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第四章 癒し手の光

 誰かを救うということは、時に、自分の中に眠っていたものを目覚めさせることになります。

 それが痛みであれ、怒りであれ、あるいは、ただの迷いであっても──。


 この章では、澪の内に眠る想いと、久遠の中にある「刀を抜く理由」が交差します。

 声なき影は、人の心を映し出し、澪に襲いかかります。


 これは、誰かのために剣を振るった、小さな決意の物語。

 そしてそれは、後に続く「器」という謎への、最初の扉となります。

火事の後のような焦げ臭さが、まだ花街の奥に残っていた。

 久遠は、路地裏の一角で静かに立ち尽くしていた。

 つい数刻前、あの場に溢れていたのは狂気と、歪んだ思念──

 人の形を保ちつつも、人ではなくなっていた女の姿だった。

 そしてその怪異は、ひとりの少女によって静かに(はら)われていった。

 

澪は少し躊躇いながら

 「……助けてくれて、ありがとう」

 柔らかな声に、久遠は振り向いた。

 そこにいたのは、あの少女──

 澪。

 薄藍の絹衣を肩に掛け、手のひらには小さな灯籠のような光が宿っていた。

 その光が、ほんのわずかに彼の影を照らす。

思念の暴走に呑まれそうになった澪を救うために、久遠は咄嗟に刀を抜いて食い止めていたのだった。

 「わたしは、なにもできなかった。あの人が……あんな風になるのを、止められなかった」

 そう言って澪は、ひとつ息を吐いた。

 瞳はまっすぐで、どこか揺れていて、けれど、奥底に確かな光があった。

 「それでも、救ったのはお前だ」

 久遠は低く、ゆっくりとした声で言った。

 その言葉に澪は、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。

 

 

 その時──

 「ぐぅ……あ、ああ……っ!」

 裏路地の陰から、ふらりと一人の若者が現れた。

 額からは冷や汗を流し、体を抱えるように歩き、やがて膝をつく。

 その背には、黒い紐のような煙が纏わりついていた。

 「“思念”……またか」

 久遠は、即座に鞘に手をかけた。

 「ちがう……まだ、“あの子”は、人間のまま!」

 澪の声が、鋭く久遠を止める。

 彼女は若者に近づき、両手を静かに差し伸べた。

 その手のひらから、じんわりと光が流れ出す。

 「怒っても、悲しくても、いい。でも、それに呑まれないで……あなたは、あなたのままでいて……」

 淡い光が、黒い“思念”を包み込み、静かに消し去っていく。

 若者は、まるで夢から覚めたかのように、崩れるように倒れ込んだ。

 澪はそっと彼の肩に手を置き、目を閉じる。

 「だいじょうぶ、きっと、だいじょうぶ……」

 

 久遠は、その光景を黙って見つめていた。

 あの“思念”──

 それは、ただの妖異(ようい)ではない。

 人の負の感情が集い、増幅され、形を得る。

 まるで誰かがそれを「燃料」として求めているかのように。

 ──炉。

 山の頂にそびえる、黒き巨塊。

 その内部で、何が動き続けているのか。

 久遠の中で、かすかな違和感が燻り始める。

  澪の言葉に、久遠はしばらく黙って彼女を見つめていた。

 やがて、まるで何かを確かめるように、低く静かに問いかけた。

 「名前は?」

 「……みおといいます」

 淡く笑みを浮かべてそう名乗ると、彼女は逆に問い返した。

 「あなたは?」

 一瞬だけ、久遠は言葉に詰まるような間を置いたが、すぐに答える。

 「久遠くおんだ」

 「くおん……」

 その名を一度、口の中で転がすように澪は繰り返した。

 そして、うなずいた。

 「なんだか、少しだけわかった気がします。あなたが、ここにいる理由」

 久遠はそれには何も返さず、ただ空を仰いだ。

 山の頂から立ち上る煙は、今もなお、夜空に混じりながら静かに昇っていた。


 「澪……といったな」

 「はい」

 「その力……どうやって得た」

 「わかりません。気がついたら、わたしの中にありました。

 でも、これは……誰かを癒すために、あるものだって、そう思ってます」

 

 澪が影と対峙した直後の沈黙。緊張の余韻がまだ空気の中に残っている。

 久遠は刀を納めると、ちらりと澪の様子を見る。彼女はまだ肩で息をしていたが、次第に落ち着きを取り戻しつつあるようだった。


 ──そのとき、木の陰から、ひょっこりと花蓮が現れた。

 「ふふ……あなたたち、似た者同士ね」

 「……そうか?」

 久遠は眉をひそめる。花蓮はふっと微笑むと、肩をすくめた。

 「ええ。抱えてるものの色も形も違うけれど、それでもたぶん、同じ場所を見てる」

 久遠は何も言わなかったが、少しだけ視線を落とす。その沈黙が、言葉より多くを語っていた。

 花蓮は澪に目を向けると、そっと声をかけた。

 「もう大丈夫よ。ねえ、深く息をしてごらん。ここにいるのは、あなたを傷つけるものじゃないから」

 澪は戸惑いながらも頷き、言われたとおりに大きく息を吸い込んだ。震える肩が、少しだけ静まった。


 その様子を見届けてから、花蓮は軽やかに名乗った。

 「そういえば、まだちゃんと名乗ってなかったわね。私は花蓮。陶京のちょっとした情報屋。困ったときには、思い出してちょうだい」


 その調子は、あくまで軽く、だがどこか核心に触れるような熱を帯びていた。

 花蓮はひとつ髪をかき上げると、冗談めかして久遠を振り返る。

 「案外、こんなふうに人と出会うのって──悪くないものよ。……でしょ?」

 久遠はふ、と鼻先で笑った。それが肯定だったのか、ただの照れ隠しだったのか、本人にもわからなかった。


その夜、風の匂いが違った。

陶京の空は静かに晴れていたが、俺の胸にざらついた不安がこびりついて離れない。


山の向こう、「炉」のあたりから煙が上がっていた。

いつものそれよりも濃く、重く、何かを訴えているようだった。


あの山は、ただの自然じゃない。

感情を集めて燃やし、熱に変える装置――俺たちはそう呼んでいる。

けれど、本当のところ、あの「炉」が何をしているのか、誰も知らない。


なのに今、あれは確かに――呼んでいる。

なにかを、誰かを、あるいは俺自身を。


胸の奥で、遠い声が響いた気がした。

忘れていたはずの記憶が、ひどく生々しく疼く。


何かが始まる。

それは、避けられない何かだ。


そして、きっと――また、俺は剣を抜くことになる。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

第4章では、久遠と澪、そして花蓮のそれぞれの想いが少しずつ重なり合う場面を描きました。

“影”と呼ばれるものの正体や、それに対する彼らの姿勢にも焦点が当たりましたね。

でも、まだまだ謎は深いまま。これからどんどん核心に迫っていきますので、どうぞお楽しみに!

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