第三十三章 独白
澪の心の中。
静かすぎる。
この世界は、あまりにも私に優しすぎる。
倒れていたはずなのに、もう体の重さは感じない。痛みも、恐怖も、遅れてくる気配すらない。ただ、胸の奥に薄く張りついた膜のようなものが、私を現実から隔てている。
——思い出してはいけない。
そんな気がした。
でも、わかってしまう。
理由は言葉になる前に、もう胸の底に沈んでいる。
炉は、私を欲した。
それは選ばれた、という感覚とは違う。
期待でも、使命でもない。
もっと露骨で、もっと冷たい。
必要だったのだ。
私は、感情がないわけじゃない。
怖かったし、悲しかったし、守りたい人もいた。
それでも、感情が溢れ出して、形を変えて、誰かを傷つけるところまで行かなかった。
怒りを、憎しみにしなかった。
悲しみを、呪いにしなかった。
希望を、欲望に変えなかった。
それが、いけなかったのだと思う。
——足りない、と。
どこからか、そんな感覚が流れ込んでくる。
言葉ではない。音でもない。
ただ、冷えた理解だけが、脳裏を撫でる。
感情は力だ
だが、人間の感情は濁る
濁りは暴走を生む
——違う。
反射的に、そう思った。
誰に向けた否定なのかもわからないのに。
私は、人の感情を信じていた。
弱くて、矛盾していて、愚かでも。
それでも、人は「今」を生きようとする。
その姿こそが、価値なのだと。
価値など、燃料にはならない
一瞬、確かにそう“触れられた”。
炉の意志が、私の中を通り過ぎた。
冷たい。
合理的で、無慈悲で、正しい。
炉は、人を見ていなかった。
感情を見ていた。
感情の量と純度と効率だけを。
だから、私を欲した。
私は、感情を抑える存在だったから。
澱を生まない器として、都合が良かったから。
でも——
それでも私は、人だった。
誰かの痛みを、計算できなかった。
誰かの絶望を、切り捨てられなかった。
世界の均衡と引き換えに、誰かを燃やす選択ができなかった。
だから、私はここにいる。
引き受けたのではない。
選ばれたのでもない。
残された。
炉は壊れていない。
崩れてもいない。
ただ、私を必要としなくなっただけだ。
——代わりが、見つかったから。
胸の奥が、静かに痛む。
それは後悔ではない。
喪失でもない。
理解だ。
世界は救われたわけじゃない。
ただ、均衡を取り戻しただけ。
それでいい。
それしか、できなかった。
私は、そうやって生きてきたのだから。
空を見上げる。
青い。
あまりにも、何事もなかったかのように。
それでも、私は知っている。
この静けさの下で、確かに何かが燃え尽きたことを。
——そして、誰かが、そこに立っていることを。
名を呼ばなくても、わかってしまう。
それが、答えだということだけは。




