第三十章 炉に走る、名のない亀裂
最初に異変を感じたのは、視線でも音でもなかった。
澄影の胸の奥で、鼓動が一拍だけ遅れた。
ほんのわずか、息を吸うタイミングがずれたような感覚。痛みではない。違和感ですらない。ただ、長年当たり前だったリズムが、一瞬だけ噛み合わなくなった。
澄影は無意識に炉へ意識を向ける。
見る必要はなかった。感じるだけで十分だった。
炉は、変わっていない。
炎の色も、熱の量も、外から見れば何ひとつ異常はない。
それでも澄影には分かった。
炉の内側で、何かが「通らなくなった」。
血管のどこかが、ほんのわずかに狭まったような感覚。
流れは止まっていない。だが、同じ速さではない。
澄影の指先が、かすかに震える。
理由は分からない。ただ、知っている。
これは初めての感覚だ。
炉はこれまで、揺らぐことはあっても、割れたことはなかった。
均衡は崩れても、形は保たれてきた。
だが今、炉の奥で、何かが「分かれた」。
それは音にならない。
光にもならない。
ただ、在り方が変わった。
澄影は息を止める。
止めたところで、どうにもならないと分かっていながら。
――久遠だ。
理由はない。
理屈もない。
だが澄影は、その名を思い浮かべた。
久遠は炉の外に立つ存在だ。
炉を支える側ではなく、問いを突きつける側。
その視線、その在り方、その拒絶が、炉に触れた。
触れたのではない。
届いたのだ。
澄影の中に、焦りが走る。
澪の姿が脳裏をよぎる。
このままでは、いずれ均衡が崩れる。
そのとき、最初に壊れるのは、決まって弱い場所だ。
澄影は口を開こうとして、やめた。
まだ言葉にできない。
今ここで伝えても、誰にも理解されない。
久遠は、まだ気づいていない。
斎は、何かを感じ取ったように視線を動かしたが、それを現象として捉えるには至っていない。
だが澄影だけは、はっきりと知っていた。
炉に、亀裂が入った。
それは破壊ではない。
だが、元には戻らない。
澄影は炉から意識を離さず、静かに歯を食いしばる。
守らなければならないものが、同時に増えた。
炉も。
澪も。
そして、この均衡そのものも。
そのすべてが、今この瞬間から、同時に崩れ始めていることを、澄影は理解していた。
◇◆◇◆
そして、同じ頃、同じように異変を感じ取っている者がもう一人。
いつのまにか降り始めた雨。
屋根を叩く音が、まるで何かの合図のように思えてならない。
久遠が帰ったあと、花蓮は灯りを落としたまま、店の奥に腰を下ろしていた。
酔いはとうに醒めている。
胸の奥に残っているのは、あの男の言葉の余韻だけだった。
――人であるとは、なんだろうか。
久遠の問いが、まだ耳の奥で響いていた。
彼の背中を見送った時、心のどこかで、もう二度と会えないような気がした。
理由はわからない。ただ、世界の空気が、何かを孕んでいるように思えたのだ。
外では、雷鳴がひとつ。
遠くの空が、白く裂けた。
まるで天が怒りをぶつけるように。
花蓮は立ち上がり、戸口に歩み寄る。
街は眠っている。だが、空気は妙に熱を帯びていた。
吐く息が、煙のように揺らめく。
「……始まるんだね」
誰にともなくつぶやく。
この胸のざわめきが、ただの不安ではないことを、花蓮は知っていた。
炉――この国の中心にある、あの「光の器」。
それは、夫と子を奪った夜に感じた、あの不吉なざわめきと同じものだった。
花蓮は拳を握りしめる。
自分の中に流れる「見えざるものを感じ取る力」が、疼いていた。
――久遠。
あんたがこの街に戻ってきたのは、きっと偶然じゃない。
雨脚が強くなる。
遠くで鐘が鳴った。夜警の音ではない。もっと深い、胸を刺すような音だ。
花蓮は灯を取り、戸を閉めた。
もう眠れそうになかった。
炉の方角を見つめながら、小さく息を吐く。
「どうか、間に合って……」
その声は、雨に溶けて消えた。
けれど、その祈りだけが確かに――
夜の底で、静かに灯っていた。
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