第三十ニ章 呼べない
最初に戻ってきたのは、音ではなかった。
匂いだった。
焦げた石。
濡れた土。
それから、かすかに残る、人の気配。
澪は地面に伏せたまま、息を吸う。
胸が、痛むほどにいっぱいになる。
それなのに、苦しくない。
いつからそこにいたのだろうか。
――生きている。
その事実が、遅れて怖くなった。
瞼の裏が明るい。
光がある。
世界は、まだ終わっていない。
ゆっくりと目を開けると、空が見えた。
青い。
雲が流れている。
あまりにも、いつも通りで、喉の奥が詰まる。
身体を起こそうとして、腕に力が入らない。
少し遅れて、指先に感覚が戻る。
土のざらつき。
小石の冷たさ。
――私は、ここにいる。
立ち上がるまでに、時間がかかった。
世界が回る。
記憶が、うまく繋がらない。
何が起きたの?
どこまで行ったの?
炉は――
考えた瞬間、胸の奥がきしんだ。
思い出そうとすると、何かが拒む。
無理に触れれば、壊れてしまいそうだった。
澪は、顔を上げる。
そこにあったのは、街だった。
いや、街だったもの。
建物は立っている。
すべてが崩れたわけではない。
だが、壁は裂け、屋根は落ち、道は歪んでいる。
街の半分は、破壊されている。
原形もなく、無惨に。
煙が、細く上がっていた。
まだ、火は生きている。
消えきっていない。
足が、勝手に前へ出る。
瓦礫を踏む音が、やけに大きく響く。
――静かすぎる。
叫び声がない。
泣き声もない。
それが、何より異様だった。
澪は、瓦礫の影に人影を見つける。
一瞬、息が止まる。
近づくと、それは――
生きている人だった。
うずくまり、頭を抱え、動かない。
だが、肩が上下している。
「……あ……」
声をかけようとして、言葉が出ない。
代わりに、喉が震える。
生き残っている。
確かに、ここには人がいる。
次々に、視界に入ってくる。
倒れたままの人。
支え合う人。
瓦礫の間から、ゆっくり這い出てくる人。
数は多くない。
だが、ゼロでもない。
――世界は、滅んではいないのね。
その事実が、胸に重く…
助かったのなら、
なぜ、こんなに苦しいのかしら?
澪は、遠くを見る。
塔が、まだ立っている。
禍々しく、沈黙したまま。
すべてが終わったわけではない。
だが、すべてが元に戻ることもない。
理解が、少しずつ追いついてくる。
炉は、壊れたのだろうか。
だが、世界は耐えた。
誰かが、食い止めた。
誰かが、引き受けた。
その「誰か」の姿が、思い出せない。
名前も、声も、顔も。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空く。
――私は、何を失ったの?
問いが浮かぶ。
だが、答えはまだ出て来ない。
澪は、立ち尽くす。
生き残った街の真ん中で。
生き残ってしまった者として。
風が吹く。
煙が流れる。
空は、変わらず青い。
そして澪は、知らず知らず、
この世界が「かろうじて救われた」ことだを、身体で感じていた。
理由も、代償も、
すべては、これから明らかになっていくだろう。
今はただ――
この世界が終わらなかった、という事実だけが、
重く、静かに、そこにあった。
立ち尽くす澪の視界に、人影が入る。
瓦礫の向こうから、こちらへ向かって歩いてくる。
急いでいない。
迷ってもいない。
その姿を見た瞬間、胸の奥で、何かが静かにほどけた。
そして同時に、
言葉になる前の理解が、身体に染み込んでくる。
――わかってしまう。
説明はいらない。
理由も、順序もない。
ただ、感じ取ってしまう。
名を呼んではいけないのではない。
呼んでしまえば、今、胸に広がっているこの感覚に、輪郭を与えてしまう。
誰がここにいなくて、
誰がここに残っていて、
なぜ街は、滅びきらずに立っているのか。
それらが、ひとつの形になってしまう。
人影は、澪の前で足を止めた。
その顔を見て、澪は確信する。
これは、犠牲になった者の顔ではない。
英雄の顔でもない。
引き継いだ者の顔だ。
拒む間もなく、渡されてしまったものを抱え、
それでも立ち続けている人間の表情。
その目には、深く沈んだ決意がある。
逃げられないことを、もう理解してしまった目だ。
けれど同時に、
澪を見つけた瞬間、ほんのわずかに力が抜ける。
安堵。
確かに、安堵だった。
生きている。
ここにいる。
それだけで、張り詰めていた何かが、かすかに緩む。
その変化が、あまりにも人らしくて、澪の胸が痛んだ。
この人は、引き受けたのではない。
選んだのでもない。
崩れ落ちる世界の中で、
均衡が生まれた、その場所に――残された。
だから街は残った。
だからこの人は生きている。
そして、だからこの人は、ここに立っている。
澪の喉が震える。
声は、出せる。
それでも、その名を呼べない。
呼べば、この事実を受け入れることになってしまう。
呼べば、もう後戻りはできなくなる。そんな気がした。
風が吹く。
瓦礫の埃が舞い、空がひらける。
街は、まだ息をしている。
人々も、生きている。
その中心で、
澪は彼の名を呼ばず、
引き継がれたものの重さを宿したその顔を、ただ見つめていた。
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