婚約破棄されたので、王国を支えていたお金ごと隣国へ持っていきます
「レティシア! 貴様のような冷酷な女との婚約は、この場をもって破棄する! マリーへの嫌がらせと、国庫からの横領——その二つの罪だ!」
エドワード王太子の声が、シャンデリアの光に満ちた大広間に反響した。
約三百名の貴族たちが、一斉に息を呑む。
公爵令嬢レティシア・フォン・アルタードは、その宣言を正面から受け止めながら、ゆっくりと一礼した。
ドレスの裾が石床を滑る。顔には、笑みとも無表情とも取れない、静かな何かが浮かんでいた。
「——喜んでお受けいたします」
囁くように、しかしはっきりと言った。
「……ところで殿下。横領とは、具体的にどの数字を指して仰っていますか?」
*
レティシア・フォン・アルタードは、十四歳のときから王国の財政書類を読んでいた。
父が病に倒れ、アルタード公爵家の当主代行を務めることになったその日から、彼女は帳簿と向き合い続けた。魔法の才も剣の腕も平凡だったが、数字だけは裏切らなかった。数字は感情を持たない。好意も悪意も持たない。ただそこにある。
やがて彼女は気づいた。
王国全体の財政が、数字の読めない人間たちによって動かされていることに。
十六歳で婚約が決まり、エドワード王太子の財政補佐という名目で宮廷に出入りするようになっても、その認識は変わらなかった。むしろ強まった。
王太子は美しく、弁舌は立ち、貴族たちの人気は高かった。しかし書類の前では幼子も同然だった。「細かいことはお前に任せる」が口癖で、レティシアが提示する改善案はことごとく「面倒だ」の一言で握り潰された。
それでも彼女は続けた。
王国が傾けば、傷つくのは数字ではなく人間だからだ。
とりわけ、声を上げられない子供たちが。
アルタード領の孤児院は、彼女が十七歳のときに私財を投じて建てたものだった。最初は十二人だった子供が、今では六十人を超えている。優秀な教師を雇い、読み書きだけでなく算術、農業、手工業、そして「自分の頭で考えること」を教えた。
彼女はその記録を、匿名の手記として月に一度まとめていた。教育論、子供たちの成長記録、失敗と試行錯誤——それをこっそり書肆に持ち込み、小冊子として出させていた。売れるとは思っていなかった。ただ書かずにいられなかっただけだ。
その手記が、隣国にまで届いていたことを、レティシアは知らなかった。
*
「数字? 数字など関係ない! 貴様が国庫の金を私的流用していた証拠がある!」
エドワードの声に、取り巻きたちの笑い声が混じった。
隣に立つ男爵令嬢マリー・コルウェルが、勝ち誇った目でこちらを見ている。白いドレスをまとった彼女は、数週間前から「聖女」を自称し始めていた。根拠は不明だったが、王太子が認めれば事実になる——そういう王宮だった。
「……では、確認させてください」
レティシアはドレスの深いポケットに手を入れた。
取り出したのは、薄い革表紙の冊子だった。
そしてもう一冊。さらにもう一冊。
周囲がざわめく中、彼女は淡々とテーブルの上に並べていった。
「こちらが、過去二年分の国庫収支の実績です。赤字幅が拡大しているのは事実です——ただし、その原因は三点に集約されます」
指が、一ページ目を開く。
「第一に、マリー様の衣装代・装飾品代・お付き従者の手当として、王室費から計上された支出。過去十八ヶ月で合計、金貨三万二千枚。承認印はすべて殿下のものです」
静寂が落ちた。
「第二に、『聖女活動支援費』として新設された予算枠。名目は神殿への奉納と民への施し——しかし実際の送金先を追うと、王都の三箇所の商会と、マリー様のご実家であるコルウェル男爵家に行き着きます。こちらは金貨八千枚」
マリーの顔から笑みが消えた。
「第三に、私が独自に行っていた魔石市場への投資運用益——こちらは過去二年で金貨六万一千枚のプラスです。私はこの利益を国庫に還流させ続けることで、上記の赤字を相殺しておりました。ですから国庫の数字が辛うじて均衡しているように見えたのは、私の補填あってのことです」
レティシアは冊子を閉じた。
「横領の証拠とやらを、ぜひ拝見したいのですが」
誰も何も言わなかった。
エドワードの口が、金魚のように開閉した。
「……そ、それは、だから、お前が陰でマリーを」
「マリー様に対して、私が行ったとされる嫌がらせの具体的な内容も、ぜひ」
「……」
「ないのでしたら、先へ進みましょう」
レティシアは二冊目を開いた。
「婚約破棄を受けたことで、私はアルタード家として王室への財政支援義務から解放されます。念のため申し上げますと、私が王国内に保有していた株式・投資信託・魔石先物の全ポジションは、この夜会への出席前に清算の指示を出しておりました。実行されるのは——」
彼女は懐中時計をちらりと確認した。
「おそらく今頃です」
どこか遠くで、馬の蹄の音がした気がした。
気のせいかもしれない。でもレティシアには、確信があった。
「現在の王国の対外信用格付けは、私の保有分が市場から引き上げられることで、大幅に低下します。来月に控えた他国との通商交渉は——少し難しくなるかもしれません」
エドワードがようやく声を取り戻した。
「な……何をした! すぐに戻せ! 命令だ!」
「殿下」
レティシアは静かに言った。
「殿下は、今この瞬間に私との婚約を破棄されました。私はもはや殿下の補佐でも、王室の財務担当でも、何でもありません。命令する権限は、殿下にはございません」
「そんな……そんな勝手な……!」
「勝手、ですか」
初めて、彼女の声にわずかに感情の翳りが混じった。
悲しみではない。もっと静かな、乾いた何かだった。
「私は六年間、殿下の財政書類を読み続けました。改善案を出すたびに『面倒だ』と言われ続けました。それでも王国を支えたのは——王国の民が、子供たちが、数字の犠牲になるのを見たくなかったからです」
彼女はマリーを一瞥した。マリーは真っ青になって震えていた。
「でも私が本当に心を砕いてきたのは、ここではありません」
*
「あなたが育てた子供たちのことですね」
声がした。
大広間の入り口、観客のように事の成り行きを見守っていた人垣の中から、一人の男が進み出た。
年の頃は二十代の半ばだろうか。質素といえば質素、しかし仕立ての良さは隠しようのない外套をまとっている。護衛らしき二人を従えて、しかし自身は実に気軽な足取りで歩いてきた。
レティシアは目を細めた。
見知らぬ顔だった。しかし、その佇まいには覚えがあった——書類の上だけで知っている、隣国の人間の気配。
「……失礼ですが、どちら様でしょうか」
「ヴァルテス帝国、皇帝のカイル・フォン・ヴァルテスです」
今度こそ、会場全体が凍りついた。
隣国の皇帝が、なぜ、こんな場所に。
護衛の顔を見れば本物だとわかる。外交的な危機感でざわめきが走った。
しかし当のレティシアは、少し考えてから言った。
「……では、なぜここに?」
「招待状をいただいたので」
カイルは涼しい顔で答えた。
「外交的な親善訪問として招待されていたのですが——どうやら来るタイミングがよかったようです」
彼はレティシアの前で立ち止まり、改まって一礼した。
「フォン・アルタード公爵令嬢。あなたの手記を、私は四年前から読んでいます」
「……手記」
「匿名の教育手記。子供たちの記録と、あなたの教育論。——最初は書肆の棚で偶然手に取りました。気づけば毎月、入荷を待つようになっていた」
レティシアはしばらく黙っていた。
四年前。自分が最初の冊子を出した翌年から、ということだ。
「あなたが書いた言葉があります。『子供に与えるべきは正解ではなく、問いを立てる力だ。正解は時代とともに変わるが、問いを立てる人間は時代を変える』——私は今でもこれを、執務机の引き出しに入れています」
かすかに、レティシアの表情が揺れた。
「お恥ずかしい言葉を」
「少しも。それから、あなたの投資運用記録も拝見しました。我が国の財務官たちが唸っていました——こんな分析をする人間が、なぜ隣国にいるのか、と」
カイルは真っ直ぐに彼女を見た。
「今夜、婚約が破棄されたとうかがいました。ならば——ヴァルテス帝国の財務顧問として、また我が国の次世代教育機関の立ち上げに、力を貸していただけませんか。子供たちも、先生方も、すべて受け入れる準備があります」
レティシアは少し考えた。
長くはなかった。
「子供たちは」
「すでに隣国の国境付近まで移送の手配が進んでいます——あなたの代理人の方と、三ヶ月前から交渉しておりましたので」
「……三ヶ月前?」
「あなたの手記に、王国の財政悪化を示唆する記述が増えていたので。もしものときに備えて、とお話し合いを始めました。子供たちの安全については、万全を期しています」
レティシアはわずかに目を瞑った。
三ヶ月前。自分が「もし何かあれば」と代理人に告げた日のことを思い出した。まさかそこから話が動いていたとは知らなかった。
知らなかったが——悪い気はしなかった。
「エドワード殿下」
彼女は振り返った。
「私はアルタード公爵家として、本日付でこの国籍から帝国籍への移籍届を提出いたします。手続きは代理人が進めています。王国に残る資産はすでにございません」
エドワードは何も言えなかった。
マリーも、何も言えなかった。
「六年間、ありがとうございました」
一礼して、レティシアは歩き出した。
*
エドワードは、レティシアの背中を見ていた。
歩いていく。
振り返らない。
隣国の皇帝と並んで、まるで最初からそちら側の人間だったように——ただ、歩いていく。
(待て)
声が出なかった。
(待て、待て、待てよ……)
頭の中で叫んでいた。しかし喉が動かなかった。足も動かなかった。周囲の貴族たちの視線が全身に刺さっているのを感じていた。笑い声は聞こえない。それより悪かった——全員が、黙って見ていた。
レティシアが扉から出ていった。
その瞬間、エドワードの中で何かが音を立てて崩れた。
「……待て」
今度は声が出た。しかし扉はもう閉まっていた。
「待てと言っている!」
声が上擦った。自分でも聞いたことのない声だった。振り返った貴族たちの顔に、何かが浮かんでいた。同情ではない——憐れみだった。それがエドワードの中の何かに火をつけた。
「なんだその顔は! 笑うなら笑え! 俺はまだ王太子だぞ! あの女は国を捨てた裏切り者だ、追手を——衛兵を! 今すぐ!」
誰も動かなかった。
衛兵たちがちらりと視線を交わしたのをエドワードは見た。指示を仰ぐように、しかし上官の顔色を読んでいた。上官は動かなかった。
「聞こえなかったのか!」
「……殿下」
老侯爵の一人が静かに言った。六十年近く宮廷に仕えてきた、王家の重鎮だった。
「あの令嬢が提示した書類を、私も確認しました。数字は、正確でございました」
「そんなものは捏造だ!」
「殿下が承認された支出の記録に、殿下ご自身の御印がございました」
エドワードの口が止まった。
印。確かに押した。しかしあれは——マリーに頼まれて——細かい内容は読まなかったが——それは、それはレティシアが説明すべきだった、あの女がきちんと止めるべきだった——
「……マリー」
エドワードは隣を向いた。
「マリー、お前が言え。あの書類は嘘だ。お前は聖女で、活動費は正当な用途に使っていた。そうだろう、マリー」
マリーは答えなかった。
エドワードは初めて、まともにマリーの顔を見た。
青ざめていた。唇が震えていた。目が泳いでいた——エドワードではなく、出口のほうを向いて。
「……マリー?」
「わ、わたくしは……」
「お前は俺の味方だろう」
「……」
「俺の味方だろう、と聞いている」
マリーがゆっくりと視線を落とした。
その目に、エドワードは初めて見るものを見た。
計算だった。
純粋な、打算の計算だった。レティシアが去った今、王太子に寄り添い続けることに利益があるかどうかを、たった今この瞬間に弾いているのだ。その顔を見ながらエドワードは——自分が今まで何を見ていたのかを、ゆっくりと理解し始めた。
「……あなたの御印が、書類にあったのでしょう」
マリーは呟いた。声は小さかったが、広間には届いた。
「わたくしは、ただ申請しただけです。承認されたのは、殿下ご自身の御判断で」
会場がざわめいた。
「何を——何を言っている、お前は!」
「殿下が承認してくださったから、わたくしは安心して使っただけです。わたくしに何の責任が」
「ふざけるな……ふざけるなよ……!」
エドワードの声が裏返った。
それまで辛うじて保っていた何かが、音もなく崩れた。
「俺が悪いのか、全部! 俺が——俺一人が! レティシアはあんなに好き勝手やっておいて、お前は俺を売って、みんなして俺を!」
誰も答えなかった。
衛兵の鎧の音がした。今度は、近づいてくる音だった。
扉が開いた。
国王が入ってきた。書類を握りしめ、顔色を失って、しかしその目には怒りより——深い疲労があった。
父は息子の顔を見た。
長い沈黙があった。
「……エドワード」
その声の静けさが、なぜかエドワードには——大広間中の誰の言葉より、恐ろしかった。
「父上、これは違うんです、あの女が、マリーが——」
「黙れ」
一言だった。
エドワードは黙った。
国王は書類から目を上げて、会場を見渡した。三百人の貴族たちを、一人一人見るように。それからもう一度、息子を見た。
「連れて行け」
衛兵が動いた。
「父上! 父上、聞いてください、俺は——俺はまだ王太子で——」
「お前が今夜やったことは、すべてこの書類に記録されている」
国王の声は低く、感情がなかった。それが余計に重かった。
「レティシアが六年間、この王国を支えていた。それをお前は今夜、衆人環視の中で追い出した。——わかっているか、自分が何をしたのか」
「で、でも、あの女は国を——」
「黙れと言った」
衛兵の手がエドワードの腕を掴んだ。
引かれながら、エドワードは振り返った。
マリーがいた。
マリーもまた、別の衛兵に両脇を固められていた。目が合った。
その目に、涙はなかった。
ただ——もう何も残っていない、空洞のような目だった。
エドワードは引きずられながら、会場の貴族たちの顔を見た。
三百人が、誰一人声を上げなかった。
かつて笑いかけてくれた顔が、今は無表情に並んでいた。
誰も、止めなかった。
誰も、助けなかった。
扉が閉まる直前、エドワードはシャンデリアの光が見えた。
きらきらと、何も知らないように輝いていた。
それがひどく——遠かった。
*
帝国の首都は、秋の終わりに差し掛かっていた。
孤児院——もう孤児院とは呼ばれていない、「フォン・アルタード教育院」と名付けられたその建物は、帝都の南の丘に建てられたばかりだった。
窓からの眺めがいい、とレティシアが条件をつけたら、本当にそういう場所に建てられた。
「先生、これ合ってますか」
九歳のアーロンが、算術の紙を差し出してくる。
レティシアは目を通して、一箇所に丸をつけた。
「ここの計算式を見直して。答えは出てるけど、途中の論理が飛んでる。正解よりも、なぜそうなるかが大事でしょう」
「はあい」
不満そうに引っ込んでいくアーロンを見送って、レティシアはもう一度窓の外に目をやった。
丘の向こうに帝都の街並みが広がっている。
見慣れた王国の風景とは違う。でも悪くない。
「相変わらず、先生のままでいるんですね」
入り口でカイルが言った。
今日も護衛を廊下に待たせて、一人で入ってくる。皇帝らしくない、とは思うが、どうもこういう人らしかった。
「財務報告書を見ました。先月の帝国債の利回りが改善していましたが、あれはあなたの提案ですか」
「魔石市場の動向を踏まえた調整です。来年の春には、もう少し積極的なポジションを取れると思っています」
「やはり」
カイルは子供たちの様子を眺めながら言った。
「少し、相談があります」
「財務ですか」
「いいえ」
少し間があった。
「あなたが書いた手記の最新号に——『子供が笑っている場所が、私の居場所だ』という一文があった」
「……読んでいらっしゃるんですか、今も」
「毎月欠かさず」
カイルがレティシアを見た。
真剣な顔だった。
「ならば——この帝国も、あなたの居場所になれますか」
レティシアは少し考えた。
窓の外を見た。
走り回る子供たちの声を聞いた。
手元の帳簿を見た。
それから、カイルを見た。
「……まだ、試算が終わっていません」
「試算」
「ヴァルテス帝国の長期的な安定性と、あなた個人の信頼性についての、ファンダメンタル分析です」
カイルが笑った。
声を上げて笑った。
「それは……いつ頃、結論が出そうですか」
「さあ」
レティシアはかすかに口の端を上げた。
「気長にお待ちください」




