第三十六章 今を生きるとは
人影は、澄影だった。
それが視界に入った瞬間、胸の奥で張りつめていた何かが、音もなくほどけた。
呼吸が、遅れて戻ってくる。肺に空気が入る感覚が、ひどく生々しい。
澄影は少し離れた場所で立ち止まり、こちらを見ていた。
駆け寄ってこない。
名も呼ばない。
その距離が、すべてを物語っていた。
澪は立ち上がろうとして、膝に手をついた。
体は動く。
けれど、心が追いつかない。
澄影が一歩、近づく。
その足取りは確かで、迷いがない。
それなのに、澪はその歩き方を見ただけで、わかってしまった。
——久遠は、ここにいない。
確認する必要はなかった。
問いを投げる意味もなかった。
澄影は澪の前に立ち、何かを言おうとして、口を閉じた。
言葉が、見つからないのではない。
言葉にしてしまえば、すべてが確定してしまうのが怖かったのだ。
澪の方が、先に動いた。
一歩、踏み出す。
そして、澄影の胸に顔を埋める。
次の瞬間、強い腕が背中に回された。
抱きしめられる。
守るためではない。
崩れ落ちないために、必死に縋るような抱擁だった。
その体温に触れた瞬間、澪の中で何かが静かに反転した。
——選んだのだ。
久遠は、選んだ。
逃げたのではない。
犠牲になったのでもない。
自分の心を、差し出すことを。
炉を制御するということが、どういう意味を持つのか。
澪には、はっきりとわかってしまった。
この世の理は、単純で、残酷だ。
炉は、人々の願いによって生まれた。
争いを終わらせたい。
失いたくない。
守りたい。
その願いは、確かに世界を支えた。
だが同時に、人々から何かを奪っていった。
記憶の一部。
感情の行き場。
抱えきれなかった想い。
行き場を失ったそれらは澱となり、影となって、この世界に溢れ出した。
久遠は、その影と向き合い続けてきた。
斬り、砕き、浄化することで。
影の中に残った感情を、受け止めることで。
そのたびに、救われる命があった。
守られる街があった。
けれど、それは終わりのない道だった。
影は、人が生きる限り生まれ続ける。
人の矛盾そのものだからだ。
久遠は、そこに踏み込むことを避けてきた。
踏み込めば、人を否定することになると知っていたから。
——それでも。
澪という存在が、久遠に答えを突きつけた。
感情を濁さず、抱え込み、それでも人であろうとする存在。
澄影という存在が、未来を示した。
引き継ぎ、生き続ける者。
久遠は見たのだ。
自分が人である限り、炉は救えない。
人を守り続ければ、いずれ世界が壊れる。
だから、心を殺した。
感情を剥ぎ取り、迷いを捨て、
器として炉を制御する道を選んだ。
澪の喉が、震えた。
涙が、抑えきれずに溢れ出す。
「……そんなの……」
否定したかった。
でも、できなかった。
澄影の声が、低く、震えながら落ちてくる。
「引き継いだ」
短い言葉。
けれど、その裏にある重さが、澪にはわかった。
「想いも、役目も。……でも、俺は久遠じゃない」
澪は顔を上げる。
澄影の目にも、涙が滲んでいた。
「だから、生きる。人として」
それは希望ではない。
救いでもない。
それでも、辿り着いた答えだった。
遠くで、炉が動いている。
壊れていない。
崩れてもいない。
ただ、静かに、世界を支えている。
澪は、澄影の手を強く握った。
「……今を、生きよう」
久遠が守ろうとした「今」を。
犠牲の上に成り立つ、この世界を。
二人は歩き出す。
遠い未来、さらに遠い先。
人々が炉から解放される、その日まで。
今を、生きるために。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。あと、一話。最後までお楽しみください。




