第二十七章 灰色の心
闇の底で、澄影は息を飲んだ。
——消えた。
澪の気配が、まるで指のあいだから砂がこぼれるように、すうっと消えていったのだ。
そこには余韻すら残らない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような虚しさだけが残る。
周囲では“炉”が低くうなり、黒い波紋のように影を広げていた。
彼は足を一歩踏み出そうとした。
だが、闇は澄影を挑発するようにざわりと震え、澪を奪った向こう側へと退いていくようだった。
「……従うしかないのか。それでも......」
声にしてみると、それはひどく小さく、弱い声だった。
背筋をつたう寒気は、冬の風ではなく、自分の無力さが運んでくるものだった。
まるで、世界そのものが彼から澪を隠すように。
闇はゆっくりと収束を始める。
「……やめろ!やめてくれ!」
震える声がこぼれた。頭を掻きむしる。
彼の胸の奥で、何かがきしみ、壊れかけている。
自分でもよくわかっていた。
澪の存在が彼の中でどれほど大きな意味を持っていたか、今さら痛いほど思い知らされる。
何気ない、生活の一コマを思い出す。あまりにも当たり前だった幸せ。
◆◆◆◆
ある早朝、まだ明けきらない薄暗い中、小屋に残った火の名残だけが静かに息をしていた。澄影は壁にもたれ、体ではなく心のほうが立ち上がり方を忘れたように座っていた。
戸が開き、澪が入ってくる。雪の上を歩くような足取りで、何も問わず、ただ隣に腰を下ろす。肩が触れた瞬間、冬の朝に湯のみを両手で包んだときのような温もりが伝わり、冷えきった内側がゆっくりとほぐれていった。
澪は近づきすぎず、離れもしない。影が重なるだけの距離で寄り添い、柔らかな肌は羽毛ではなく、長く使われた木の柄のように、力を預けても折れない感触を持っている。
「大丈夫だよ」と小さく言い、夜明け前の薄い光みたいな笑顔を向ける。その笑顔は闇を消さないまま、進む方向だけを示した。
澄影は初めて、守ってきたつもりの自分が、足元から静かに支えられていたことを知り、目を閉じる。外で朝鳥が声を上げ、山の輪郭がはっきりとしてくるまで、澪の温もりは最後までそこにあった。
◆◆◆◆
影の奥から、重く湿った気配が滲み出る。
澪が触れてしまった、澄影の“裏側”。
その闇が、澪の気配を完全に塗りつぶし、消し去っていく。
——まだ遠くには行っていない。
——でも、このままでは本当に戻れない。
そんな確信が胸に浮かぶ。
「澪……」
呼んだところで返事はない。
しかし、彼は呼ばずにはいられなかった。
闇がまた一つ、深い息を吐くように揺れた。
澄影はその中心を見つめたまま、動けなかった。
澪がいた場所。
失われた痕跡。
そこに生まれる沈黙が、彼の心を締めつける。
小さく震える指先。
揺らぐ視界。
世界は、彼が選ばない限り先へ進まない。
澪の消失は、ただの喪失ではなかった。
これは、澄影の心を裂いた。
そして、炉の奥でまたひとつ、影が目を覚ました。
◆◇◆◇
影の役目は――澄影の“もうひとつの心”を目覚めさせるための導きだった。
影は、敵でも味方でもない。
ただ、澄影の内側に沈んでいた痛みや記憶をゆっくりとかき混ぜ、
本来なら見ないまま生きていけたはずの“裏側”を、強引に照らし出す存在だ。
澪を呑みこんだのも、無意味な残酷さではない。
影は、まるで深海の渦のように、澄影が触れずにきた感情や真実を引きずり出そうとしている。
澪という大切な人を絡め取ったのは、
「逃げるな。見ろ。お前の中にあるものを」
そう告げるための、残酷な招待状のようなものだった。
影は澄影にとって“破滅を運ぶ存在”に見えるが、
本当は“選択を迫る存在”だ。
澪を追うために踏み込めば、自分の心の傷に向き合うことになる。
踏み込まなければ、澪を失ったまま、闇はさらに広がる。
影は道をふさぐ壁でもなければ、背中を押す手でもない。
そのどちらにも見える、曖昧な“境界”そのものだ。
澪を奪った影が震えるたび、
澄影は否応なく自分の奥底に沈めた記憶を思い出し始める。
まるで、長く蓋をしていた壷の底から、
古い光がゆっくりと漏れ出すように。
――影の役目は、澄影を“本当の自分”へ向かわせること。
逃げ続けた道を、もう一度歩かせるための役割だった。
そして、そのために選ばれた“鍵”が、他でもない澪だった。
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