第三十五章 久遠
轟音が、世界の芯を揺らしていた。
炉は怒っているのではない。
嘆いているのでもない。
ただ、限界を迎えつつある生き物のように、呼吸を荒らしていた。
澄影が駆け寄ろうとした時、久遠はすでに炉の縁に立っていた。
背中越しに伝わる気配だけで、澄影にはわかった。
この男は、もう決めている。
「待て」
声は、思ったより低く、震えていた。
止める言葉を探していたはずなのに、出てきたのはそれだけだった。
久遠は振り返らない。
炉の光が、彼の輪郭を歪める。
赤黒い脈動が、足元から這い上がり、空気そのものを焼いていた。
「来るな」
短い言葉。
命令でも、拒絶でもない。
ただの事実だった。
澄影は、歯を食いしばる。
わかっている。
自分がここで何をすべきか。
自分が、何を“できない”存在なのか。
澄影は、受け流す者だ。
溢れ出るものを斬り、道を繋ぐ役目。
炉そのものを抱え込む器ではない。
それでも——
「……一人で行くな」
声が、掠れた。
久遠は、ようやく振り返った。
その顔に、恐怖はなかった。
焦りも、迷いもない。
あるのは、静かな確信だけだった。
「お前がいるからだ」
澄影の目が、わずかに見開かれる。
「お前が、残る」
その一言で、すべてが理解できてしまった。
引き受ける者と、引き継ぐ者。
制御する器と、未来へ流す存在。
澄影の喉が、ひくりと鳴る。
「それは……役目だからか」
久遠は、首を横に振った。
「違う」
炉の轟音が、さらに高まる。
壁が軋み、空間が歪む。
「役目だけなら、俺はここに立っていない」
久遠は、澄影をまっすぐ見た。
「守りたいものがある。それだけだ」
澄影は、言葉を失う。
守りたいもの。
それは、世界か。
人々か。
——澪だ。
その名を、口にする必要はなかった。
澄影は、一歩踏み出しかけて、止まる。
久遠の背後で、炉が応えるように脈打った。
まるで、急かすように。
「……生きろ」
久遠の声は、ひどく静かだった。
「生きて、見届けろ」
澄影は、拳を握りしめる。
爪が、掌に食い込む。
止められない。
追えない。
代われない。
それが、今ほど残酷に思えたことはなかった。
久遠は、もう澄影を見ていなかった。
炉へ向き直り、足を踏み出す。
一歩。
二歩。
熱が、肉を焼く。
衣が焦げ、空気が裂ける。
それでも、久遠は止まらない。
「——久遠!」
澄影の叫びが、轟音に掻き消される。
久遠は、振り返らないまま、言った。
「大丈夫だ」
それが、最後の言葉だった。
次の瞬間、久遠の身体は、炉の光の中へと溶け落ちた。
飛び込んだのではない。
落ちたのでもない。
最初から、そこへ還るべきものだったかのように。
炉が、ひときわ大きく鳴動する。
世界が、息を止める。
澄影は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
熱も、音も、光も。
すべてが、遠ざかっていく。
残ったのは、胸の奥に沈む、重たい感覚だけ。
——引き継がれた。
言葉にしなくても、わかってしまう。
久遠の意思。
久遠の選択。
久遠の心の最後。
それが、今、自分の中に流れ込んでいる。
澄影は、ゆっくりと目を閉じた。
泣くことは、まだできなかった。
生きなければならない。
それが、あの背中から託された、唯一の命令だったからだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。最後まであと少し、お付き合いください。




