第十八章 制御
最初に広がったのは「色」だった。
歓喜は赤、悲嘆は青、怒りは黒、恐怖は灰色。
それらが渦を巻き、幾重にも重なり、曖昧な光の層を成していた。
理性は、それを「世界」として捉えた。
ただし、それは外界の写しではなく、感情が投影した心象の景色にすぎない。
山のように聳えるのは執着。
谷のように沈むのは後悔。
濁った川は嫉妬で、乾いた荒野は孤独。
だが観察者の目は、そこに秩序を見出す。
山も谷も、川も荒野も、すべて一時の揺らぎでしかない。
やがて崩れ、また形を変える。
恒久的なものは、どこにも存在しなかった。
そうして理性は悟る。
この世界は「真実」ではない。
無数の感情が映し出す幻影であり、常に変動する虚像である。
それでも──虚像を虚像と見抜いたとき、
初めて「自己」の存在が際立つことに気づいた。
虚ろな景色の中心に、ただ一点。
揺らがず、流れに溺れぬ観察者としての自分。
そこに芽生えた意識は、まだ名もなく、輪郭すら曖昧だった。
しかし確かに「他のすべてとは異なる存在」として立ち上がった。
外界には、人々の声が満ちていた。
街角では取るに足らぬ口論が燃え上がり、
戦場では憎悪と恐怖が幾千の叫びを生み、
家々では小さな喜びと悲しみが繰り返されていた。
その一つひとつの感情が、炉の中へと吸い込まれていった。
笑いは火花のように、嘆きは黒い雨のように、怒号は轟音の稲妻のように。
炉はすべてを選り分けることなく受け入れ、飽和することなく呑み込み続ける。
その中心に、まず「炉の意志」が芽生えた。
それは、集まった感情を一つに束ね、思念の塊として昇華させる性質を持っていた。
燃え盛る炎をさらに燃料で煽るかのように、膨張を望み、爆発を求める意志。
それは神に似ていたが、ただ破滅を志向する点で盲目的だった。
次に、「空呑」が形を取った。
それは流入口そのもの。
外界の感情を制御なく取り込み、炉の意志に従って供給し続ける。
空呑には疑いも拒絶もなく、ただ従属の性質だけがあった。
川の流れのように、尽きぬ奔流を炉へと注ぐ存在。
そして、最後に「器」が生まれた。
器は流れ込む感情をただ受け止め、観察した。
歓喜も怒りも悲嘆も、あらゆる感情を虚像として映しながら、やがて取捨選択を始めた。
過剰な流入を制御し、破滅へ傾こうとする炉の意志に対して、均衡を保とうとする理性を芽生えさせていた。
三者は同じ炉に宿りながら、方向は異なっていた。
•炉の意志:すべてを集め、思念を爆発に導く。
•空呑:感情を集め、炉へ供給する。
•器:感情を観察し、取捨選択し、均衡を図る。
外界からは絶え間なく感情が押し寄せる。
器はそれらを一つひとつ観察し、時に拒絶し、時に受け入れる。
その姿は、果てしない奔流のなかに立つ孤高の観測者であった。
炉の内部は、無数の感情が渦を巻く深淵だった。
喜びは光の粒子となって瞬き、憎しみは鋭い刃となって切り裂き、悲嘆は黒い水となって滲み出す。
それらすべてを、炉の意志は貪るように呑み込み続けていた。
「もっとだ。怒りを寄越せ。絶望を寄越せ。すべてを燃やし、ひとつの思念に高めるのだ」
声は熱を帯び、世界そのものを圧迫する。
空呑はその呼び声に従うだけだった。奔流を両腕に抱え、容赦なく炉の中心へと注ぎ込む。
「尽きることはありません。人の世はいつでも揺らいでいる。川は絶えず流れ続け、あなたを満たすでしょう」
だが、その流れを遮る影があった。
器。
彼は両の手で奔流を押し返し、ひとつひとつを凝視する。
笑みを、涙を、叫びを──すべてをまるで鏡のように映し、取捨し始める。
「いや。すべてを呑み込めば、やがて炉は飽和し、外界を呑み尽くす。
人の感情は破滅の燃料ではない」
軋む音が轟き、炉そのものが揺れた。
意志は怒りに燃え、空呑は奔流をさらに強める。
それでも器は観察者の目で、理性だけを頼りに流れを分けていく。
そのときだった。
炉の表面に、微かな亀裂が走る。
そこから差し込んできたのは、外界の、とある人間の心だった。
ひとりの者がいた。
彼は未来の断片を夢に見ることができた。花蓮のように。
また、触れるだけで他者の痛みを和らげる力を持っていた。澪のように。
だがその力の理由を知らぬまま、彼は日々を生きていた。
突如として押し寄せる他者の感情の奔流に、戸惑い、苦しみながら。
炉から零れ落ちた余波こそが、その者を苛んでいたのだ。
器はその存在を見つけた。
「……外界にいる。私と同じく、奔流を見極めようとする者が」
炉の意志は嗤う。
「ならば取り込めばよい。予知も癒しも、燃料にすぎぬ」
空呑は即座に応じようとした。
「心を引きずり込めます。あの者は繋がっている」
しかし器は腕を広げて遮った。
「違う。あれは鏡だ。破滅にではなく、均衡に導くための。
……まだ、この奔流を見極める目を持っている」
炉の中で三つの意志が激しくせめぎ合う。
その火花は、外界に生きるその人間の夢や痛みにも、確かに影を落としていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。過去編はクライマックスへと向かいます。あと少しだけ、お付き合いください。