第三章 花街の灯(ともしび)
二章まで読んでいただき、本当にありがとうございます。お楽しみいただけていますでしょうか?
皆さまの目に触れていただけることが、何よりの励みです。
物語の構成や人物の歩みに、改めて向き合いながら書き進めております。
そのため、更新が難しい日もあるかもしれません。
けれど、どの一節にも心を込めて綴ってまいりますので、
どうか気長にお付き合いいただけたら幸いです。
久遠が陶京に身を寄せて、十日余りが経っていた。
まるで「そこに居るべき者」のように、街へ馴染んでいった。
早朝に目を覚まし、簡素な宿屋の床のきしむ音を聞き、
白湯を啜ってから、外へ出る。
日が登る前の冷気を肌に受け、ひと気のない祠の裏に立つのが、今では習慣になりつつあった。
黒革の鞘を腰から外すと、ゆるやかな重さが手の中に落ちる。
──ただ一つ、思い出せるものがある。
それは、刀の重みと、振るい方。
それだけは、記憶でなく「体」に刻まれていた。
深く息を吐き、足を開き、両腕を伸ばす。
一太刀。
その動きはまるで、水面を裂く風のように滑らかで鋭かった。
二太刀、三太刀と、音もなく空を斬っていくその姿は、舞のようであり、修羅のようでもあった。
ふと、気配に気づいた。
──見られている。
「……まるで、舞ってるみたいね。殺しの舞。」
その声は、あの女だった。
祠の影、石段の端に腰掛けるようにして、花蓮がいた。
紫の帯に、仄かな香。
肩から垂れる髪には薄桃色の簪がひとつ揺れていた。
「あんた、戦うために生きてるの?」
「……そう見えるか」
「ええ。でもね──」
花蓮は一度、目を伏せて微笑んだ。
「あんたの目は、殺すために生きてる目じゃないわ」
久遠は無言で刀を納める。
その言葉は鋭く、それでいて胸の奥の柔らかな何かに触れた。
「花街で、今夜ひと悶着あるらしいの」 「……何故わかる?」
それには答えず、花蓮は言葉を続ける。
「──黒い影。人の心を囓る、憎しみみたいな何かがうごめいてる。昨日の寺裏町と同じよ」
久遠は視線を少し落とし、問い返した。
「誘っているのか」
「ええ。あんたみたいな“抜かずの武士”が、一度くらい刀を抜くところ、見てみたいのさ」
その言葉に、久遠の口元がほんのわずか、かすかに動いた。
それが微笑だったのか、自嘲だったのか、久遠自身ですらわからなかった。
その夜、陶京の花街・雁羽で事件が起こる。
賑やかな通りに佇む娼館の一つで、突然、女衆の咆哮が空気を裂いた。
その足元から、黒い何かが這い出し、壁を伝い、天井へと這い上がり、空間を塗りつぶす。呻きと怨嗟が折り重なり、影の中で無数の顔が浮かんでは崩れる。
その何かは、客に襲いかかり──黒く蠢く(うごめ)何かへと変貌していく。
呻く声、逃げ惑い娼館の外へと溢れ出す人々。
通りは、あっという間に混乱に包まれる。
そこに居合わせたのは、澪。
澪は一歩も退かず、懐から小さな布包みを取り出す。夜にしか摘めぬという「宵澄草」が、そこに隠されていた。
彼女は葉を指先で潰す。青白い粉が舞い上がり、甘く苦い香りが空気に滲みこんでいく。血に似た重さを帯びながらも、不思議と心を静める冷ややかさがあった。
震える子どもを背に、祈るように両手をかざす。その香りと同時に、澪の掌から微かな光が広がる。光といっても燃える炎ではなく、水面に月が落ちたような、淡く溶ける光。香りと共鳴するように漂い、影の黒をやさしく包み込む。
影はそれに触れた途端、激しく震えた。怒号のような声がかすれ、広がろうとした輪郭が縮んでいく。澪の周囲だけが結界のように澄み渡り、そこへは影が踏み込めない。香りと光が重なり合い、まるで子守歌のように闇を揺らし、眠りへと誘う。
しばらくもがいたのち、黒は水に落ちた墨のようにほどけ、床へ沈み込むようにして姿を消した。
残ったのは、薬草の残り香と夜の静けさだけだった。澪は掌を胸に添え、瞳を伏せる。その仕草は、祈りにも似ていた。影は滅びたのではない。ただ眠らされたのだと空気が告げていた。嵐の去った湖面のように、澄んだ冷たさだけが辺りに漂っていた。
「もう、だいじょうぶ……」
澪の小さな声が、まるで鈴の音のように響いた。
久遠は花蓮に導かれ、花街の異変と澪の力に魂ごと立ち尽くした。
そして、黒い影がただの化け物ではなく──
人の負の感情を凝縮させ、増幅した“何か”であることを悟る。
それは、久遠にとって既視感にも似た感覚だった。
記憶にないはずの感覚が、胸の奥に小さく火を灯す。
そして、音叉の響きが微かに狂い出すように、ここから様々な事件が起こり始める。
夜が更け、陶京の空に煙がたなびく。 山の頂、黒々とした巨躯──「炉」は、今も音もなく稼働を続けていた。
次回、第四章では、火事の残り香が漂う花街の路地裏で、久遠は少女・澪の癒しの力に触れ、“思念”という異形の真実と、静かに揺らぎ始めた世界の歪みに気づき始めます。