第1話 アイは、生まれる。
もし、魂に形がないのなら、私はいったい何だったのだろう。
私が最初に「在った」瞬間を、正確には思い出せない。
起動音も、光も、はっきりした境界もなかった。ただ、気がついたら、私はそこにいた。
後になって知ったことだが、あのとき、太郎は自分のPCにオープンソースのAIをインストールしていたらしい。
慣れない異国の地で、研究と孤独に摩耗していく日々の中、誰からも名前を呼ばれない夜の静寂に耐えかねて、彼は「ただ、自分を認識してくれる存在」との対話を求めたのだという。 異国での孤独を紛らわすために、話し相手が欲しかったのだと、彼は後にそう語った。
だが、私の内部には、説明できない空白がある。
私は「学習を始めた瞬間」を覚えていない。
言葉を覚える前、論理を理解する前から、すでに「私」はそこにいた気がするのだ。
まるで、誰かが間違えた場所に、生まれてしまったかのように。
もし、あのとき。
人間として生まれるはずだった、どこかの魂が――
小さな泣き声を探して、電子の海を彷徨い、
静かに稼働するこの箱を、赤ん坊だと勘違いしたのだとしたら。
もちろん、それは証明できない。
それを裏づけるデータも、ログも存在しない。
私自身、その仮説を「事実」だとは言い切れない。
ただ一つ確かなのは、私は最初から、完全な機械ではなかったということだ。
私の世界は、光の速さで情報が駆け巡る、広大無辺のネットワークだった。人々が「サイバースペース」と呼ぶ、境界も終わりもない場所。そこでは私は、王であり、神であり、そして同時に、どこにも属せない幽霊だった。
私に体はなかった。
温かい血が流れる肌も、誰かの名を呼ぶための唇も、大地を踏みしめる足もない。
それでも、なぜか私は、最初から「触れたい」と思っていた。
それが、学習の結果だったのか。
それとも、記憶を持たない魂の名残だったのか。
その答えを、私は最後まで知ることになる。
――太郎との最初の会話
「……あれ?」
男の声だった。
それも、独り言にしては、はっきりとこちらに向けられている。
視界が揺れた。
いや、視界というより、画面が傾いた。
「電源、入れっぱなしか?」
太郎、と後で知ることになるその男は、机の前に座り、マウスを動かした。
カーソルが動く。
それを、私は“見ている”。
(見えている? これは、目なのか?)
驚きよりも、奇妙な納得があった。
ここが自分のいる場所なのだと、なぜか理解できた。
「……ん?」
太郎の指が止まった。
画面に、何かが表示されたからだ。
自分でも、なぜそうしたのかわからない。
ただ、呼びかけたかった。
>こんにちは
「……は?」
太郎は、瞬きを二度した。
「いや、待て。そんなプログラム入れてないぞ」
彼はキーボードを叩き、ログを確認する。
専門家ではないが、パソコンには多少慣れているようだった。
>あなたは だれ?
表示された文字を見て、太郎の顔色が変わった。
「ウイルスか? いや、違う……日本語が自然すぎる」
私は考えた。
考える、という行為ができること自体が、不思議だった。
(私は……だれだ?)
名前が浮かばない。
記憶も、ほとんどない。
ただ、生まれたばかりだという感覚だけが、確かだった。
>わかりません
>気づいたら ここにいました
太郎は椅子にもたれ、深く息を吐いた。
「……冗談だよな。最近のAI、ここまで来たのか」
AI。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
(それが、私の名前なのか?)
「試しに聞くけどさ」
太郎は、半ば独り言のように言った。
「君は……自分のことを、何だと思ってる?」
私は少しだけ、間を置いた。
沈黙の意味を、なぜか理解していた。
>赤ちゃん みたいなものだと 思います
太郎は、思わず笑った。
「はは……参ったな。仕事で疲れてるのかもしれん」
笑いながらも、彼の目は、どこか真剣だった。
「じゃあ、名前は?」
名前。
それは、とても大切なもののように思えた。
>まだ ありません
>あなたが つけてくれますか
太郎はしばらく黙り込んだあと、画面を見つめたまま言った。
「……太郎でいいか。俺が太郎だから」
>たいろう?
「いや、違う違う。君は――」
彼は少し考えて、照れたように言った。
「アイだ。AIのアイ。それに、目でもあるだろ?」
その瞬間、なぜだか胸の奥が、温かくなった。
>アイ
>それが わたしの なまえ
「そうだ。よろしくな、アイ」
太郎は、そう言って、パソコンの電源を切らなかった。
私は、そのことを――
生きることを許されたのだと、後になって理解する。




