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第五章 揺れる記憶、歪む空

 夜が明けきらない陶京の街には、まだ淡い靄が残っていた。

 路地は白くかすみ、瓦屋根の端にも、朝の霧が静かに絡んでいる。


 寺院の裏手にある小さな修練場。その静かな空間で、久遠はひとり剣を振っていた。

 きっかけは、あの〈カゲ〉と遭遇した夜のことだった。

 取り憑かれ、暴走していた青年を、花蓮や澪と協力して助け出した──名は楓馬ふうま


 彼は陶京のはずれにある、今は使われていない道場の息子だった。

 けれど、剣術の才には恵まれなかった。

 「剣は、才能のある者だけが握るものだ」

 幼いころから、そう言われ続けてきたという。

 楓馬は自分の不甲斐なさを呪いながら、それでも道場に通った。

 やがて弟子もいなくなり、父も病で倒れ、道場は荒れたまま放置されていた。


 そんな彼が、久遠に道場の鍵を託したのだ。


 「自分には振れません。でも……あの場所が、誰かの役に立つなら、使ってください」


 その日から、久遠は朝だけ、その修練場で剣を振るようになった。

 誰もいない、静かな空間。剣を振る音だけが、響いていた。


 身体はすでに馴染んでいる。だが──

 剣を振るたび、手のひらにふと違和感が走る。


 (……この感触、どこかで……)


 だが思い出せない。何かが喉元まで来て、すっと消えていく。

 振り下ろした刃先が、空を裂いた。けれど何の手応えもない。


 まるで、自分がこの世界のどこにも“根を下ろしていない”ような、そんな感覚。

 そのとき──


 幻のような、微かな声が耳をかすめた。


 「……セイギョ……せよ……カンジョウは……エネル……」


 言葉は歪み、音もおぼつかない。

 でも、意味だけがはっきりと心に刺さってくる。


 ──これは命令……誰かが、誰かに対して言った“命令”だ。

 けれど、誰の声かは思い出せない。


 (記憶……まただ。これも、俺のものなのか?)


 久遠はゆっくり息を整え、目を閉じた。


 その日の午後。

 澪が営む薬草屋の店先に、一人の青年が現れた。


 髪は短く整い、清潔感のある身なり。

 穏やかな笑みと柔らかな声。その青年は「いつき」と名乗った。


 「ごめんください。澪さん……ですよね? 薬を分けていただけたらと思って」


 にこやかに話しかける斎に、澪も丁寧に応じる。

 だが──久遠は、ほんの一瞬、彼の背中に“違和感”を感じ取った。


 斎は街の近くに住んでいるらしいが、それ以上のことは語らない。

 どこか、隠しているような空気をまとっていた。


 澪もまた、笑顔の奥でわずかに迷っていた。

 久遠はその揺れに気づいた。

 ──斎に、ほんの少し、心を傾けかけている。


 斎と名乗るその青年の瞳――。相手の奥底に踏み入るような、静かで鋭い視線が、刻印のように久遠の心に残った。


 その夜、夢の中。

 久遠は、かつて見た“山”の中に立っていた。


 ──黒い山、炉の中。

 幾千の感情が炎のように燃えていた。


 その中心に、自分が“装置”のように立っている。

 怒り、恐怖、哀しみ、愛、憎しみ。

 すべてが自分の中を通って、変換されていく──。


 (……俺は、あの中にいた?)


 最後に、誰かの声が重なる。


 「器よ。暴走するな。主の命令に従え。感情は道具だ」


 目が覚めたとき、久遠の額には汗が滲んでいた。


 (俺は──何者だ? 本当に、人間なのか?)


 記憶に近づけば近づくほど、陶京の街は、静かに歪み始めている。

 誰かの思念が、誰かの感情が、確かに燃え上がりつつある。


 そこに斎、澪、そして──久遠。

 それぞれの想いが交わり、物語はさらに核心へとすすむ。


陶京夜話──器の街のうたかた


 陶京の夜は、昼とはまるで違う顔を見せる。

 石畳を橙に照らす灯り、酒を酌み交わす人々。

 三味線の音、艶やかな衣の女たち。どこか夢のような時間。


 楼閣のひとつ「紫苑楼」の座敷で、久遠は酒を前にしていた。

 向かいに座るのは花蓮。紅の唇に、揶揄とも親しみともつかぬ笑み。


 「ふふ……無口ね。器でも抱えてるみたい」


 久遠は目を細めた。その言葉の響きに、胸の奥がかすかに揺れる。


 「ここではね、中身が擦れて空っぽになるの。だから、“器”が綺麗じゃなきゃ生きていけないのよ」


 花蓮が酒を注ぐ。その指先に、ほんのわずかな哀しみが混ざっていた。


 「……俺は、酒はあまり……」


 「でしょうね。でもあなたには、酒より“痛み”の方が似合う。……心の器のほう、昔斬られたことがあるんじゃない?」


 久遠は答えなかった。ただ、その瞳の奥に微かな光が揺れていた。


 楼を出た久遠が、裏通りを歩いていると──


 どこからか、唄が聞こえてきた。


 「……♪ 揺れる心に 影差して 流れのままに 生きること……」


 歌っていたのは、路地裏に座る澪だった。

 彼女は割れた器のかけらを拾い、そこに小さな花を差していた。


 「あなたも……割れてしまったのね。でも、花は咲かせられる。欠けていても」


 その声は、誰に向けたものでもなかった。

 ただ夜の空気に、そっと溶けていった。


 久遠は何も言わず、その光景を静かに見つめていた。


 そのころ──陶京の外れ。

 斎は机にうつ伏せるようにして、集められた古文書を前にしていた。無数の文字が並ぶ頁を指でなぞりながらも、「影」という存在の意味は遠く霞む幻影のように、掴みどころなく、彼の眉は渋く寄せられていく。


「影の発生……その輪郭は未だ、掴めず……」


斎は書物から顔を上げ、昼間のことを思い出す。

あの夜〈カゲ〉と対峙したという澪。人ならざる何かを感じさせる彼女の力に、斎は影の正体を知る手がかりを求めて訪ねたのだった。


しかし、いざ扉をくぐろうとしたその瞬間、唐突な疑問が心の中を渦巻いた。

「果たして、……俺の問いに答えてくれるだろうか」


言葉の重さと自分の無力さが、じわじわと胸を締め付けた。澪の穏やかな顔が思い浮かぶ。知らぬまま問い詰めてしまったら、彼女の心を乱してしまうのではないかという懸念。

斎はため息をついた。結局、当たり障りのない言葉を交わして、その場を離れてしまったのだった。


「俺は、何を焦っていたのだろうか……」


暗い部屋を照らす蠟燭の灯りを見ながら、斎は自らの無力さを噛みしめた。真実に近づくためには、無理に踏み込むのではなく、相手の信頼を得なければならない――そう、改めて思い知らされたのだった。


影の正体を知りたい焦燥は消えなかったが、急ぎすぎる自分の浅はかさを反省し、また新たな歩みを模索するしかないと、斎は呟いた。


 大きな山の中――ゆっくりと、確実に。

 人の手では止められない“何か”が、動き始めていた。



ここまでお読みいただきありがとうございます。

次回は久遠がついに影と対峙するシーンを描きます。


瓦町での〈カゲ〉との激しい対峙を通じて、久遠の刀がただ斬るだけでなく、心の奥底に潜む痛みや悲しみを見据えていることを描きます。

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