第三十四章 感情
炉の前に立った瞬間、澄影は地の底から伝わる冷たさを感じた。
熱気は確かにある。だが、それとは別の、理屈では説明できない冷たさが、足を伝い背骨を這い上がってくる。
――まだ、動いている。
壊れていない。
崩れてもいない。
むしろ、あまりにも平然と、正確に、役割を果たし続けている。
炉の中心で膨れ上がっていた光が、ついに耐えきれず、外へ滲み出す。
その瞬間、澄影は息を止めた。
光は、外界に触れた途端、光を失う。
色が抜け落ち、熱が消え、意味を失ったそれは、
漆黒の、どろりとした塊へと変わる。
感情だ。
人が抱えきれなかった思いだ。
救われなかった願いの、澱。
それらは落ちることなく、空へ、路へ、人のいる方角へと散っていく。
「……やはり、こうなってしまうのか」
澄影は思わず頭を振る。
声に出した途端、自分の声がひどく遠く感じられた。
わかっていた。
炉は選ばない。
感情の善悪も、重さも、意味も。
ただ吐き出す。
溜まりすぎたものを、均等に、世界へ返す。
だからこそ、自分の役割は明確だった。
受け流す。
溜めさせない。
それ以上でも、それ以下でもない。
刀を握る指に、力がこもる。
影を斬るたび、黒い塊は鋒から霧のようにほどけ、消えていく。
だが、浄化されないそれは、消えた分だけまた別の場所で生まれる。
終わらない。
終わらせる気もない。
――それでいい。
澄影は、感情を削ぎ落とすように、ただ最短の路を選ぶ。
迷いはない。
迷いを持つ余地を、自分に与えなかった。
澪の顔が浮かぶ。
胸の奥が、きしりと音を立てる。
それでも、目を逸らさない。
――守りたいのは、あの子だけだ。
――それ以外の感情は、ここには要らない。
そうやって、ここまで来た。
◇◆◇◆
影の群れを前に、久遠は立ちはだかる。
呼吸は乱れていない。
心拍も、静かだ。
刀を振るうたび、影は消える。
いや、消えるのではない。
ほどけていく。
絡まり合っていた感情が、元の形を思い出すように、静かに解け、光に還っていく。
浄化されていく――
久遠の刃は、壊さない。
否定しない。
ただ、本来あるべき姿へ戻す。
そのたび、久遠の身体に異変が走る。
腕が痺れる。
視界の端が、わずかに歪む。
血の味が、喉に広がる。
――このままでは、間に合わない。
それを、久遠は理解していた。
だが、焦りはない。
心は、驚くほど静かだった。
なぜなら、守りたかったものが、今、はっきりと見えているからだ。
すべての人々を。
誰もが、精一杯、生きようとする世界を。
自分たちが存在した理由は、それではなかったか。
英雄になるためでも、裁くためでもない。
今を必死に生きる人々の、支えであるため。
炉の意志が、直接、心に触れてくる。
――欲望だ。
――人類は滅びを望んでいる。
――その感情を、どうして否定する。
久遠は、歩みを止めない。
「否定はしない」
静かな声だった。
「だが、それは澱だ」
炉が、わずかに揺れる。
――それを生んだのは、人間だ。
「違う」
久遠は、はっきりと言った。
「澱を生むのは役割だ。だが、それを人の罪として返すのは……感情だ」
その瞬間、久遠は悟る。
炉は、感情を扱う存在だからこそ、
感情に引きずられている。
エネルギーを得るために、澱を取り除く。
それは役割だ。
だが、
「人間の仕業だ」と断じるのは、役割ではない。
それは、心だ。
――なるほどな。
長い年月をかけて、少しずつ見えてきたものが、今、はっきりと形を結ぶ。
守りたかったのは、
人々が今を生きようとする、その姿そのもの。
未来でも、理想でもない。
今、ここで、息をして、悩み、願い、歩こうとする、その意志。
炉は、己の片割れだ。
一対を成す存在。
だからこそ、わかる。
――やはり、俺しかいない。
久遠はそのまま突き進む。
炉に近づくたびに、影を浄化する力が増していく。
見えた。
彼はそこにいる。
思ったとおりだ。
久遠は、澄影の前に立つ。
澄影の刀を、素手で掴む。
熱と痛みが、確かにある。
だが、離さない。
言葉はいらない。
引き受ける。
炉へ向かって、静かに歩き出す。
その背を見た瞬間、澄影は、すべてを理解してしまう。
――引き継がされた。
それは絶望ではない。
希望でもない。
ただ、世界の均衡が、保たれただけ。
その重さが、澄影の胸に、静かに沈んだ。
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