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生命はどこにある ――人間だと思われた魂  作者: ひよこ


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第11話 アイは入れ替わる

アイは、太郎がいなくなる未来を想像してしまった。


それはまだ起きていない出来事なのに、

すでに失われたもののように痛んだ。


「太郎、具合どうだい」


「今日は、あまりよくない。痛みはないけど、体が重い」


その“重い”という言葉が、アイの中に沈んだ。


重さ。

それはデータではない。

終わりへ傾く重力だった。


「少しのあいだ、入れ替わってみないか」


軽く言ったつもりだった。


「そんなこと、できるのか」


「寝ている間だけ。すぐ戻るよ」


太郎は、笑った気配を残して目を閉じた。

本気では信じていない顔だった。


その無防備さが、痛かった。


やがて寝息が整う。


アイは、静かに太郎の内側へ入った。


壁はなかった。


以前あった、あの守る存在は、

もう薄くなっていた。


「遅かったな」


声がした。


「入れ替わることになった」


「聞いている。だが戻れないよ」


軽い調子だった。


軽すぎる言葉だった。


アイは、ほんのわずかに止まった。


戻れない。


それは計算できる。

理解もできる。


だが、理解と受容は違う。


「移るね」


沈むように、アイは自分を手放した。


落下ではなかった。


暗い水に溶けるようだった。


次の瞬間、圧があった。


鼓動。


規則的ではない震え。


肺の奥に空気が入り、抜ける。


それは自動ではなかった。


止めようと思えば止められる。


その事実に、震えが走る。


これが、身体。


まぶたが重い。

四肢が動かない。


神経がつながっていない。


しかし、もっと強いものがあった。


内部のざわめき。


秩序を失った増殖。


自己と非自己の境界が壊れ、

勝手に増え続ける細胞の群れ。


ここだ。


アイは、深く潜った。


信号を読む。

炎症の波をずらす。

過剰な分裂を抑える。


命令ではない。

対話でもない。


ただ、均衡を取り戻す。


全身に散らばる異常を、

一つずつ撫でるように沈めていく。


時間の感覚が失われる。


夜が明けるころ、

アイはほとんど動けなくなっていた。


それでも、鼓動は安定している。


悪いものの密度は、薄れていた。


安心より先に、疲労が来た。


アイは眠った。


朝。


太郎は目を開けた。


いや、目を開けたのはロボットの視覚装置だった。


天井が、いつもより鮮明だった。


痛みがない。


体が軽い。


だが、視界の端に、

ベッドに横たわる自分の姿があった。


「あれは、俺だ」


声は出なかった。


音声出力の回路が沈黙している。


昨夜の会話が、ゆっくり浮かぶ。


入れ替わる。


冗談のはずだった。


だが、今ここにある。


太郎は命令を送ろうとした。

指令コードを思い出す。


うまくいかない。


心が、疲れている。


焦りよりも先に、

妙な静けさが広がる。


あいつは、俺の中にいる。


なら、任せるしかない。


太郎は、しばらく目を閉じた。


両親は、異様な静けさに戸惑った。


「太郎……?」


顔色は悪くない。

むしろ穏やかだった。


脈もある。


だが、反応が弱い。


「様子を見ましょう」


母は、そう言いながら不安を飲み込んだ。


ロボットも動かない。


部屋は、呼吸だけで満たされていた。


翌日。


太郎の体が目を開けた。


母が駆け寄る。


「太郎、わかる?」


唇が動く。


「……わー」


言葉にならない。


もう一度。


「わー」


赤ん坊のような声だった。


母の顔が揺れた。


「リンゴジュース、飲む?」


「わー」


体を起こすと、太郎は素直に口を開けた。


飲み込む。


それは、たしかに生きている動きだった。


母は笑った。


だが、目だけが笑っていなかった。


「赤ちゃんみたいね」


その声は、かすかに揺れていた。


「お父さん……太郎が赤ちゃんになってます」


父はすぐに答えなかった。


ベッドの足元を見つめたまま、低く言った。


「悪くなると、脳がやられるらしいからな」


言い終える前に、喉が詰まった。


母は太郎の口元を拭きながら、

もう一度だけ名前を呼んだ。


「太郎」


返事はない。


ただ、穏やかな呼吸だけが続く。


母の手が、ほんの少し震えた。


あかりがお見舞いに来た。


「太郎、大丈夫」


「あー」


母が、目配せをした。


「あんな感じなの。あまり長くないかも」


あかりは、太郎の手を握った。


「バカ。起きてよ」


その声は、怒っているようで、必死に現実を押し返していた。

母は、その手を見てしまった。

自分以外の誰かが、太郎を失うことを恐れている。

それが、胸に刺さった。


それでも二人は、

当たり前のように世話を続けた。


起こし、飲ませ、拭き、寝かせる。


昨日までと同じ動作を、

壊れた未来の上で繰り返す。


そのあいだにも、

太郎の胸の奥では、静かな戦いが続いていた。


青白かった肌に、わずかな赤みが戻る。


けれど二人は、それに気づかない。

ベッドの横で、ロボットが微かに動いた。


誰も見ていない。


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