(七)知成はじめてのお使い
「加山さ~ん、お腹減ったぁ」
スタッフルームに顔を出した知成が言った。
「……あんたたちは、もぉ」加山が鼻で笑った。
忙しくなってからの久しぶりのオフ日であるにもかかわらず、三人は事務所に集まり、ご飯をねだる。
「じゃ、出前を取ってあげる代わりにちょっとお願いしてもいいかしら?」
そう言った加山に知成が、「いいよ、なに?」と、軽く返事をした。
「ご飯食べてからでいいから、この書類を瑛美の家まで届けてくれる? さっきから携帯鳴らしてるんだけど、出ないのよ。役所の書類なんだけど、今日中に渡したいの」
「瑛美の家?」
「そう、ここからそんなに遠くないから。事務所の車使っていいから、お願いできる?」
加山のお願いだ、いやとは言えない。言えるわけが無い。
知成は、出前との交換条件を呑んだ。
応接室に戻り、玲二と一行に「一緒に瑛美の家に行こう!」と提案したが、
「条件呑んできたのは知成なんだから、おまえが一人で行け」と、めんどくさいことはお断りの二人に言われ、知成は出前を食べたあと、加山に描いてもらった地図をたよりに、一人淋しく瑛美の家まで車を走らせた。
「ここか?」
地図と同じ場所にあったのは壊れそうなボロアパートだった。
知成は車を停める場所を探した。
アパートから少し先に、木造平屋のこれまたボロい一軒屋があり、垣根も無い庭先に少しくぼんだスペースがあった。
「ここら辺、高級住宅街なのにボロい家多くね?あっ、ここに車おいちゃおうかなぁ~」
ずうずうしい性格である。
都会の住宅街では珍しく、その平屋には縁側があり、おじいさんがボケーっと座っている。
「あのじいさんボケてそうだし、まっ、いっか」
知成は勝手に車を寄せ、おじいさんに声をかけた。
「おじいちゃん、ちょっとだけここに車置いていい? すぐ戻ってくるから」
「……」
おじいさんは知成を睨んでいるが何も言わない。
耳が遠いと思った知成は腹の底から声を出し、おじいさんに、もう一度言った。
「じーちゃん! 聞こえる!? ここにぃ、くるまをぉ、置いて、」
「うるさい! そんな大きな声を出さんでも聞こえとるわい! ばかたれが!」間髪入れず怒られた。
「なんだよ、聞こえてんなら返事くらいしてよ、じーちゃん」
「わしは、爺さんではない! ばかたれが!」
ブツブツ怒るおじいさんだが、どこから見ても爺さんだ。
知成は困ったが気を取り直し「じゃぁ、おじさん…」と話しかけたが、
「わしはおじさんでもない」と、返された。
「くぁー。じゃぁ、なんだよ!」
「国次郎なので、国ちゃんと呼べ」
「……(やっぱ、このじいさんボケてる)」
「じゃぁ、国ちゃん! 少しだけここに車を置いていいですか?」
「いいよ~」と、ものすごく軽く返事をくれた。
「オレ、あそこのボロッボロのアパートにちょっと行って、すぐ戻ってくるから」
「どこのアパートだって?」
「あれだよ、あのボロッボロの建物んとこ」
知成が指をさした方向を見て、国次郎は訊いた。
「あのボロッボロのアパートになんの用じゃ? 彼女でも住んでいるのか?」
「彼女? あぁ、まぁね。とにかくすぐ戻るから、車見てて」
ずうずうしい知成は、国次郎に車の見張り番をさせ、アパートに向かい、国次郎は、封筒片手に走って行く知成の姿を目で追い、アパートに入るのを見届けた。
「今時珍しい造りの建物だよなぁ」
知成はアパートに一歩足を踏み入れ、一眺めした。
建物真ん中にある玄関を入ると、二階まで吹き抜けの高い天井、両左右に部屋が並んでいた。
中の床は板張りになっており、時折ギシギシと板がきしむ音がする。
内階段を上り、二階の一番奥にある瑛美の部屋に向かった。
チャイムも付いていない。
知成がドアをノックをすると、「はーい」とドア向こうから聞こえてきたのは、男の声だった。
(男? 部屋間違えたか? オレ)
カチャっとドアノブが回り、二十代後半くらいの男が出てきた。
(オレより、か、か、かっこいい…)
知成は、長身で格好良い男に見惚れてしまった。
「なにか…? 新聞とかなら結構ですが」
そう言われ、我に返った。
「あ、いえ、この部屋は夏木さんのお宅では、」
「はい、夏木ですが…」
「瑛美…さんに」
「あぁ、瑛美の友達? 瑛美、今スポーツジムに行ってる。五時前には戻ると思うけど、入って待つ?」
そう訊かれた知成は、少々あせり、封筒を差し出した。
「いえ、これ渡しに来ただけですので。あっ、瑛美さんが働いている会社の加山さんからって、言ってもらえればわかると思います」
「あっ、加山さんから? で、君は?」
「オレは、えーと、瑛美さんの同僚?…です。ということで、それ渡しておいてください。では、失礼します」と言い、知成は頭を軽く下げ、足早にアパートを出た。
「あー、あせった。男がいるなんて聞ーてねーし。スゲーカッコイイし…、瑛美…何人の男と付き合ってんだよ、小野山ディレクターとは抱き合っちゃってるくせに……、あいつ美人だもんなぁ、モテてもおかしくねーよなぁ………………ハァ……」
知成は、溜息まじりの独り言を言いながら、小走りに国次郎のところに戻った。
「坊主、もう彼女との用事は済んだのか?」姿を現した知成に、国次郎が訊いた。
「ん、うん。用事終わった」
「ずいぶん早いなぁ、わしが現役の頃は、体力がありあまって~」国次郎早合点である。
「いやいや、国ちゃん、オレそういう用事で行ったんじゃないし…」
「どうしたんじゃい、フラれたか?」
にんやりと笑う国次郎は、知成の顔を覗きこんだ。
「フラれてねーよー」
「そうか、じゃ、茶でも飲んでけ」
国次郎に縁側に座るように言われた知成は、素直に従い、腰を下ろした。
「ところでさぁ、国ちゃん、ここに一人で住んでるの?」
大きな平屋が気になった。
「まぁな。息子たちは近くにいるんだが、ここには国ちゃんが独りで住んでおる」
自分を「国ちゃん」と呼ぶ、国次郎・七十八歳。
「淋しくないの? それに一人じゃ危ねーし」
「ばかたれ、わしは、まだ老人じゃないわい!」いやいや、老人だ。
「そっか、でも気をつけてよ? 最近悪い人も多いしさぁ、一人暮らしの人狙った詐欺とかあるしさ」
「ははは~、まだ頭はボケとらんから大丈夫だ。坊主は学生か?」
「社会人だよ。で、坊主じゃなくて、知成って言うんだ」
「知成かぁ、良い名前じゃな」
「ありがとう」
知成はうれしそうな顔でお礼を言った。
三十分ほど世間話をしたあと、知成は「また来るね」と国次郎と約束をし、事務所に戻った。
知成が去り、国次郎は縁側に寝転がった。
「良い子じゃったなぁ、あの坊主」
そして、静かに目を瞑った。
キキキーと、自転車のブレーキ音が国次郎宅前で響いた。
「国、国ちゃん!! 死ぬにはまだ早いよ!!」
体を揺さぶられた国次郎は、ムッとし目を開けた。
「まだ死んどらんわい。おまえさんはすぐわしを殺す」
「あっ、生きてた? よかった~」
国次郎の前にいたのは、瑛美だ。
「こんなとこで寝ちゃだめだよ。暖かいっていっても風邪引いたら大変。風邪は老人の好敵手ってやつだよ?」
「老人老人というな、小娘。それに好敵手ってなんじゃい、それを言うなら天敵だ。(時々、わけのわからんことを言い出す娘じゃなぁ…)」
「どこ行っとったんじゃ?」
「久しぶりの休みだから、スポーツジムで運動してきた」
「アメリカからデラカッコイイ男が来てるちゅうに、ほったらかしかい」
「デ、デラってなに?」
「すごくとか非常にとかの意味じゃ」
「あ~、デラカッコイイの耕ちゃんさぁ、仕事でしょっちゅう日本来てるから、観光なんて必要ないもん」
瑛美はニッと笑った。
知成は、事務所に戻り、加山にお使い完了を伝えた。
「ありがとね、知成。瑛美いたんだ。どうして携帯出なかったって?」
「ん、瑛美はジムに行ってて居なかった…から、部屋にいた人に渡しといた」
知成の少しつまらなそうに話す顔を加山は、見逃さなかった。
「部屋にいた人…? あぁ、耕介くんのこと?」
「名前知らないけど……加山さん知ってるの? その人のこと」
ボソボソと訊く知成に、加山の口元が緩んだ。
「ん。いい男だったでしょ~、ん?」
「まぁね…」
「ふふふ、大丈夫よ、知成の方がカッコイイわよ」
「……加山さんに言われても…」
「はぁああ!? 私に言われてもって! なんなのよ! ちょっとー、ちょっとー知成―――!」
加山らしくない声を出してしまった。
知成は、自分の失礼な返し言葉にも気づかず、加山の声も耳に入らず、トボトボとスタッフルームを出て応接室に向かった。