第十四話 食事
結局チトセは午前中をほとんどうたた寝しながらすごした。それによって眠気がある程度解消されると、今度は猛烈な空腹感に襲われ始める。思えば、二日前から口にしたのは水とクッキーだけなのだ。
教員が教室から出ていくのを見送ってから、大きく伸びをする。ずっと同じ姿勢でいたせいで凝り固まっていた筋肉が解れていく。
「チトセくん、お昼はどうするの?」
「そうだな、学食で――」
そこでチトセは、一食分の金さえないことを思い出した。今日は購買にでも行って、百円かそこらで買えるだけの食事を買うしかないだろう。それでも腹の足しくらいにはなる、ないよりはましだ。
「いや。金がないから学食はいけないんだった」
「ふふ、じゃあ今日は私がチトセくんに奢ってあげる」
「あーそれは悪いよ」
「まだチトセくんにお礼してないし、何か返したいの。それくらいなら毎日でもいいわ。だから一緒に行こう?」
女性に金を工面してもらうのは、そこはかとなくヒモのようでひどく情けなく思われた。しかしチトセは有無を言わさぬアオイの視線とひたすら鳴り続ける腹の虫に負けて、相伴することにした。
それからアオイと二人で教育棟を出て、厚生棟に向かう。日は天辺まで上っていて、温かな日差しは心地好い。初春のうららかな日和は、眠気を誘う。チトセは欠伸をしていると、アオイは目を細めた。
「いい天気ね」
「そうだな。こんな日は教室に籠ってるべきじゃない。外で昼寝でもするべきだ」
「チトセくん、さっきまで寝てたのにね」
チトセが冗談めかして言うと、アオイはくすくすと笑った。こうして二人でのんびり過ごしていると、この世界の理不尽さも何もかも忘れてしまいそうになる。それほどに居心地がよかった。
しかし、それでもチトセは停滞する気にはなれなかった。一人で生きていくのは難しいからこれから先ずっと食わせてくださいとアオイにお願いすれば、恩義を感じている彼女のことだからそれを受け入れてくれるかもしれない。だがそれは彼の望むところのものではない。
いっそのこと、本体の強さはあまり関係ない僧侶としてやっていくのが一番楽な道かもしれない。他に類を見ない高レベルであり、宣伝さえ上手くやれば治療だけで一生遊んで暮らせるだろう。
それも悪くはないかもしれない。本体のレベルが100になっても、まだ力の差があるようなら、僧侶としての名誉を突き詰めていくのも考慮した方がいいだろう。しかし、まずはレベルを上げ、この世界のことを知るのが先決である。
そんなことを考えていた彼の意識を目の前に引き戻したのは、腹の虫であった。ぐーっと情けない音が出る。
「チトセくんは何が食べたい?」
「腹いっぱい食えれば何でもいいや。とにかく腹が減って仕方がなくて」
「それならフルコースでも頼む?」
「いやいや。さすがにそんなに金を使わせるわけには」
「決定ね。まだ何もお礼できていないんだから、遠慮しちゃだめ」
チトセは彼女の財布を心配しつつも、断ることは出来なかった。逆らい難くも柔らかい、そんな彼女の笑みには不思議なことに安堵と威圧感が感じられるのだった。決して不快ではなく、誇大かもしれないが大いなる存在に見守られているような、そんな安心感があった。
彼女の容貌は、女神と言われれば信じてしまうほど、あまりにも整っていた。鼻筋は通っており、柳眉は一部の狂いもない。白い肌が紅潮すれば雪景色に真っ赤な花が咲いたように幻想的で、風に乗って流れる漆黒の髪は夜の闇より美しい。
二人の間に言葉はあまり多くはない。それほど必要だとも思わなかった。そうしているだけで、何となく伝わっている気がした。
厚生棟に辿り着くと、アオイはちらりと医務室の方を一瞥する。それからチトセを見て、頬を緩めた。彼もまた、そんな彼女を見て嬉しく思った。
二階の食堂に入ると、アオイはメニューを見ずに奥の方へと歩いていく。チトセはその後をついて行った。品を確認しなくていいのかと思ったが、よくよく考えてみればメニューにフルコースはなかった気がする。実は要予約とかではないのだろうか。
食堂の奥には、学食のような周囲とは少々異なった趣の部屋がある。そこで提供されるのは高級な料理ばかりであるため、チトセはそちらに顔を出したことは一度もない。しかし時折貴族らしき少女たちが何人かで入っていくのは見たことがある。お茶会なのか、それとも何らかの話があって、静かな場所を求めてのことなのか。
ともかくその部屋に入ると、ウェイトレスの女性に案内された。これまでセルフサービスだったのと比べれば、随分と良い待遇である。
そこには、思わぬ先客がいた。学食の一般向けの所とは空間的に区切られているとはいえ、中は個室になっているわけではない。それゆえ、窓際のところにいる二人に気が付くことが出来た。
真っ白な髪の小柄な少女と、金髪碧眼の女性。一人はナタリ、もう一人に見覚えがあるもののいつ見たのか思い出せなかった。何やら楽しげに話をしているようだったので、声を掛けるのはやめておいた。そもそも、ナタリとはそれほど仲が良いわけでもない。
それからメニューを見ていくが、チトセはその金額に唖然とした。一品が1万ゴールドを優に超えている。彼の感覚では、食事に出せるのはせいぜい2000ゴールドまでだ。それ以上は値段分の味の違いがはっきりと分かるわけでもなく、そこまで金を掛ける気にもなれない。
「すみません、本日のフルコース二人分で」
戸惑っている彼を余所に、アオイはウェイトレスにそう告げた。チトセは慌ててページを捲って確認するが、そこにはゼロが五つ並んでいた。
「あの、もしかしてアオイっていいとこの御嬢さん?」
「世間的にはそういうことになるかしら」
平然と答える彼女を見て、そういえばこのクラスは貴族が多いんだったと思い返した。その中で、平民の身分は目立つだろうし、つり合いもしない。しかしそれでも、きっとこの気が置けない友人は、それを気にすることは無いだろう。
それからアオイと話をしているうちに、前菜が運ばれてくる。エビにハムが巻かれたもので、鮮やかな色が食欲を刺激する。再び空腹だった胃袋が、さあ食えと頻りに告げるかのようだ。
作法が分からなかったのでアオイの方を見ると、彼女は洗練された手つきであった。貴族ともなれば、マナーの習得は必須事項なのだろう。
「何も気にしなくていいわ。無礼講ってことで」
「それは何より助かる。いかんせん田舎者なんで」
早速口を付けると、これまで食べたことが無いほど上品な味わいと、食材とソースの絶妙な調和が舌から伝わってくる。空っぽの胃袋は、次々と食材を取り込んでいった。
「ナタリさん、というわけで先生と一緒に活動しませんか!」
「あ、いえ……遠慮します」
「そんな! 一緒に召喚獣トークしましょうよ! お昼も奢っちゃいますよ!」
向こうから、そんな会話が聞こえてきた。確かナタリは獣使いだった。もしかすると、あの先生もそうなのかもしれない。それで勧誘に来たのだろう。
それから魚のソテーを食べてそのバターの風味にますます食欲をそそられていると、二人の会話など耳には入ってこない。もしかするとこの先一生こんな食事をすることはないかもしれないのだから、ここぞとばかりに味わっていた。
「せめてナタリさんの召喚獣を見せてください!」
「……はい」
懇願するような女性と、渋々承諾するナタリ。運ばれてきた食事が片付いた合間のことだった。これからメインの肉料理が来るのだが、それまでは少々時間がある。召喚獣は一度契約すると召喚、送還が自由に行える。ゲームでは何度も見てきたが、それがこの世界でも同様なのかは興味があった。
「召喚」
ナタリが告げると、彼女の召喚獣が姿を現した。
「モーモーさん。こっちが先生」
ナタリにモーモーさんと呼ばれたそれは、どう見てもカバだった。黒っぽくずんぐりむっくりした胴体に、靴のような形をした頭。そこにはつぶらな瞳がついている。
体長は二メートルほどと小さいが、召喚獣は基本的に小さい状態がデフォルトだ。スキルに【巨大化】があり、それによって元の大きさ、あるいはそれ以上にまで達することが出来る。
どうにもその召喚獣には見覚えが無かった。単に知らなかっただけかもしれないが、ゲームの街中で見かけなかったので、存在しなかった確率の方が高いだろう。獣使い以外をメインにしているプレイヤーでも、大多数が召喚獣を出しっぱなしにしている者が多かったのだ。チトセもそうだったので、獣使いのレベルは他と比べればそこそこ高い。この世界に来たときに契約は失われてしまったようなので、呼び出すことはできないが。
モーモーさんはのそのそと先生の方に向かったが、彼女が手を伸ばすとそれをさっと避けて逃げ出した。
「あっ。モーモーさん、だめ」
それはナタリの制止も聞かず、先生からとにかく離れようとする。チトセは遠くからそれを眺めていたが、やがてそのカバのような生き物が自分の方に向かってきていることに気が付いた。
「こら危ないぞー。止まれ」
何の気なしに言ったのだが、モーモーさんはぴたりとその場に急停止した。獣使いの【調教】スキルが影響を及ぼしているのかもしれない。
「……チトセ?」
「よう。奇遇だな」
ようやく気付いたナタリが、怪訝そうな顔をした。話を聞かれていたとでも思ったのだろうか。ナタリと先生、二人が向かって来る。モーモーさんに避けられてすっかりしょんぼりしていた先生は、なぜか急に元気になっていた。
「あなたがチトセくんですか!? 先生は今、歴史的な現場に立ち会ってしまったかもしれません!」
「ええっと、俺は水明郷千歳ですが、何の話でしょうか」
「召喚獣は獣使い以外には決して懐かないんですよ! 先ほどのモーモーさんの逃げる仕草、見ていましたようね? とっても愛らしかったでしょう?」
獣使い以外には懐かない。単純なゲームシステムのときとは異なって、生き物として色々面倒な部分があるようだ。そして迫ってくるカバが可愛いというのには同意しがたかった。
「チトセくんは剣士でしたよね?」
「ええ、まあ」
隣のアオイが怪訝そうに見てくる。彼女には僧侶で話が通っていたはずだから、それも当然のことかもしれない。しかしこの場でそれを追及してこないのは、何らかの事情があると察するほどに、聡いからだろう。
「ですから、モーモーさんが言うことを聞いたのは、異例のことなのです!」
先生、残念ながら俺が獣使いだからです。目を輝かせる彼女に向かって、そう言うことは出来なかった。
それから先生は暫く召喚獣トークとやらを続けたが、チトセはそれよりメインの肉料理に夢中であった。暫くして彼女は思い出したように立ち上がった。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。私はリディア・エイデル。学園長です!」
にこにことした笑顔の女性。その有様が子供っぽいせいですっかり気が付かなかったが、この学園に来た初日に、カナミと最前列で受けたオリエンテーションで見ていたのだった。
落ち着いた女性。そんなイメージが、がらがらと音を立てて崩れ去っていくように思われた。




