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器 -UTSUWA- 壊れゆく心、芽吹く意思  作者: 猿吉


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第二十章 そして、今。

 朝の空は、灰を溶かしたような鈍い色をしていた。

 雲の切れ間から射す光も頼りなく、街はまだ眠りの続きにあるようだった。

 久遠は静かに身を起こし、淡々と装いを整える。動作はいつもと変わらない。

 ただ、胸の奥にひとつ、堪えきれぬひびが入っていた。

 外に出ると、通りの音が遠くでぼやける。

 人々の声も、店の暖簾が揺れる音も、まるで水の底で聞くように曖昧だった。

 世界は確かに在るのに、色も温度もない。

 昨日まで見慣れた景色が、まるで別の層に沈んでいる。

 そして思う。昨日までの自分は、もうこの世界にはいないのだと。

 それでも、歩みは止められない。

 人の価値は、生まれでも名でもなく、いかにして己を律し、生き続けるかにある。そう、強く思っている。いや、思いたいのだろう。

 久遠はその言葉だけを心に留め、淡い光の中へと身を溶かしていった。


◆◇◆◇


 歩き出した足元で、小石を踏むかすかな音がした。

 その音が、不思議と胸の奥を叩いた。

 見上げれば、曇り空の裂け目から、細い陽がこぼれている。

 その一筋が、道端の草の露を照らし、淡く光らせていた。


 風が吹く。


 久遠は立ち止まり、その小さなきらめきを見つめる。

 何の意味もない光景。


 けれど、なぜか目が離せなかった。


 世界が完全に色を失ったわけではないらしい。


 それに気づいた途端、胸の奥のひびが、ほんの少しだけ

 風が頬を撫で、遠くで鳥の声がした。

 音も匂いも、確かにこの世界のものだ。

 久遠は深く息を吸い込み、吐き出す。

 その息に、微かに温度が戻っていた。


 虚しさの中にも、確かに「今」がある。


 そう思えた瞬間、灰色の朝が、ほんのりと淡い光を帯びた。


 通りの先、朝靄の中にひとりの女が立っていた。

 淡い衣の裾が風に揺れ、光の届かぬ空の下で、その姿だけが確かに輪郭を持っていた。

 久遠は足を止めた。

 女はまっすぐに彼を見つめ、ふっと微笑んだ。

 「ようやく、ここまで来たのね」

 声は落ち着いていて、どこか懐かしい温もりを帯びていた。

 久遠は何も言えない。

 虚ろな世界の中で、その言葉だけが現実のように響いた。

 「世界は、思うより優しいものよ」

 花蓮はそう言いながら、彼の横に並んだ。

 目を伏せる仕草にも、柔らかな意志が見える。

 「痛みを知った人間にしか見えない景色があるの。

 それを、あなたはこれから歩くんでしょう」

 久遠は答えず、ただその言葉の余韻を胸の奥に沈めた。

 灰色の雲の隙間から、わずかな光が射す。

 二人の影が並び、長く伸びて重なった。

 その瞬間、久遠は、確かに“誰か”の想いが自分の中で息をしているのを感じた。


 ふたりはしばらく、言葉を交わさずに歩いた。

 灰色の空の下、風が低く鳴る。

 花蓮はふと足を止め、遠くの空を見上げた。

 「昔ね、あなたを見ていた人がいたの」

 久遠はわずかに眉を動かす。

 「その人は、何も言わず、ただ見つめていた。

 あなたがどれほど傷ついても、立ち上がるのを信じてた」

 彼女の声は、懐かしい夢を語るように穏やかだった。

 久遠は何も言わない。ただ、胸の奥で何かが軋む音を聞いていた。

 「その人の願いを、私は受け取った。

 ……だから、こうしてここにいる」

 花蓮は静かに微笑んだ。

 その目の奥に、言葉にならない記憶の光が揺れる。

 久遠は視線を落とし、かすかに息を吐いた。

 風が二人の間をすり抜け、枯れ葉を巻き上げていく。

 遠い過去と今が、ほんの一瞬、交わった気がした。


◆◇◆◇


 雨の気配が近づいていた。

 戸を叩く風の音が、店の奥まで響いてくる。

 客足もまばらになり、灯りの下にいるのは花蓮と久遠だけだった。


「……人であるとは、なんだと思う?」

 久遠が、ぽつりとつぶやいた。

 杯の中の酒が、淡くゆれる。


 花蓮は少しだけ考え、目を伏せた。

「人であること、か。難しいね」

 そう言って、少し笑う。

「でもね、あたしは思うの。生きてるってこと以外に、本当は意味なんてないんじゃないかって」


 久遠が、静かに目を上げる。

 花蓮は続けた。


「誰かのためとか、人間らしさとか……そういうのも悪くないけど、本来の“人”って、そんな飾りの中にいるもんじゃないと思うの」

「自分がどうありたいか。どう生きたいか。それだけが、本当のことなんだよ」


 久遠は言葉を探した。

 しかし、花蓮の声音が穏やかに流れ込んで、胸の中のざらつきを少しずつ溶かしていく。


「……お前は、強いな」

「強くなんてないさ。ただ、そう思ってないと、立っていられなかっただけ」


 沈黙。

 外では風が鳴り、看板が小さく軋む。

 花蓮は、久遠の方を見つめた。


「私はね、あんたを待つよ。どれだけ先になっても」

「待つ……?」

「うん。それがあたしの生き方であり、あたしである理由だから」


 その言葉は、まるで灯りのように、久遠の胸の奥に静かに灯った。

 重かった何かが、ふっと軽くなる。


 彼は目を伏せ、小さく息を吐いた。

 雨が降り出す。

 その音が、まるで遠い未来の鼓動のように響いていた。


 この夜を境に、二人は知らず知らず激動の渦へと、巻き込まれていく。

 それぞれの「人である理由」を胸に抱きながら。


...

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