第八章 記録されざる者たち
更新 毎週水曜・金曜 午後21:00~23:00
騒ぎのあと静けさに包まれた通りにて。
無駄のない長身に、淡く陽を弾く黒髪。額から頬へと流れる髪はきっちり整えられているのに、どこか風に乱されることを前提にした自然さがあった。瞳は深い琥珀色――静かだが、奥底に火種を隠している。
その目に見つめられると、相手は無意識に言葉を正したくなる。声は低く、余計な抑揚を持たない。それでいて、時おり鋭い刃のように響く。着物の色は地味だが、仕立ての良さが一目でわかるもので、腰の小刀は研ぎ澄まされた光を帯びていた。
斎の歩みは速くも遅くもなく、ただ一直線に目的へ向かう。振り返らずとも周囲を察知しているような、そんな気配を纏っていた。
斎は、炭の匂いがまだ残る〈水佇〉の一角で立ち止まる。
そこに息づく者も、道を渡る者も、その瞳に恐怖と不安の影を落としていた。
「誰か。亡くなった女性の名を、覚えているものはいないか。」
斎は見回す視線の先々へ問いを投げた。だが、返ってくるのは、首をかしげる仕草ばかりで、明確な答えはない。
ふと、端にいた老人が顔を上げた。
「……たしか、彩葉と……」
その声は途中で揺らぎ、老人は眉を寄せる。
「いや、菖蒲だったかの……」
言葉はそこで途切れ、まるで掬い上げた水が指の間から零れるように、記憶の輪郭は薄れていった。
「家族や住まいは知らないか?」
「いや、そういや、知らないなぁ……」
斎は、無言で手帳を閉じた。
聞き取りの帳面を閉じたとき、斎は自分の顔がわずかに歪むのを感じた。
――この調子ではだめだ。
被害者とされる人物の名も、素性も、誰一人としてはっきりとは思い出せない。
「……顔は見た気がする、でも……」
証言は途切れ、曖昧な記憶だけが漂う。これでは影の仕組みに迫るどころか、事件の輪郭すら掴めない。
――わからない。あれがどうやって人を変えるのかも、なぜ戻れなくなるのかも。
ただ、書庫で見た記録――あの巨大な〈炉〉の存在が、確かに深く絡んでいる。
――けれど、肝心の役割が、まるで霞に包まれている。
手元の筆を回す。紙は白く、冷たい。
――どうすればいい。手がかりはない。
記録係としての務めは、事実を積み上げ、道を拓くことのはずだ。
――このままでは、何も残せずに終わる……。
路地の風が帳面の端をめくった。
紙の擦れる音が、ひどく遠くに聞こえる。
立ち尽くす斎の耳に、自分の呼吸の荒さがじわりと重なった。
そこへ、屈強な体躯の大男が現れた。
まがまがしい気配をまといながらも、その瞳には、哀しみとも、いたわりともつかぬ色が揺れている。
――久遠だ。
彼は静かに斎へ歩み寄り、手の中の小さな髪飾りを差し出した。焼け焦げ、煤にまみれたそれは、かつて誰かが大切に身につけていたもののようだった。
「……これを」
低く短い声
「女が身に着けていたものらしい」
久遠が斬り、弔った〈影〉。その持ち主は、きっとこの髪飾りの持ち主だったのだろう。
斎はそれを受け取り、しばし指先で煤を払った後、顔を上げた。
「……この持ち主が、どんな人物だったか。知らないか」
久遠はゆるやかに首を横に振った。
言葉はなく、ただ重い沈黙だけが二人の間に落ちた。
久遠は、煤けた髪飾りを手にしたまま、しばらく視線を落としていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……影に取り込まれた人間は、もとには戻れない」
そこで言葉を切り、低く息を吐く。
「……だが、完全に取り込まれる前なら……澪が呼び戻せる」
その声音には、淡い希望と、数えきれぬ失敗を見てきた者の痛みが混ざっていた。
久遠の脳裏を、あの夜の光景がよぎる。
闇に引きずられていく若者――手を伸ばしたときには、すでに瞳の色が変わっていた。
そのときは間に合わなかった。
だが別のある日、澪の声が一人の女を闇から引き戻した。あれは奇跡に近かった。
斎は、じっと久遠の言葉を聞き逃すまいとしていた。
彼の胸中では、いくつもの点が線になりかけていた。
――完全に取り込まれる前なら戻せる。それが鍵だ。
斎は懐から小さな帳面を取り出し、素早く記す。影のメカニズムを解き明かす、重要な証言として。
「澪さんとは、どういう関係なんです? 影と対峙したとき、何を見たんです? 倒すには何が必要なんです? ……澪さんから詳しく話を聞くことはできませんか? それと、一度でいいから書庫に――」
矢継ぎ早に言葉を放つ斎に、久遠は一歩引きかけた。
問いの一つひとつが鋭く、しかも間を与えない。
――息をする間もないとは、このことか。
久遠は返事の糸口を探しながら、わずかに眉をひそめた。
そんな二人の間に、軽やかな笑い声が差し込む。
「あははっ……斎、あんた、久遠さんを質問責めで追いつめてるわよ」
「……間合いの詰め方がまさしく手練れのそれだな。」
花蓮が歩み寄り、久遠の肩を軽くトントンと叩く。
その笑いは、緊張をほどく春風のようで、斎の眉間の皺も少し緩んだ。
久遠はわずかに視線を逸らし、肩をすくめる。
「……答えられる範囲で、話そう」
低く短い声に、花蓮はさらに楽しげに笑った。
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記録係である彼にとって、「記録に残らない人間」は“存在しない”も同義だ。
だが、この街ではしばしば、それが起こる。
数日後、斎は久遠と共に陶京の〈禁書庫〉へ向かっていた。
過去の火災記録、住民台帳、戒厳命令の布告――。膨大な古文書が、慎重に保存されている場所だ。
禁書庫の扉を押し開けた瞬間、奥の机から立ち上がった老司書が目を剥いた。
「な……何をしているのですか! 部外者を、ここへ入れるわけにはいきません!」
その声には怒気よりも狼狽が色濃く滲んでいた。
理由はもっともだ。古の記録が眠るこの場所に、許可なき人間を通すことは本来ありえない。
――それを、どうやって捻じ曲げたのか。
久遠には分からない。だが、目の前の現実は、斎が俺を連れてこの奥へと踏み込んでいるという事実だ。
老司書の顔色は変わらぬまま、しかし足は一歩も動けないでいる。
斎は淡々と、何事もなかったように棚の並ぶ奥へ歩を進めた。
この男……いや、この執念。
相手が誰であろうと、必要とあらば突き崩す。
――やばい奴だ。だが、それ以上に、怖いほど一本気だ。
斎は一つの帳面を開いた。棚の奥、煤けた羊皮紙を広げた瞬間、焦げた匂いが鼻に蘇ったような気がした。
中には、三十年前、陶京の中心部で起きた火災の記録があった。
“感情性災害”――。
その文字だけが、真新しい朱筆で記されていた。
「……書き換えられてるな」
久遠がつぶやくと、隣の斎が身を乗り出した。
「やっぱりそうか。あと、ここの行、火の出どころが“倉庫”から“山裾”に変わっている」
斎の声は抑えていたが、興奮を隠しきれていない。
久遠は指先で紙の縁をなぞる。
「理由は……隠蔽だろうな。真実を消すためか、都合のいい物語にするためか」
「だとすれば、消されたのは何だ?」
「分からん。ただ、こういう改ざんは、何かを恐れてる時にやるもんだ」
斎は顎に手を当て、目を細めた。
「私は逆に、“誘導”だと思います。炉や影に結びつけたくないから、火元を別にしたということでは……」
「誘導か……あるいは両方かもな」
記録の余白には、かつての筆跡がうっすらと残っていた。
焼け落ちたのは、倉庫ではなく――〈炉〉の管理棟。
声には出さなかったが、その単語が二人の間で静かに、重く響いた。
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まだ夕暮れ前だというのに、鍛錬場には冷気のような静けさが漂っていた。
久遠は黙々と型を振っていた。
一太刀、一息、また一太刀――。
鋼の軌跡が空を断つたび、何かを祓うような清浄さがあった。
「……あなたは、いつからここに?」
斎の問いに、久遠は振り向かずに答える。
「目覚めたのは、陶京に雪が降る頃だった」
「では、それ以前のことは?」
「……覚えていない」
斎はわずかに目を細めた。
「それにしては、あなたの太刀筋は“流派”にとらわれていない。まるで、形そのものが……抜け落ちているようだ」
「刀に必要なのは“生き残ること”だけだ」
それは、哲学とも諦念とも取れる言葉だった。
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その夜、斎は一人、禁書庫のメモを繰っていた。
古代文明時代の記録の断片に、ふと目が留まった。
――〈感情制御体〉
――〈対炉制御系統:第七階層/受容器〉
「……器?」
彼は眉をひそめる。
この断片は不完全で、何を指すのかすらわからない。
だが、「受容」や「感情」という言葉がある事に引っかかる。
「まさかな……」
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そして、もう一つ――
別の記録に、こう記されていた。
「〈炉〉は感情の“増幅”を行う。だが、“器”がなければ制御は不可能である」
「器が満ちたとき、炉は暴走する」
「器が壊れたとき、記録は消える」
斎は、その一節を指でなぞり、目を伏せた。
――記録が消える。
それは、ここ陶京で繰り返されてきた“忘却”そのものではないか。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
感謝に堪えません。楽しみにしてくださっている方々がいるということが励みになります。
次回、新たなキャラクターが登場し、主人公を取り巻く環境が刻々と変化していきます。どうぞ、ご期待ください。