第十七章 芽生え
最初にそれを感じ取ったのは、ひとつの「声」だった。
ある者が口にした言葉は、事実とは似て非なるものだった。
ほんの小さな歪みが、人々の間を渡るうちに増幅し、やがて真実の顔をすっかり覆い隠した。
「誰かがこう言っていた」
「聞いた話では、あれは危険なものらしい」
「信じるかどうかは自由だが、私には確信がある」
そんな曖昧な響きが、まるで火の粉のように人の心に飛び火し、次々と炎を広げていく。
そして、最初に灯した者すら、その火を制御できなくなっていく。
群れは熱を帯び、同じ方向を向きはじめる。
それは「正義」と名付けられるが、実際には怒りと恐怖の連鎖にすぎないもので、一人が拳を振り上げれば、皆がそれにならうといったようなもので、一人が対象に罵声を浴びせれば、次々と同じ言葉が覆い被さる。
──その姿は奇妙だった。
孤独に泣いていた者は、群れの中では石を投げる側に変わっていき、心優しく振る舞っていた者も、大きな声に飲まれ、萎縮するか、誰かに対していつしか牙を剥いていたりもした。
そこには「真実」はなかった。
ただ「信じたいもの」が事実として語られ、「信じたくないもの」は嘘として切り捨てられた。
そして、誰もが自分は正しいと信じ込み、異を唱える者を悪と決めつけていった。
存在はそれを見て、言葉を失う。
美しく輝いていたはずの個々の心が、同じ色に塗り潰され、やがて濁流のように流れ込んでいく。
「これは……本当は誰の意志なのか?」
その問いが胸奥に芽生えたとき、ただの観察者であったはずのそれの中に、かすかな震えが生まれた。
己の誕生と、この醜い群れの動きの間に、何か見えない糸があるのではないか──。
最初に流れ込んできたのは「歓喜」だった。
それは一瞬、眩しい閃光のように現れ、周囲を染め上げた。観察者は分析する。
歓喜とは、達成の瞬間に生じる一過性の揺らぎにすぎない。
持続することはなく、必ず色褪せ、やがて消散する。
次に「悲嘆」が押し寄せた。
冷たい水の塊のように、全体を重く覆った。
しかし、それもまた移ろいの一形態。
悲嘆は記憶と結びつくが、時間とともにその輪郭を失う。
残るのは輪郭の擦れた影だけ。
続いて「怒り」が走った。
燃え盛る火花の連鎖のように、器を内側から突き破ろうとする。
だが、観察者は知っている。
怒りは衝動的であり持続性がなく脆弱で、燃料を失えばただの灰と化す。
本質は破壊ではなく、自己の不安を覆い隠すための衝動にすぎない。
「嫉妬」「恐怖」「憎悪」──
それらは確かに強く、他を覆い尽くすほどに広がった。
だが観察者の眼は揺るがない。
それらもまた、外部からの刺激に応じて揺れ動く反応に過ぎない。
支配的であるように見えながら、根は浅く、持続性を持たぬ。
そして、観察者は結論に至る。
感情とはすべて「現象」であり、絶えず変化し、定着することのないもの。
波に似ている。打ち寄せ、引き、また寄せる。ただそれだけ。
器の内部には、次第に一点の核が残された。
それは感情の流入に左右されず、ただ「観測」し続ける。
動じぬ理性。
揺らぎのなかにあって、揺らがぬもの。
人格が産声を上げた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。次回をお楽しみにお待ちください。