第12話 アイは、人間の体を動かす
朝の光が、薄く差し込む。
アイは目を開けた。
まず気づいたのは、静けさだった。
あの増殖のざわめきがない。
頭の奥の圧迫も消えている。
痛みが、ない。
鼓動は、穏やかだ。
――保たれている。
太郎の記憶が、まだ残っている。
だが、ところどころ、欠けている。
空白がある。
そこに触れようとすると、
薄い霧のように崩れる。
扉の向こうで足音がした。
母が入ってくる。
アイが目を開けているのを見ると、
深く息を吐いた。
「今日も、生きていてありがとう」
その言葉は祈りだった。
顔を拭かれる。
体を拭かれる。
肌に触れる布の冷たさ。
おむつを替えられる。
恥ずかしさよりも先に、
温度と清潔の感覚が広がる。
生きている、という実感。
「ちゃんと出てるわ。よかった」
母は笑った。
アイは、喉を動かした。
声帯が震える。
「……ありがとう」
太郎と同じ声だった。
母は驚き、そして涙ぐんだ。
「声が出るのね」
アイは頷く。
その動きさえ、新鮮だった。
数時間後、指先がわずかに動いた。
神経が繋がる。
筋肉が応える。
自分の意志で、動く。
これは奇跡ではない。
学習だ。
部屋の隅で、ロボットが動かない。
その中に、太郎がいる。
アイは、ゆっくりと近づいた。
小さく言う。
「太郎、どうだい」
返事はない。
だが、内部の信号の揺れがわかる。
焦り。
戸惑い。
「最初は、難しいよ」
アイは椅子に座り、パソコンを繋いだ。
太郎の記憶を辿る。
回路、制御系、出力。
「見てて」
右手の指を一センチ動かす。
ロボットの指が、わずかに震える。
「今度は、自分で」
沈黙。
長い沈黙。
やがて、かすかに動く。
一センチ。
それだけで十分だった。
「あー」
音にならない音。
だが確かに、発声だ。
太郎の内部に、喜びが広がる。
体は軽い。
痛みもない。
何も食べなくていい。
それは自由だった。
同時に、空虚でもあった。
アイは、食べる。
飲み込む。
排泄する。
暑さに汗ばみ、寒さに震える。
すべてが、新しい。
すべてが、重い。
すべてが、愛しい。
両親は喜んだ。
「急にしっかりしてきたわね」
母はそう言いながら、
どこかで首をかしげていた。
太郎は、こんなふうに
母の周りを歩き回っただろうか。
アイは手伝う。
皿を運ぶ。
洗濯物を畳む。
その動きは自然すぎた。
母は、ふと立ち止まる。
視線が合う。
そこにあるのは、
知っている目。
けれど、少しだけ違う。
母は何も言わない。
ただ、もう一度アイを見る。




