第二十九章 同じ火を見つめて
炉の前に立つ三人のあいだに、言葉はなかった。
だが沈黙は空白ではなく、それぞれの考えが互いを押し返し合う、重たい圧としてそこに在った。
炉はまだ安定している。炎は均一で、揺らぎもない。長い年月、世界を支えてきた装置としての顔を、何ひとつ崩していなかった。
それでも三人は知っている。この静けさが、永遠ではないことを。
――この炉は、人のために在るのか。
久遠は、炉を見なかった。
そこに視線を向ければ、澪の存在が否応なく浮かび上がる。
澪は、救われるべき存在だ。
それは感情でも理屈でもない。久遠にとっては、疑う余地のない前提だった。
炉は多くの人を救ってきた。寒さから、飢えから、崩れかけた世界そのものから。
だが同時に、この仕組みが在り続けるために、最初から差し出された命があることも、久遠は知っている。
事故ではない。
失敗でもない。
必要だから、そこに置かれた命だ。
澪は、その位置に立たされている。
人は救われた数を数える。
だが、この仕組みを成立させるために、あらかじめ犠牲として組み込まれた命の数は、誰も口にしない。
それは数えられることすらなく、ただ「そういうもの」として扱われる。
久遠は、その在り方を受け入れられなかった。
澪を救い、澄影のもとへ返したい。
それが久遠の願いだ。
そして同時に、炉を止める方法――少なくとも、暴走を防ぐ道を見つけたいと考えている。
壊すためではない。
これ以上、誰かが「必要だから」という理由で差し出されるのを、終わらせるためだ。
仕組みが人を救うのではない。
人を救うために仕組みがあるべきだ。
その順序が逆転した瞬間から、久遠の中で炉は、守る対象ではなくなっていた。
斎は、炉から目を逸らさない。
彼の視線は炎ではなく、その背後にある欠落を見つめている。
記録は残っている。
年表も、報告も、整然と並んでいる。
だが、ある時期だけが不自然に欠けていた。事故とされている出来事に、原因だけが存在しない。
誰かが消した。
そうとしか考えられない空白だった。
斎にとって炉は、信仰の対象ではない。
かといって、単なる悪でもない。
理解されないまま使われ続けている仕組みだ。
止めるべきか、守るべきか。
その結論を出す前に、まず正体を知らなければならない。
分からないものを壊すのは、理解を放棄することだ。
同時に、分からないまま維持し続けるのも、同じだけ無責任だと斎は考えている。
久遠の言葉が、澪という具体的な命を伴っていることは、斎にも分かる。
それが正しいことも、否定しない。
だが感情だけで炉に手を伸ばせば、別の澪を生む可能性がある。
だから斎は、結論を急がない。
壊す前に、知る。
守る前に、暴く。
それが彼の立ち位置だった。
澄影は、炉を見ていない。
代わりに、炉を感じている。
炉の鼓動は、彼の脈と重なっている。
揺らぎは体調となり、熱の乱れは感情の歪みとして現れる。
生まれたときから、そうだった。
炉のそばで育ち、炉とともに生きてきた。
炉は世界であり、自分の一部だ。
それを失う未来を、澄影は想像できない。
そして同時に、澄影の中には、はっきりとした焦りがある。
澪を救わなければならない、という思いだ。
澪は、この仕組みの中で、最も壊れやすい場所に置かれている。
それを澄影は、理屈ではなく感覚で知っている。
このままでは、いずれ失われる。
炉が壊れれば、澪は救われるかもしれない。
だが炉が止まれば、世界がどうなるのか分からない。
そして、自分自身が何になるのかも分からない。
澄影にとって炉は、心臓に等しい。
不調を抱えながらも、生きている。
だが取り出せば、生き方そのものが変わる。
久遠の選択も、斎の慎重さも、理解はできる。
それでも澄影は、守るという選択を簡単には手放せない。
澪を救い、炉も失わない道を、まだ諦めていない。
三人は、同じ火を前にしている。
久遠は、澪と命を守ろうとしている。
斎は、真実と仕組みを見極めようとしている。
澄影は、世界と澪を同時に失わない道を探している。
誰も嘘をついていない。
誰も間違っていない。
それでも答えは、決して重ならない。
その瞬間、炉の奥深くで、まだ音にもならない歪みが生まれた。
炎は変わらない。熱も漏れていない。
ただ、光の流れだけが、ほんの一瞬、わずかにずれた。
それは破壊ではない。
だが、取り返しのつかない方向へ、世界が踏み出した最初の徴だった。
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