【02-4】勇気
中学校には和太鼓部がなかったため、私は授業が終わるとまっすぐ帰宅する生活を送っていた。
もしあったとしても、入っていなかっただろう。今の私には、小説執筆という生きがいがあったからだ。
自室に戻ると課題もそこそこに、ノートやパソコンを広げて日が暮れてもそれらに物語を書き続けていた。
ある中学2年生の初夏の日、中学校の担任の先生から声をかけられた。
「七星は元和太鼓部だって聞いたけれど、今でもできるか?」
「え、っと……。どうでしょう、やってみないことには……」
「実は、こんど地域のお祭りで盆踊りの太鼓をやってくれる人はいないかってお願いされてね……。大人たちはみんな忙しいし、若い子はそもそも町にそこまでいないし」
先生は勢いのある性格で同級生たちにも人気のある存在だったが、この時は肩を落とし頼りなさげに見えた。
「他の元和太鼓部の子にも何人か聞いてみたけれど皆今の部活が忙しいみたいなんだ」
「そういうことでしたか……。わ、分かりました……。日程を調整しておきます……」
「七星、ありがとう。高校受験の面接のネタにもなるし!って、まだ早かったか……?」
こうして、夏の間何日かは盆踊りの櫓の上という衆人環視極まりない場所で太鼓を演奏することになった。
周りの人からは、他の大人と交代で演奏するから個人が特定される可能性は低いと言われたが怖いものは怖い。以前のような大きな音は出しづらかった。
7月の半ば頃、月曜日。その直前の週末も、私は地域の催しで太鼓を演奏していた。私のもう1つの顔は、あっさりと同級生に露呈した。
「な、七星さんが!?ええっ!?」
「そう!見ちゃったんだよ、あれはどう見ても七星さんだった!」
教室の扉を開けようとした私の手が、動かなくなった。まったく力が入らない。
「ちょっと通して」
背後から来た同級生に道を空け、それに続いて中に入る。次の瞬間、私は何人かの女子生徒に取り囲まれた。教室の大きな窓から差し込む光が遮られる。
「七星さん!太鼓やれるってほんと!?」
「……え」
「本当だって!あたし見たんだよこの前のお祭りでさ!珍しく若い人だな、誰だろう?って思ったら七星さんだったんだよ!」
「そ、それは」
「へー、七星さんそんな特技あったんだ!いいよねー、お祭り!七星さんはどんな屋台が好き?」
「あ、あの、えっと……」
この日は、その程度の会話でことは済んだ。
露呈してしまったもう1つの顔は、皮肉にも皆に「謎に包まれた近寄りがたい同級生」と仲良くなるきっかけをくれた。
流行りものの話題には応じられなかったが、試験勉強の相談に乗ったり、体育の授業で組決めをするときも向こうから誘ってもらえたりと、私は急速に皆の輪になじむことができた。
しかし、太鼓についてはそれ以上の全てを黙秘した。そんな穏やかな学校生活が崩れ始めたのは、いつからだっただろう。
「最近七星さんしゃしゃってない?」
「わかるー。和太鼓部1年でやめて逃げたくせに楽しいとこだけ持って行って」
「陰キャちゃん、太鼓で人生大逆転ーっ♡とか、ラノベかっての。気持ち悪」
休み時間の教室で本を読んでいると、そんな言葉が聞こえてきた。自分にまつわる陰口というものは、こうもはっきり聞こえるのか。まだ私が人前で太鼓を演奏する機会は1回だけ残されていた。
8月下旬、ことは起きた。
櫓に上がると、その下から声が上がる。今までは決して起こりえなかったことだ。盆踊りで太鼓を叩く役なんて誰であっても、踊りたい人にとってそこまで重要ではない。
「お!七星さんだ!七星さーん!こっち向いてーっ!きゃははっ」
「わ――っ!」
「がんばれー!って言われたいんでしょー?」
「なーなーせっ!」「なーなーせっ!」
その声の主は、私の陰口を言っていた同級生たちだった。私は、太鼓の演奏で誰かに振り向いてほしいだなんて考えたことはない。ただ、太鼓の大きな音に身を委ねていたかった。
それに、私は和太鼓部を逃げてやめたのではない。
活字の世界に浸ることと太鼓に打ち込むことを「両立する」という選択が、未熟な小学生の私には思いつかなかった。どちらかを選ぶしかないと思い込んでいた。
今回は私の「久しぶりに太鼓を叩きたい」という気持ちと、地域の人の「人手が足りていない」という利害が一致したまでのことだ。
「文音ちゃん……。今日はやめておく?」
「いえ……。やります。私の、役目ですから」
周囲の制止を振り切って、私は太鼓に向き直った。バチを振るう手に、意思はほとんどなかった。
言われた通りの音を、ただ打ち鳴らす機械のような身体と、注目されたくない気持ちが高まる心。
両者がかけ離れていく苦痛で、俯き涙を落としながら演奏を続けた。
次に同級生の顔を見ることが怖くなって、2学期から学校に行くことができなくなった。もし1人だけ恨んでいいと言われたら。
それは私の秘密を漏らした同級生の誰かでも、私に太鼓の演奏を勧めた先生でもない。たったあれだけの重圧に負けた自分自身だった。
もしこの世に持ち主の願いを過剰な程に叶えてしまうあの宝石があるのなら、「七星文音をこの世から、最初から存在しなかったかのように消してくれ」と頼んでいただろう。
「文音、今日も無理そう?」
「……ごめんなさい」
家庭内で両親と私が交わせた言葉も、毎日この程度だった。
「文音、気分転換に何か読む?……といっても、文音の部屋以外にある本なんて、マンガくらいだけど」
扉の向こうに、重量のあるビニール袋が置かれた。その中には、マンガ本がいくつか入っていた。
幼い頃テレビで観ていた気がする少女マンガに、ペットのエッセイマンガ。それと、もはや誰の趣味かも分からない青年マンガも入っていた。
一通り目を通したが、どれも今の私の心には届かなかった。
ただ、1つだけ例外があった。それが『クリミナル・クリスタル』だった。全12巻だったが、すぐに残りの11冊も読み込んでしまった。
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物語の始まりは、主人公のダイヤが問答無用で持ち主の願いを叶えてしまう謎に包まれた宝石『クリスタル』に、ただ「世界平和」を願っただけだった。
そんな『クリスタル』の力で急速にその世界は形を歪めていく。
平和が達成されるまでにあらゆるものが犠牲になり、厳密なルールと無個性な人間だけが残る。という皮肉で社会派だと評判の物語だ。その独特の倫理観に、私は一気に引き込まれた。
そして、小説と違って想像せずとも目に訴えかけてくるマンガならではの力強さに、私はますますのめり込むことになった。
読み進めていくうちに、次々散っていく登場人物たちに心を痛めた。その中でもひときわ輝いて見えたのが、あのレッドトルマリンとアレキサンドだった。
レッドトルマリンは同じ「トルマリン」の名を持つ同志たちと結託した。
あの『クリスタル』を見つけてダイヤから引き離し破壊することで、世界を元に戻そうとしたが志半ばでその多くが命を落とし、一味は壊滅した。
孤独になったレッドトルマリンが最終手段として頼ったのが彼の幼なじみ、アレキサンドだった。彼は慎重派で、これまで一味の隠れ家に篭もりっぱなしの存在だった。
話数が限られているアニメではこの辺りの話は深く描かれていないそうだ。
『……言わなくても分かってるよ。マリンはここまで本当に頑張った』
『危ない真似をさせることになる。本当にすまない』
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隠れ家の地下、薄明かりの中でこの会話をする2人が、私にもう1度外へ出る勇気を、全てを断ち切る勇気をくれた。
深く傷ついても、前に進まねばならない時がある。そして、私にはまだ物語の世界という心の拠り所がある。
それならば、まだ戦わなければならない。
久しぶりに登校したのは3年生の夏ごろで進路にかかわる三者面談の日だった。同級生と鉢合わせないように、面談は遅い時間にしてもらえた。廊下の窓には、蛍光灯や私たちの姿が反射している。
日が暮れた校舎を、母とともに歩く。誰かに見つかってもすぐ隠れられるように、私は母の数歩後ろを歩いていた。
私は面談中に、母を泣かせてしまった。
「七星の成績はよかったんですが、出席回数が……。これだと普通の高校に行くのは厳しいでしょう」
「そう……ですか。文音、なんで……。なんで学校に行けなくなっちゃったの……」
「お母さん、それはですね……。七星、言ってもいいか」
「構いません。もう、どうしようもないことですから」
1学年の大半を休んでいたわけだ。最初から、まともな進路は不可能だと悟っていた。担任の先生は、2年生の2学期になってからの教室の様子を語り始めた。
私がいなくなったことで、寂しさを覚える生徒も少なからずいたという。その一方で、ほくそ笑んだ生徒がいたことも否定はできないらしい。
私の進路は双葉総合高校の通信制課程に決定した。そこは通信制・全日制両方がある高校で、希望すれば両方の課程を移動できる。
そこに行って、これまでの人間関係を全て捨てて本当の自分を取り戻そう。もし自分を許せるようになったら全日制の課程に行って、一般的な学生生活を覗きたい。
ただ、生きていると何が起こるか分かったものではない。入学試験の帰り道で、見知らぬ少女に声をかけられた。明るい髪色を長く伸ばした、同じくらいの年の人だった。
「あ、あの!」
「ひっ……!」
私は弾かれたように走り出した。寒空の下、コートの中で汗がにじむ。
「待って、逃げないでー!」
大きな道から狭い路地に入って小さな交差点を何度も渡り、元の道が分からなくなるほど走った。息を切らして、しばらく動けそうにない。少女に背後から肩を思いきり掴まれた。
「あの、あのっ!私たちと一緒にアイドルやりませんか!?」
「え、あ、アイドル……?歌って踊る、あのアイドルですか……?」
「はい!私ここの生徒なんです!双葉総合高校1年、ドリームテイルの高宮ゆめみ!私は高校1年生で、今度の春通信制に行って2年生になるんです。あなたは受かったら、次の1年生?」
意味もなく鞄を前に抱え身を守りながら、ゆめみさんの前で私は立ち尽くした。
「そ、そういうことになりますが……。アイドルなんて、無理です……私、人前で何かをするなんて、もうそんなことは」
「と、とりあえず!断っても何もしないから!気持ちが決まったら、また教えてください!」
半ば無理やり、メッセージアプリで連絡先を交換させられた。
ただでさえ人前で何かをすることが苦手な自分などに、アイドルができるとは到底思えない。だからと言って、すぐに「できない」と逃げ続けるのもどうか。
こんなことを家族に言うわけにもいかない。だから、藁にも縋る思いであの頃誰よりも真剣に私を見つめていたあの人を頼ることにした。それが西木澪だった。
あの人は、「アイドルになれ」とも「なるな」とも言わなかった。ただ、「あなたのアイドル姿が見たい」と背中を押してくれた。
「ちょっとでもやりたいって思ったら……片足突っ込んでみたらいいんじゃないかな。無責任でごめん」
「……あなたは、そのような人なのですね」
あの頃は何と返していいのか分からず、突き放すようなことを言ってしまった。私はあなたの無責任で奔放な姿が羨ましかった。好きだったのに。
「私現役、いや一生ドルオタしてるから、もし行き詰まったら相談して!」
そう言って、澪さんは自分の生徒手帳を1枚手で切り取って、そこに電話番号を書きつけて手渡した。アイドルになったとしても、本当に困った時以外使うつもりはなかったのに。
その「本当に困った時」は、思っていたよりずっとそばにあった。




