第二章 陶京へ
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
物語はまだ始まったばかりですが、
少しずつ、“この世界”の輪郭や、主要人物たちを登場させようと言うところです。
第2章では、街に生きる人々の息づかいや、
彼らが抱えるささやかな違和感、そして“何かがおかしい”という予感が描かれます。
一見、穏やかな日常の中に潜むほの暗さが、後の物語に深く関わってきます。
峠を越えた瞬間、灰色の世界が別の色に塗り替えられた。
眼下に広がったのは、山あいの盆地いっぱいに咲きこぼれた陶器の花のような街だった。
瓦屋根は陽を受けて鈍く光り、朱と蒼の楼閣が、まるで器の文様のように互いを引き立て合っている。
遠くから見れば、それはひとつの大皿に盛られた彩り――繊細で、息を呑むほど脆く、美しい。
それが、陶京だった。
門前の石畳には、人々がせわしなく行き交っていた。
頭に荷を載せた行商、華やかな装いの芸妓、飴細工を売る子供、火消し装束の男たち。
笑い声と怒鳴り声、笛の音に獅子舞の太鼓。
祝祭と混沌が同時に息づいている──生きている街だった。
久遠はその喧騒に呑まれることなく、まっすぐ街へ歩を進めた。
ときおり、振り返る者がいる。
それは彼の風貌に惹かれたわけではない。
遠い戦場の匂いをまとったような、背筋に微かな寒気を走らせる気配――
人はそれを意識せずとも、本能で察してしまうのだろう。
陶京の空には薄く、白煙が漂っていた。
はるか遠く、山の頂から昇るそれが風に運ばれてくる。
──あの「炉」は、今も動いている。
人々の喧騒の裏で、何かが静かに、確かに燃え続けている。
久遠はそれを肌で感じていた。
空気の奥底、街の賑わいの下に沈んだ澱のような感情の気配。
人々の強さと、同じだけの脆さ。
そしてふいに、風が反対から吹いた。
鼻先をかすめたのは、馥郁たる香。
香木のような、焚かれた香のような匂い──
「……ひどく古い煙の匂いね」
低く、艶のある声が、肩越しに届いた。
振り向いた久遠の視界に、絹のように滑らかな紅が揺れた。
艶やかな黒髪に、肩を覆う鮮やかな羽織。
顔の半分を扇で隠し、残された片目には、火を含んだような色があった。
「その眼……昔を見ているわね」
女は言い、ふわりと歩を進めた。
まるで路地の空気すら従えているような、しなやかな足取りだった。
久遠は何も言わなかった。
だが、その言葉は、心の奥にさざ波のように残った。
──あの女は、何者だ?
雑踏のなか、彼女の姿はあっという間に消えた。
だが、その残り香と余韻だけが、久遠の足元に、静かに、確かに残った。
名前も知らぬその女が、花蓮と呼ばれていることを、久遠が知るのはもう少し後のことだった。
歪みの種
陶京の夜は、昼の喧騒とは異なる光をまとう。
赤提灯が風に揺れ、香の煙が路地裏に立ちこめる。
三味の音、杯を重ねる音、笑いと嘘が交差する夜の繁華街。
しかしその笑みの端に、僅かな疲れと諦めが滲み、空気には酒と共に、焦げた油と湿った土の匂いが混じっている。
華やぎの下に、沈殿した澱のようなものが確かに息づいていた。
久遠は陶京の一角、寺裏町のほうへ足を向けていた。
路地が絡み合うように曲がりくねる一帯。
元は職人たちの住まう区域だったが、今は荒れ、物売りや薬売り、夜を商う女たちが寄り集まっている。
そこに、一人の男がいた。
背を丸め、肩で息をし、目の焦点が定まらない。
手には壊れた数珠。衣の袖は裂け、泥にまみれていた。
だが──彼の背中からは、黒い靄のようなものが立ち昇っていた。
(……感情が、漏れている)
怒り、憎しみ、悲哀。
己の胸に押し込めていたそれらが、まるで「何か」に引きずり出されているかのようだった。
「──あんたも、俺を笑いに来たのかよ……」
男が久遠を見た。眼球の奥が赤く濁っていた。
黒い靄が形を変える。
人の腕のような、羽のような──やがて歪んだ獣の形へと変貌していく。
瞬間、地が揺れた。
男の身体から、どろりと何かが染み出し、影のような塊が地面を這う。
通りの明かりがぱっと消え、路地に悲鳴が響く。
人々の感情が呼応するかのように、黒い思念が一気に膨れ上がっていく。
──久遠は、静かに片方の手を黒いその靄へとかざし、もう一方を刀の鞘にかけた。
掌を通して、黒い靄に触れる。
指先に触れるそれは熱くもなく、冷たくもなく──だが確かに、痛みや悲しみが伝わってきた。
「……怒りは、ただ、喰らうものではない」
呟いたときだった。
風が、寺裏町の狭い通りを抜けていった。
石畳の隙間に溜まった夜気をゆるやかに撫で上げ、袖口の内までひそやかな温もりを運んでくる。
そのとき、背中にふわりと、春先の陽だまりに似た気配が触れた。
振り返ると、路地の端にひとりの女が立っていた。
亜麻色の髪に灯の色が淡く揺れ、深緑の瞳が静かにこちらを見つめている。
木綿の衣の上から薄い被衣をまとい、その影の奥に、微笑の気配を湛えていた。
その眼差しは、「恐れなくていい。あなたはあなたのままで、もう帰っておいで」と語りかけるようで、胸の奥に凪を呼び込む。
まるで月明かりがひととき人の形を借り、夜の路地に降り立ったかのようだった。
「……あなた、傷ついてる人を、守ろうとしてるの?」
その声は、小鳥のさえずりのように静かだった。
だが、なぜか胸の奥に深く刺さる。
久遠は答えなかった。
女はふわりと微笑んだ。
「大丈夫。あなたは、間違ってない」
その瞬間、膨れ上がっていた思念の塊が、はじけるように崩れた。
黒い影が霧散し、夜の明かりが戻る。
倒れ込む男の肩を、誰かが駆け寄って抱えた。
久遠が再び振り返ったとき──少女の姿はもうなかった。
──彼女の名は、澪。
出会いは、まるで水面に小石を落としたようなものだった。
それが、久遠の胸に広がる波紋となっていくことを、彼自身はまだ知らなかった。
次回はいよいよ、物語の核に向かって、歯車が動き始めます。
主人公の過去に関わるヒントがちらりと見え始め、
少しずつ、この世界の「異常さ」も浮かび上がります。
どうぞ、引き続きこの物語を見守っていただけたら嬉しいです。
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