幕間 ──峠を越えて
ここに描かれるのは、「何が起きたか」よりも、「何が残っているか」です。
誰かの歩いた跡、誰かの口ずさんだ歌、そして誰かが、それでも生きようとした気配。
そこに「いる」人々の気配を感じ取ってみてください。
風は高く、峠の木々を鳴らしていた。
山あいの道は細く、岩と枯葉に覆われ、輦車すら通れぬ険しさを見せていた。
久遠は黙々とその道を進んでいた。
背に負った荷は何もない。けれど、彼の足取りは重かった。
かつてこの地は、音と色にあふれていた。
だが、過ぎた季節の中で、多くが流され、埋もれ、名を失った。
残されたのは、ただ日々をつなぐ人々の静かで小さな営み。
耕し、繕い、灯りをともす。
戦でも、災いでもなく、「忘れられること」が最も深い傷となった世界で。
それでも、人は生きている。
うつむきながらも、どこかで空を見上げるように。
声にならぬ想いが、地を這うように息づいている。
遠くで“あの山”の鼓動が、まだ響いていた。まるで、追ってくるかのように。
幾つかの村を抜けた。焼け落ちた家、誰もいない祠、半ば崩れた道標。
誰かの叫びや、涙の痕のようなものが、空気に滲んでいた。
そこかしこで耳にしたのは、「山神様の怒り」という言葉だった。
だが、人々はそれ以上を語らなかった。語れないのか、語ることを恐れているのか。
ただ一様に、炉のある山の方角に手を合わせていた。
「……恐れは、記憶を曇らせる」
久遠は誰に言うでもなくつぶやいた。
だが、それを受けるかのように、森の奥から呻くような声が聞こえた。
乾いた枝を踏み砕く音。土の下から絞り出すような、嗚咽にも似た音。
◆ ◆ ◆
不意に目の前に木々の影から現れたのは、人の形をして、しかし人ではない“何か”だった。
その肌は灰のように乾いてひび割れ、瞳の奥には光がなかった。
指先から、黒いもやが漏れている。それはまるで、誰かの怨嗟を具現化したような──
久遠の足が止まる。
──思念に喰われた者。
名もない女が言っていた言葉の輪郭が、現実を持って眼前に形となった。
何も語らぬ久遠の手が、ゆっくりと腰の柄に伸びた。
そして―――
次回、陶京へ
「その眼……昔を見ているわね」
陶京の雑踏に紛れて、紅の女が残した一言。
それは、久遠の止まった時間を静かに動かしはじめます。