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第六章 囁きの影 ―初めての咆哮(ほうこう)―

陶京の空が、暗く濁った灰色の雲に覆われた夜――

その異変は、人々が最も油断する時間を狙ってやってきた。

街の外れ、職人たちが暮らす瓦町がちょう――。

そこは陶器の窯がひしめく地区、その日すらもかろうじて生きる人々が肩を寄せ合って生きていた。

素朴だが、火を使う者たちの細々とした暮らしがそこにはあった。

その夜、瓦町の小路から、突如、叫び声が響く。

「やめて……やめてッ……誰か……!」

久遠が気づいたのは、夜の鍛錬を終え、帰途に就いたそのときだった。

耳が、音にならぬ“感情のうねり”を拾う。

恐怖。怒り。苦しみ。悔しさ。

声にならない濁流が、瓦町から溢れてくる。

久遠は、躊躇わなかった。

腰の鞘に手を添えながら駆け出す。

「……来る」

感情が過剰に渦巻く場所に、“それ”は現れる。

負の思念の塊――怪物〈カゲ〉。

この世界で、人々が山神の怒りと呼び、恐れるもの。

久遠が人をかき分け駆けつけた時、そこには変わり果てた姿の男がいた。

肉体は膨張し、もとの顔は失われ、代わりに黒い炎のような影が揺れ動いていた。

目は赤く輝き、周囲の者を見境なく傷つける。でたらめに周囲の地面をたたきつける、大きな腕ともつかぬ黒い塊。地をたたきつけるたびに轟音が鳴り響き、砂ぼこりが立つ。

――その男は、瓦師だった。

妻を病で失い、母と同じ病に伏せる娘の薬代を工面するために、昼となく夜となく、働き続けた。

陶京の南、職人街にひっそりと構える窯場。

繊細な手のひらで、瓦を重ね、焼き上げる日々。

薬を買う金もなく、娘の命も蝕まれていった。

それでも男は、必死に働き続けた。

娘の病を治すこと――ただそのために。

 

だがある日、火事が起きた。

延焼の始まりは、男の窯場だった。

「きっと彼の火の不始末が原因だ」

「窯から火が漏れたらしい」

「娘も見かけなくなった――嫁さんの薬代を口実に身売りに出したんだろう」

悪意の噂は、街角に転がる割れた瓦礫のようにあちらこちらへ飛び散った。

それを拾い集める者はなく、正しさも真実も、誰も気に留めなかった。

そんな中、娘が病で息を引き取った。そして、男の中で何かが壊れた。

心に染み込んだ言葉は、やがて形を変える。

黒く、重く、熱く。

――〈カゲ〉は、その夜、生まれた。

◆◇◆◇

地面が鳴った。

それは叫びでも雄たけびでもなく、“憎しみ”の圧力だった。

炭塵たんじんのように黒い靄が地を這い、瓦礫の間から這い出したそれは、人のかたちを留めていない。

いや、“人”だった何かだ。

身体の半分は焦げ崩れ、片目は虚空を見つめ、口は言葉にならぬ呻きを漏らしていた。

背には瓦の破片を無数に貼り付けたような甲殻。

脚は焼けた陶片のように裂け、動くたびに耳障りな音を立てる。

 

一瞬、その前に、一陣の風が吹いた。

「ッ――」

次の瞬間、影〈カゲ〉の顔に刻まれた傷。

煙のような体に斜めに閃いた銀の軌跡。

それを追って地面に降り立ったのは、久遠だった。

外套が翻り、刀身が月の光を受けて白く光る。太刀筋が見えたものは誰一人いなかった。

群衆に向かってただ一言「……下がっていろ」と残し、久遠は前へと歩み出る。

〈カゲ〉が唸り声をあげ、地を蹴った。

地面が砕け、陶片が飛ぶ。

腕とも脚ともつかぬ太い肢を振り上げ、久遠に打ちかかる。

でたらめにあたりを打ちつけるその太い肢。その一撃でも当たれば、家屋をも砕くだろう。

だが――

斬っ、た。

久遠の刀が音もなく空を切ったかと思うと

鈍く、低い音。骨ではない。陶。いや、陶に似た“感情の塊”。

斬撃の衝撃波と共に、〈カゲ〉の背中の甲殻が真っ二つに割れ、黒い煙が噴き出した。

それは血ではなく、溜まりに溜まった“嘘と怒り”の塊だった。

 

だが、影は崩れない。むしろ、形を変える。

破片を纏い、全身がより硬く、より凶暴に変わっていく。

(思念が……感情を媒介に進化している)

久遠は視線を落とさない。

一歩、また一歩と歩を進め、呼吸を整える。

(落とせ。気を、感情を――)

自らが怒りに呑まれれば、同じものになる。

刀は、ただ“人を守る”ために在るべきだ。

 

「――はっ!」

斬撃が続く。

首筋、肩口、脚。どの一太刀も、的確に、迷いなく。

だが〈カゲ〉は倒れない。

それは、まだ“記憶”を、断ち切られていないから。

 

影の胸に刻まれた皿の破片。

そこを、見た。

刹那、久遠の動きが変わった。

ただの“討伐”ではなく、“解放”のための刃に。

刀を逆手に持ち替え、構え直す。

呼吸が変わる。周囲の気配が静まる。

(これは、痛みを知る者への礼儀だ)

「――斬る」

 

一閃。

光が、闇を貫いた。

 

影が崩れる。

黒い陶片が地面に降り注ぎ、その中心に、ひとりの男が膝をついていた。

胸元には、二つに割れた小さな焼き物の皿の破片。

娘がくれた、唯一の贈り物。

涙は、流れていなかった。

だが、目は――やっと、誰かを見ていた。

 

久遠の刀が斬り裂いたのは、瓦師の体ではなく、心を覆った〈思念〉の膜。

斬撃の瞬間、男の“記憶”が脳裏に弾けるように流れ込んできた。

──記憶の中の娘が笑っていた。土で遊んだ手を、無邪気に差し出していた。

「父ちゃん、これ、焼いてくれる?」

そう言って差し出したのは、小さな皿。ひび割れて、いびつで――

だが、娘が自分のために初めて作った、“器”だった。

男はそれを、窯の奥にしまっていた。

焼き上げ、仕上げ、娘に届けるために。

(……誰が、壊したのか)

誹謗と中傷、ねじ曲げられた情報――。

それは、男の心にとどめを刺し、彼を怪物へと変えた。

久遠は息を整え、刀を収めた。

「……」 手を合わせる。

〈カゲ〉は音もなく崩れ、闇に還っていった。

黒い煙のようなものが、渦巻き、叫び、暴れる。

けれど、久遠はそれに押し潰されることなく、静かに立っていた。

いつの間にかそこに佇んでいた澪が、久遠の背中に向けてその名を呼びかける。

澪の声は届かない。

だが彼女は見た。

斬撃の中に、何かを救おうとする手のひらがあった。

憎しみではない。怒りでもない。

(あれは、悲しみ……)

涙をこぼすような斬り方だった。

 

やがて静寂が戻る。

久遠が背を向けて歩き出す。

その背中を見つめながら、澪はひとり言のように呟いた。

「……それでも、斬らなければならなかったんですね」

 

人を守るということは、時に人の痛みを切り捨てるということ。

それでも久遠の剣は、どこまでも“人”であろうとする刃だった。

________________________

翌日、陶京の町は噂で持ちきりだった。

「また山神様の怒りだ」

「誰かの悪しき心が呼んだんだ」

「でも、あの黒い影を斬った者がいた……!」

民たちは不安を押し殺しながら、日々を続ける。

その夜、澪は小さな祈りを捧げていた。

そっと手のひらに器の欠片をのせ、彼の娘の墓前に供える。

「だいじょうぶ。…こころの割れ目には、光が差しこむの」

その言葉は、まるで誰か――遠くを見つめる久遠にも向けられたかのようだった。


――記録の歪み、記憶の空洞

朝の陶京。昨夜の騒動を飲み込み、街は何事もなかったかのように賑わいを取り戻していた。

通りには湯気の立つ屋台が並び、人々は日常の喧騒に身を預けている。まるで〈カゲ〉など最初から存在しなかったように。

その違和感に気づいていたのは、街の記録を司る男・(いつき)だった。

斎は役所に保管された災害記録簿を広げ、眉間に皺を寄せた。

「……この記録、昨日のものが……ない?」

「ない?」と、傍らで煙管をくゆらせる女が低く呟いた。

絹のような黒髪と、艶やかな紅い唇。花蓮――陶京でも名の知れた繁華街〈灯街〉の名花でありながら、その観察眼は侮れない。

「火の手が上がったのは、確かに夜半だった。目撃者もいたはず。でも……噂ひとつ、ないわね」

斎は頷いた。

「それだけじゃない。被害報告も、行方不明者の記録も空欄だ。まるで……“起きていない”ことになっている」

ふたりは顔を見合わせる。

「でも、私は見たわよ。あの“男”が、刀を振るったのを」

花蓮の声には、微かな震えがあった。

「――人のものじゃなかったわ。刀の軌跡も、間合いも、あれは“誰か”に教わって身につくものじゃない。もっと、深く、もっと……冷たいものよ」

「久遠、か」

斎はその名を口にした。

刀を操り、〈カゲ〉を祓った男。

今、陶京の市中では「山神様の遣い」「闇斬りの男」などと勝手に呼ばれているらしい。

だが斎は、あの戦いのあと――

現場に遺された瓦師の“遺体”を、記録に記せなかった。

「そもそも、死体が……無かった。あの男が〈カゲ〉だったなら、消滅するのも理解できる。でも、彼の持ち物だけが、瓦礫の中にぽつんと残っていた」

「人だったってこと?」

花蓮が煙を吐く。その目が、久遠の背中を思い出すように細められる。

「久遠が斬ったのは、“影”じゃない。――心だったのかもしれないわね」

 

沈黙が流れた。

花蓮は扇を閉じ、視線を斎に戻す。

「もしそうなら、どうするの? この街は……“影”の存在した痕跡を消そうとしているわ。都合よく、抜け落ちてる。斎、あなたまで目を背けたら……」

「記すよ。俺は忘れない。だから――調べる」

斎はそう告げて立ち上がる。

その手には、墨で満たした筆と、空白の記録簿。

花蓮はその背に「気をつけて」と小さく呟いた。

久遠の目に、確かに一瞬、揺らぎを見た。

ただ斬る者の瞳ではなく、何かに耐える者の――。

 

この街は、何かを忘れている。

いや、“忘れさせられている”のかもしれない。

では、それを“誰が”望んでいるのか。

そして――久遠とは、何者なのか?

 

◆◇◆◇


そのころ、久遠は郊外の修練場でひとり座していた。

陽の光が仄かに差し込む中、抜いた刀の刃を拭い、ふと自分の手を見下ろす。

傷ひとつない、無機質な手。

あの夜、自分が斬ったもの――あれは、ほんとうに〈カゲ〉だったのか。

刃が届いたとき、刀越しに“熱”を感じた。

それは怒りではなく、悔いでもなく――

「……娘を、助けてくれ」

そんな声すら、聞こえた気がした。

 

久遠の目が、曇る。

その瞳の奥に、誰も知らぬ記憶のひとかけらが微かに揺れた。

まるで、それが過去の“自分”と呼応しているかのように。

 

――人の“影”とは何か。

――そして、自分が斬っているものは……本当に、外側の“敵”なのか。

 

刀の刃が、わずかに揺れた。

その揺れに、彼はまだ気づいていなかった。


――記されざるもの

 静謐せいひつ――その言葉は、こうした空間のためにあるのだと、斎は思った。

 陶京の北にひっそりと構える〈禁書庫〉。

 陶器のように滑らかな白壁に、すすひとつない石段が静かに続いている。

 朝靄がまだ街の屋根を撫でている頃、斎は書庫の門を叩いた。

 何年ぶりか――いや、十数年、足を踏み入れていなかっただろう。

「斎殿。禁書庫の閲覧には、陶府の許可状が――」

「……夢を見た。奇妙な夢をな」

「は?」

「言葉ではない記録。声でもない声。……人々が、何かを忘れている」

 不意に、風が木の葉を鳴らした。

 応対に出た守吏は黙し、やがて渋々と鍵を開けた。


 書庫の奥は、地下へと続いていた。

 紙ではなく、粘板。木簡でもなく、彫刻のような石の記録。

 それらの多くは、「読めぬ文字」で綴られていた。

「古代文明の遺物……だが、誰もそれを“古代”とは思っていない。

 記録があるのに、誰も覚えていない。記憶に触れるたび、空白だけが浮かぶ」

 斎はふと、ある粘板の前で足を止めた。

 ――そこに描かれていたのは、「山」だった。

 だが、ただの山ではない。山肌に刻まれた複雑な紋様。そして、中央に据えられた、

 燃え盛る心臓のような何か。

「……“炉”」

 そう記されていた。間違いなく、斎にも読めるその一語だけが、異様に鮮明だった。

 まるで、“読まれること”を前提に残された言葉のように――。


 深夜。斎は、久遠の姿を思い出していた。

 まるで山のように黙し、風のように動く男。

 だが彼の背には、いつも――“人ではない、何か”の影があった。

「この記録を奴が見れば……いや、あの男は、すでに知っているのか?

 いや、むしろ――“知らない”のではないか?」

 斎の中に、ひとつの疑念が芽吹く。

 久遠は、知っていて黙っているのではない。

 知らぬまま、何かをなぞって生きているのではないか――

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

今週金曜日の更新はお休みさせていただきます。楽しみにしてくださっている皆様、申し訳ありません。次回またお話をお届けできるよう、頑張ります!

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