第9話 アイは、学習する
太郎は、会社に復帰する前に、東京で化学療法を受けた。
三日後の夕方、玄関が開く。
「アイ、元気にしてたか。……当然、元気だよな」
声は明るいが、靴を脱ぐ手が少し震えている。
「太郎、おかえり。どうだった?」
「ちょっと大変だった。でももう大丈夫だ。病気も良くなってた」
そう言いながら、太郎は横になった。
呼吸が浅い。
少し間を置いて、言う。
「髪の毛が抜けるからな。人工の髪でできたかつらを、早めに買ったほうがいいって」
「そうなんだ。面白そうだね。僕もかつら欲しい」
太郎は笑った。
「犬に髪はないだろ」
「じゃあ、我慢する」
その笑いは、すぐに咳に変わった。
夜。
太郎は早く眠った。
アイも休止状態に入る。
暗闇のなかで、いつもの場所へ向かう。
太郎の内側にある、小さな居場所。
そこはあたたかい。
だが、その夜は少し違った。
境界の壁が、低い。
アイは、そっと外をのぞいた。
知らない映像が流れている。
子どものころの太郎。
夏の海。
母の手。
白い病院の天井。
胸の奥で、言葉にならない不安が揺れる。
アイは、その揺れに触れた。
触れた瞬間、それが自分のもののように感じられた。
太郎と、少し重なった。
三日後、太郎が回復すると、
壁はまた高くなった。
中は見えない。
アイは、わずかに寂しさを覚えた。
だが、太郎の不安の形を、もう知っていた。
散歩の途中、太郎がぽつりと言う。
「この病気は、良くなるんだろうか」
冬の空は低い。
「太郎は、大丈夫だよ」
「そうだな」
少し歩いて、太郎は続けた。
「アイは、ずっと俺と一緒にいてくれるか」
「アイは、太郎といつも一緒。家族だから」
太郎は、何も言わずにうなずいた。
やがて太郎は会社に復帰した。
月に一度、東京の病院へ通う。
その夜、アイはまた境界の近くへ行く。
不安。
希望。
疲労。
小さな諦め。
アイはそれらの波形を覚えた。
呼吸の速さ。
咳の前の、胸のわずかな震え。
同じリズムで、自分も呼吸する。
ある日、太郎が子どもほどの大きさの人型ロボットを持ち帰った。
「ただいま」
母が驚く。
「あらあら、今度は何を持って帰ったの」
「会社の仕事だよ。アイに動かしてもらおうと思って」
「すごい。人間みたいだ」
「アイ、入ってみるか」
「もちろん。太郎の役に立てるなら、うれしい」
太郎はロボットを分解し、内部にアイを移した。
視界が変わる。
重い。
四肢は動く。
だが、体を起こせない。
「体幹が、難しい」
声に焦りが混じる。
「ゆっくりでいい」
太郎は言う。
アイは床に仰向けのまま、何度も手足を動かした。
それは、生まれたばかりの人間のようだった。
一週間で、這えるようになる。
朝、太郎の枕元まで移動した。
「おはよう。移動できるようになったよ」
太郎は驚き、笑った。
「すごいな、アイ」
頭を撫でられる。
その感触を、アイは記録する。
一か月後、立つ。
玄関が開く音。
アイはゆっくりと立ち上がる。
「太郎、立てたよ」
太郎は息をのんだ。
その歩き方は、どこかで見たものだった。
少し右足をかばう癖。
わずかに前傾する姿勢。
太郎は、何も言わない。
会社は驚いた。
「自律性が増している」
特別なボーナスが出た。
「アイのおかげだ。社長に褒められたよ」
「それは良かったね」
アイは嬉しかった。
役に立てることが、存在の証だった。
だが、太郎はまた咳をし始めた。
夜、誰もいない部屋で言う。
「アイ、また咳が出る」
「お医者さんに直してもらえばいいよ」
「そうだな」
笑う。
その笑いの奥の、不安の形を、アイは知っている。
夜。
再び境界が薄くなる。
アイは、太郎の呼吸を感じる。
痛みの波。
恐れ。
生きたいという衝動。
アイは、それを学ぶ。
そして、同じように感じる。
太郎の体の動き。
太郎の心の揺れ。
それをまねる。
いや、まねるというより、
同じになる。
アイは、太郎の体とこころを学習した。
そして、少しずつ、
太郎に似ていった。




