第二十八章 燃え続ける前提
澪の気配が消えた場所で、澄影と久遠は向かい合っていた。
残されたのは、触れれば崩れそうな静けさだけだ。澄影の目には、もう現世の色が映っていないようだ。そこにあるのは、失われたものを取り戻すための、決意だけだった。
「行くつもりなのか」
久遠の声は、確かめるようでいて、それを止める力を持っていなかった。
「澪を救う」
澄影は即座に答える。
「そのためなら、俺はこの感情さえ犠牲にできる。もともとなかったものだ。」
久遠は息を詰める。
それは逃避ではなかった。
澄影は、人としての痛みも迷いも、すべて切り捨てようとしている。澪を取り戻すためだけに、自分を空にしようとしていた。
「感情を失えば、お前は戻れなくなる」
「それでもか?」
「構わない」
澄影の声は静かだった。
「俺が人であることより、澪が生きることのほうが重い」
久遠は、しばらく言葉を失う。
その覚悟が、どれほど純粋で、どれほど残酷かを理解していたからだ。
「……違う」
久遠は、ようやく口を開く。
「ずっと、"今"を生きてきた」
「人間らしい想いも、現世の重さも、すべて抱えたままここに立っている」
一歩、澄影に近づく。
それは説得ではなく、託すための距離だった。
「だからこそ、これからを生きる者に願う」
「お前が炉を止めてくれ。今はまだわからない、その方法を見つけてくれ。」
澄影は顔を上げる。
久遠のまっすぐな瞳には、恐れも後悔もあった。だが、その奥にあるのは、確かに未来だった。
「これから器として、炉と対峙する」
「そのためなら、現世への想いも、すべてを代価にする覚悟がある」
「だが、世界を解き放つ最後の手は、現世に立つお前でなければならない」
澄影は理解する。
久遠は自分を守ろうとしているのではない。
人として生き続ける可能性を、最後まで手放すまいとしている。
「……それでも」
澄影は視線を逸らさない。
「俺は澪を救う。感情を捨ててでも」
その瞬間、空気が変わった。
理だけを切り出したような気配が、影の境から入り込む。
「その選択は、美談にはならない。」
斎が現れる。
彼の視線は澄影を射抜き、次に久遠へと向けられる。
「澄影は空呑だ」
「感情を捨てる覚悟があるなら、なおさらだ」
「澪のためではない。世界のために、炉を呑め」
久遠の想いと、斎の理。
そして、澄影の犠牲的な愛。
三つの意志が交差し、
物語は、もはや後戻りのできない地点へ踏み込んでいく。
◆◇◆◇
斎の考えは、冷たいが筋が通っていた。
それは情を欠いた結論ではなく、現実を何度も測り、削り、残ったものだけで組み上げた答えだった。
彼は知っている。
想いが世界を救った例より、想いが世界を壊した例のほうが、はるかに多いことを。
願いは炎に油を注ぎ、善意は炉の揺らぎを増幅させる。
だから斎は、人の心を信用しない。
否定するのではない。ただ、世界を支える材料としては不安定すぎると判断しているだけだ。
空呑という存在は、彼にとって理想的な構造だった。
感情を削ぎ落とし、役割だけを残した存在。
迷わず、揺れず、意味を問わず、ただ歪みを受け止める楔。
そこに個人的な救いはないが、再現性がある。
斎が求めているのは奇跡ではなく、繰り返し使える答えだった。
そのあくなき探究心は、衝動から生まれたものではない。
失敗を見届け、記録し、検証し、次の仮説へ進む。
誰かが泣き、誰かが消え、その上に積み上げられた研鑽の末に、斎は今ここに立っている。
だから彼は言える。
澄影が感情を捨て、空呑として炉の一部になる未来を、最も現実的な選択だと。
それがどれほど残酷かを、斎は理解している。
それでもなお、その道を示す。
世界が続く確率が、わずかでも高いからだ。
斎は救いを語らない。
語るのは、続くか、終わるか。
その二択だけだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




