最終章 今を生きろ
時は少し遡る。
その時、澪の心は、砕けていた。
壊れた、というより――散っていた。
言葉にならない感情、名を持たない記憶、理由を失った温もり。
それらが、炉の内側で、微かな流れをつくっている。
それは川ではない。
涙でもない。
もっと静かで、もっと確かなものだった。
澪が誰かを想うたび、
誰かの痛みに触れるたび、
救おうとして差し出した、その一瞬一瞬が、欠片となって集まっている。
久遠は、それを眺めていた。
もう、触れることはできない。
導くことも、抱き寄せることもできない。
ただ、そこに在る流れとして、見つめるだけだ。
――これで、よかった。
思考ではなく、感覚がそう告げていた。
澪の心は、誰かに縛られるためのものではない。
炉に囚われるための器でもない。
流れとなり、巡り、誰かの明日へと続いていく。
それを、ここまで運んできた。
それだけで、十分だった。
◇◇◇◇
久遠が炉に取り込まれてから、世界の流れは明らかに変わった。
澄影は、その変化を肌で感じていた。
影はまだ残っている。
だが、勢いがない。
先ほどまで世界のあちらこちらへ噴き出していた奔流が、途中で削がれている。
理由はひとつだった。
炉の内で、久遠は流れを見ている。
感じているだけではない。
選んでいる。
すべてを通すわけではない。
すべてを拒むわけでもない。
流すべきものだけを、炉の奥へ送り、
澱になるものは、手前で静かに断ち切る。
そこに迷いはない。
善悪でも、感情でもない。
ただ、器としての働きだった。
澱が炉に届かない以上、溜まるものは生まれない。
溜まらなければ、歪みは育たない。
影は、発生する理由そのものを失っていた。
影は暴れながらも、途中で力を失う。
噛みつこうとして、形を保てずに崩れる。
世界へ飛び出す前に、行き止まりに触れてしまう。
澄影は、その奔流の中に、微かな違いを感じ取った。
闇とは異なる、わずかな温度。
濁りではない、確かな気配。
澪だ、と直感する。
影が引いていく。
押し返されたのではない。
制圧されたのでもない。
生まれなくなっただけだ。
世界のあちこちに散っていた影が、役目を失い、静かに消えていく。
地を這うのをやめ、壁を離れ、空を裂くこともない。
澪は、このあたりのどこかに戻っている。
澄影には、それが分かった。
考えるよりも先に、体が動く。
名を呼びながら、澄影は駆け出した。
「澪——」
足元の影は、もはや追ってこない。
ただ、薄く、地に溶けていく。
その背後で、久遠は佇んでいる。
炉の内にあり、姿は見えない。
だが、確かに在る。
流れを選び、澱を生ませない。
それが器の役割であり、
その働きが、世界から影を奪っていた。
久遠は動かない。
だが、世界は確かに変わっていた。
◇◇◇◇
遠く。
炉から離れた場所で、花蓮は立ち尽くしていた。
理由はわからない。
何が起きたのかも、知らない。
ただ――胸の奥が、静かに、確実に、冷えていく。
何かが、終わった。
取り返しのつかない何かが、向こう側へ行ってしまった。
花蓮は、言葉を探さなかった。
呼び止める名も、問いかける声も、最初から存在しないかのようだった。
ただ、涙が落ちる。
音もなく。
人知れず。
空を見上げると、光が昇っていく。
蛍のような、小さな光。
一つではない。
いくつも、いくつも。
夜空へ溶けていくその光を、花蓮は黙って見送った。
――行くのね。
そう思ったのかどうか、自分でもわからない。
ただ、胸の奥で、確かに何かが応えた。
◇◇◇◇
炉の中で、久遠は溶けつつあった。
痛みは、もうない。
熱も、重さも、境界も。
それでも、視界だけは残っていた。
見えるはずのないものが、見えている。
空だ。
ぼんやりとした、遠い空。
青とも、白ともつかない、記憶の中の色。
そこに、光が昇っていく。
蛍のような、やさしい光。
――花蓮は、見ているだろうか。
そう思った瞬間、久遠は微かに笑った。
同じ光を見ているのか。
それとも――
この光そのものが、自分なのか。
答えは、もうどうでもよかった。
人々が空を見上げる。
澪が、澄影が、名も知らぬ誰かが。
それぞれの場所で、同じ空を見ている。
その事実だけが、久遠の中に残る。
――今を、生きろ。
言葉にはならなかった。
けれど、その想いは、確かに流れとなって世界へ溶けていく。
久遠の輪郭が、完全に消える。
炉は、静かに動き続けていた。
壊れてはいない。
崩れてもいない。
ただ、均衡を保ったまま、回り続けている。
見上げる者たちの瞳に、光が映る。
それが何であったのかを、知る者はいない。
けれど――
何かが、確かに、未来へ渡された。
その夜、空は静かだった。
◇◇◇◇
遠くに、炉が聳え立っていた。
揺らぐことのないその姿から、細い煙が空へと伸び、晴れ渡った青の中に静かに溶けていく。雲は高く、光は惜しみなく地を照らし、世界は今日も何事もなかったかのように息づいていた。
小高い丘の上に、ひっそりと塚が佇んでいる。名を刻む石はなく、語りかける言葉もない。ただ、ここに確かに在ったという痕跡だけが、土とともに残されていた。春のそよ風が新緑を揺らし、鳥の囀りが近く遠くと行き交う。その音に、野はやわらかく満たされている。
花蓮は丘を上り、塚の前に立った。手にしていた白い花を、ためらいもなく、そっと添える。小さな花々は寄り合い、雲のように重なって揺れた。風が触れても散ることはなく、そこに在るべきものとして、静かに落ち着いている。
花蓮はしばらく動かなかった。祈るでもなく、別れを告げるでもない。ただ胸の奥に残る温もりを、確かめるように息をする。失われたものではなく、今も支えているものとして、それを受け取る時間だった。
やがて彼女は静かに立ち上がる。背筋は凛と伸び、胸は自然と前を向く。肩に迷いはなく、その歩みは確かだ。守られていた人の背ではない。生きることを選び続ける者の姿が、そこにあった。
花蓮は振り返らず、堂々と歩き出す。春の風が、その背をやさしく押す。道の先には、遠くに影がひとつ見える。それは誰かの姿ではなく、行く先そのものが形を取ったように、静かに佇んでいた。
丘の上には、白い花を添えた塚だけが残る。
炉は今日も燃え続け、空は高く澄み、世界は穏やかに続いていく。
本作を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
さて、この物語は、ひとつの役目を終えました。
答えを示すことよりも、問いを残すために。
先の見えない時代の中で、誰かが引き受け、誰かが気づかぬまま守られ、世界は今日も静かに回っています。
救われたわけではなく、壊れなかっただけの均衡。
それでも、人は空を見上げ、光を探します。
炉は、今も動いています。
それは遠い神話ではなく、私たちの足元にあるものとして。
この世界が息をしている限り、物語は、どこかで続いていくのかもしれません。
今まで器を読んで応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。なんとか最後まで描けたことを大変嬉しく思い、続けられたことへの感謝でいっぱいです。また、次回作もお付き合いいただければ幸いです。




