【08-3】偶像
暗雲の中、もう待ち合わせの15時からどれくらい経ったのか、私には全く分からない。冷たい雨が降りしきり、風がブランコを揺らし続けている。
「ふざけるな……っ。私が、どれだけあの日あの場所でバカを見たか、あの後どうなったのか知らないくせに!アイドルの、きらびやかな面しか見ないあなたに何が分かるというのですか!」
その叫びと共に、私は文音ちゃんにひっぱたかれた。それはもう、泣きたいほど痛かった。
文音ちゃんは、淡々と私に全てを打ち明けてくれた。
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文音は、和太鼓部をやめた後も、ある時期までは時々楽しく太鼓を演奏していた。地域のお祭りに混ぜてもらって、他の人と一緒に楽しい演奏、激しい演奏もたくさんしてきた。当然、そんなことは学校内では秘密にしていた。
ただ、中学2年生ごろに状況は変わってしまった。ある時、盆踊りの太鼓をやらせてもらった週末が明けた月曜日のことだった。
「あ、七星さん!太鼓やれるってほんと!?」
「……え」
「本当だって!あたし見たんだよこの前のお祭りでさ!珍しく若い人だな、誰だろう?って思ったら七星さんだったんだよ!」
「そ、それは」
「へー、七星さんそんな特技あったんだ!」
最初は、まだ思わぬ形で秘密が露呈してしまっただけだった。時にお祭りの話題でクラスメイトと会話が弾むこともあった。しばらくすると、状況は悪化していく。
「最近七星さんしゃしゃってない?」
「わかるー。和太鼓部1年でやめて逃げたくせに楽しいとこだけ持って行って」
「陰キャちゃん、太鼓で人生大逆転ーっ♡とか、ラノベかっての。気持ち悪」
次に参加させてもらったお祭りで、もう思い出したくないほどの酷い冷やかしに遭った。それ以来、文音は学校自体に行けなくなった。嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。結局卒業間際まで人間関係は回復せず、文音はそれを断ち切るために通信制高校を選んだ。
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そして、東京で文音ちゃんを襲ったオタクたちの野次は、まさに「思い出したくない冷やかし」と重なり、記憶の扉を蹴破られた。
「それ以来、私はステージへ上がる以前に皆と並び立つことすら、できなくなった。しようとするたびに、あの光景が頭に蘇る。全身を舐めまわされるような視線、無秩序なペンライトのゆらめき、意味のない絶叫……」
文音ちゃんは雨に濡れながら、その場にしゃがみこんだ。きっと、今文音ちゃんはまた池袋のステージを思い出して苦しんでいる。あの子の震える肩を抱きしめてあげたかった。
「アイドルを構成するすべてが苦痛に変わった。呑気にアイドルの甘い蜜のみを吸っている、あなたには分からないでしょう」
「本当に、つらかったよね。文音ちゃん」
1歩1歩、私は文音ちゃんに近づいていく。抱きしめることはできなくても、せめて文音ちゃんの涙を拭うくらいはしてあげたかった。
「触らないで!」
すべての元凶である私にそんな資格はない。今度は、文音ちゃんに思いっきり上半身を突き飛ばされた。地面に思いきり背中をぶつけて、公園の土のざらざらした感覚が牙を剥く。
もう、文音ちゃんに何をしても罪の上塗りになるだけだ。そこから、しばらく無言の時間が続いた。雨音だけがずっと聞こえる。2人の心の距離は、はるか先まで遠のいていった。




