第二十五章 泡沫
影の中は、色を落とした水の底のようだった。
澪はそこで、澄影の世界を“覗き見る”ようにして漂っていた。
音はほとんど聞こえないのに、胸の奥では誰かの泣き声が響いているようだった。
泣いているのは誰か――澄影か、それとも彼の中で沈んでいた別の何かなのか。
その境目さえ、影の中では曖昧だった。
景色は淡い墨で描いた絵のように静かで、どこか乾いていた。
澄影が歩いた路地。
彼の影が震えた瞬間。
抱えきれない迷い。
言葉にならない痛み。
その一つひとつが、影の膜越しに澪の心へ触れてくる。
まるで、澄影の胸の内を薄いガラス越しに触るような、
そんな奇妙に静かな感覚だった。
すぐ隣で澄影の呼吸を感じる。
けれど、そこへ触れようとした瞬間、
世界が裏返るように景色が歪んだ。
——闇の裏側。
そこには、炉へ向かう“流れ”が脈のように巡っていた。
赤く熱を帯びる前の、不気味な静けさ。
涙のように溜まった情が、堆積し、揺れ、
澄影と久遠が揃ったことであふれ出した“余り”が、
この影の中へ落ちてきている。
澪は理解していたわけではない。
ただ、
「ここは世界の外側であり、内側でもある」
そんな感覚だけが、自分の輪郭に溶けこんでいくように沁みた。
ふいに、胸の奥で小さな泡が浮いた。
一つ。
また一つ。
それは思い出の泡だった。
澄影の横顔、季節の香り、触れた指の温かさ。
影はそれらを優しく撫でるふりをして、静かに奪っていく。
“あ……わたし………”
考えようとした言葉の形が、
影の中でほどけていく。
澪の意識は、水に溶かした絵具のように薄まり、
色の境目が分からなくなり、
やがて泡が弾けるように――
ぱっ。
世界が音もなく切れた。
闇だけが残った。
澪の気配が、意識が、そこから静かに消えていった。
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