さが見え隠れするようだった。
見つめ合うような体勢で、時間はゆっくりと過ぎていく。そこには言葉も音もなく、そして互いに思うことは違っているのだろう。
どれほど時間が経ったのか。あるいはほんの数秒だったのかもしれない。すぐ近くの廊下を看護師がカートを押していく音で、二人の静寂は破られた。
チトセは金縛りから解けたかのように、ゆっくりと話し始めた。
「明日から学校だな」
「うん」
「それまでに退院できるといいな」
「そのときは、一緒に行ってくれる?」
「ああ、構わないよ」
アリシアは、甘えるようにチトセに凭れ掛かった。その様子は子供のように幼く、そしてか弱いものだった。
そうした行動をとりながらも彼の様子を窺って、どこか怯えているように見えるのは、自分の行動が拒否されることへの不安からか。チトセが笑顔を向けると、アリシアは花咲く様な笑顔を浮かべて、チトセの手の上に、そっと手を重ねた。
その手から温もりが、薄い患者衣越しに触れ合う体から柔らかさが、優しく伝わってくる。
彼女の積極性にどぎまぎしながらも、一線を超えたような関係と、縋られる心地好さに、安心感を覚えていた。自分の存在をようやく認められた、そんな気がして。
ガタンッ。自販機からペットボトルに入った飲料が出て来る。チトセは下の受け取り口からそれを取って、口を開けた。元の世界と何ら変わらない、むしろ特定の分野ではそれ以上高度かもしれないこの世界は、快適な生活が出来る環境にあった。
チトセはあれから暫くアリシアと二人で部屋にいたのだが、次第に息が詰まるような雰囲気に耐え切れなくなって、飲み物を買いに行くと言う理由を付けて部屋を出てきたのだった。
ラウンジの椅子に座って一息吐き、暫くぼーっとしていると、エレベーターから見知った少女が出て来るのが見えた。
「お、チトセはっけーん」
少女は橙色のショートの髪をふわふわと揺らしながら、浮かれ気味にやってくる。メイベル・シトリン。アリシアの友人である。
「アリシアの見舞いか?」
「まあそれもあるんだけど。チトセにちょっとお願いがあってね。今時間ある?」
「構わないよ。アリシアが部屋に来てるから、そっちに行くか?」
「あー。いや、それならここがいい」
見舞いに来たのに、会うのを避けるというのは何らかの理由があるのだろうか。チトセがそんなことを考えていると、メイベルはゆっくりと話し出した。
「あのときさ、アリシア重症だったでしょ」
「ああ。両足切断だからな」
「それでさ、あの子すっかり怯えちゃって。ああ、もう元気ではあるんだよ。だけどさ、その代わりに」
そこまで告げると、メイベルは続きを少し言いにくそうにしていた。チトセは自分に関係があることなのだろうかと、首を傾げた。
「その代わりに?」
「……トラウマにならないよう、防衛機制ってやつ?」
「すまん、話が見えてこない」
「あはは、話が下手でごめんね。……まあ、簡単に言うと、あれはボスに襲われたおぞましい出来事じゃなくて、危険なところをかっこいい少年がさっと助けてくれる英雄譚に置き換わったというわけ。彼女にとっては、ね」
チトセはアリシアの様子を思い出して、納得した。それにしてもクラス内50位の落ちこぼれがかっこいいってのも変な話だと思う。
「それで、俺に頼みってのは?」
「当面の間でもいいから、仲良くしてあげてほしいなって」
「言われなくてもそうするさ。何も彼女が嫌いなわけでもないしな」
「ほんと? 助かるよー。さすがチトセ、話が分かるね!」
元々友人が少ない彼にとって、話す相手が増えるのは何も悪いことではない。アリシアはいい友人を持ったなと、背中をバシバシ叩いてくるメイベルを眺めた。
「さてと、彼女を待たせちゃってるし、そろそろ行こうぜ」
それから二人は病室に行くと、アリシアは少し心細そうにして待っていた。しかしチトセの姿を見るなり、顔を綻ばせるのだった。
こりゃ重傷だな。チトセはそんな感情を抱いた。
それからアオイやカナミ、そしてカナミに無理やり連れてこられたナタリが見舞いに来たり、学園の教員たちが来たりと中々に忙しい時間を過ごして、一日は終わっていった。




