第十五章 帰る場所
明け方の空気は、まだ夜を引きずって冷たい。澄影は布団から抜け出し、障子の隙間から外をのぞいた。屋根の端に露が光って、遠くで鳥が鳴いている。
後ろでは澪が小さな薬缶を火にかけていた。薬草をほぐす指先が慣れているのに、その背中はどこかぎこちない。まだ、この家にふたりで暮らし始めてから日が浅いからだ。
「もうすぐ沸きますよ」
澪が振り返って笑った。澄影は短く「うん」と返す。
淺井戸で顔を合わせるうちに、少しずつ言葉を交わすようになった。茶を分け合い、時には買い物に付き添った。けれど澄影は夜になると、町の外れの廃墟でひとり寝起きしていた。行くあてがなく、居場所もない。
ある日、澪はそんな荒屋を見るにみかねて言った。勿論、それだけではなかっただろうが。
「あの、……うちに来てください。薬草の仕分けだって、あなたなら上手に手伝えるでしょう?」
笑いながらも、その瞳は真剣だった。断る理由などなかった。
それから、ふたりの暮らしが始まった。
「よく眠れました?」
茶器を並べながら澪が問いかける。
「ああ」
澄影は曖昧に答えた。夢の中で、誰かが名前を呼んでいた。澪ではない、もっと遠い昔の声。目覚めた今も、その響きが耳の奥に残っている。
湯が沸き、茶碗に注がれる。淡い緑色の湯気が立ちのぼると、部屋の中がすぐに薬草の匂いで満ちた。澄影は口をつけ、苦みと清涼さを舌に受け止めた。
「どうです?」
「悪くないね」
わずかに笑った澄影を見て、澪は少し目を伏せた。頬に赤みがさしている。
こうして始まった日々は、まだぎこちなさが残る。それでも、帰る場所というものがなかったふたりにとっては、この小さな茶碗を挟んだやり取りこそが、確かな「帰る場所」だった。
澪が煮込んでいた薬草の香りが、蒸気とともに部屋を満たした。
その匂いに触れた瞬間、澄影の胸裏に、見知らぬ景色が広がる。
――夕暮れの土間。煤けた梁の下で、小さな影がこちらに駆け寄ってくる。
頬を紅潮させ、息を切らしながら、必死に伸ばされた手。
「父さま、もうどこにも行かないで」
声が震え、幼い掌の温もりが指先に絡む。
けれど澄影は、そこで足を止めた。違和感が、胸に深く突き刺さる。
父さま――?
自分には、そう呼ぶ者などいなかった。そんな面影など見えるはずもない。
そのとき、耳鳴りのようにひとつの言葉が浮かんだ。
――器。
確かに掴んだはずの感触は霧散し、残されたのは澪が差し出す椀のぬくもりだけだった。
「……どうかしました?」
澪の瞳が心配げに揺れる。
澄影はかすかに首を振り、微笑で答えた。
だが胸の奥では、あの言葉が何度も浮かんでは消えていた。
澪の暮らしぶりは、日を追うごとに人間らしい温かさを色濃くしていた。笑えば声が跳ね、眉を寄せれば憂いが滲む。澄影の前では遠慮も薄れてきたのか、時に子どものように拗ね、またある時には年長者のように諭す。
対して澄影は、感情の波をほとんど表に出さなかった。澪の言葉に耳を傾けてはいるが、返すのは短い相槌かうなずきだけ。その瞳は常にどこか遠くを見ていて、まるで澪と同じ時を過ごしていないかのようだった。澄影の心が自分に向けられる日を信じようとする澪の想いは、どこか空を掴むような虚しさを含んでいた。ただ自分だけを見てほしいと願うのは、身勝手な望みなのだろうか。直向きに重ねてきた想いは、届くことなく、報われぬ予感を纏い始めていた。
それでも澪は諦めず、言葉や仕草で彼を人の世につなぎとめようとする。食事をともにし、洗った衣を干し、夜は囲炉裏の火を眺める。その一つひとつが、人と人が重ねる「日常」であることを、澪は信じて疑わなかった。
だが、澄影の内側では、時折説明のつかない既視感が波のように押し寄せていた。澪が口にした何気ない言葉、囲炉裏に照らされた横顔――それに重なるように、見たことのない情景が脳裏をよぎる。
――高くそびえる楼閣。
――石畳に立ち並ぶ楼門。
――人々のざわめき。
しかし、そこに自分がいた覚えはない。ただ幻影がまとわりついているだけだった。まるで空の器に他人の記憶を流し込まれているかのように。
澄影は、これは「記憶」と呼べるものではないと直感していた。自分にそんな過去などない。にもかかわらず、どこかから流れ込むようにして景色が甦る。それが何を意味するのかはわからない。ただ、あたかも「自分という存在の根」に絡みついているように感じられた。
その時、唐突に視界が裂けた。
白い光とともに、過去の文明の片鱗が押し寄せてくる。
誰のものともわからない記憶。
澄影は身を固くし、ただその奔流を受け止めるしかなかった。
次の瞬間、澄影の意識は白い光に呑まれた。
視界の奥に、鮮やかな景色が次々と浮かび上がる。
朱で塗られた楼閣が朝陽に輝く。
石畳を踏みしめる群衆の足音が響く。
市場のざわめき、香辛料の匂い、太鼓の音――。
だが、それは長く続かない。
色鮮やかな映像はすぐに淡く溶け、まるで砂に描いた模様が波にさらわれるように消えていった。
また別の景色が現れる。
今度は深い森。
古代の石柱が並び、苔むした彫刻が影を落とす。
人々の祈りの声が遠くから響く。
だがそれもすぐに、霧に呑まれて消える。
浮かんでは消え、また浮かんでは消える。
澄影はただ、傍観者のようにその景色を見つめていた。
驚きも、悲しみも、懐かしさもない。
ただ、流れ込む映像を目の奥で受け止め、無感情に見守るだけだった。
時間の感覚さえ曖昧になっていく。
過去なのか未来なのか、自分と関わりがあるのかどうかもわからない。
それでも景色は尽きることなく現れ、消えていった。
まるで空虚な器の底に、誰かの記憶が注がれては零れ落ちていくように。
白い光が視界のすべてを覆い尽くす。
音も、匂いも、感触も消え、ただ真っ白な空間に溶けていく。
◇◆◇◆
――そして、次に目に映ったのは、見知らぬ街だった。
瓦屋根が陽光を反射し、朱や蒼の楼閣が立ち並ぶ。
陶京の街並みに似てはいるが、そのあちこちに見慣れぬ装置が組み込まれている。
地面は土色をしているものの、硬く塗り固められたように砂埃さえ起こらず、不自然なほどに平だ。通りを行き交う人々は和服姿だが、手には薄い板のような道具を携えていた。指先で触れるたび、文字や絵が自在に現れては消える。まるで「板書投影機」とでも呼ぶべき装置だった。
辻の広場では、立体映像を投影する機械が据えられ、瓦版の代わりに映し出された虚像を、人々が熱心に食い入るように見つめている。
老いも若きも、皆が息をひそめ、その映像の中の男に耳を傾けていた。
映像の中心に立っていたのは、背丈の低い男だった。
痩せぎすの体を大きく見せるように胸を張り、紺の羽織をきちんと着込み、言葉の端々に礼を欠かさぬ。
だが、その声音には不思議な熱が宿っていた。
「ご列席の皆々様。長きにわたり、我が国の進むべき道をお待ちいただいたことでしょう。
本日、この場にてお伝えできること、まことに光栄に存じます!」
声はよく通り、広場に集った市民ひとりひとりに届いていく。
男の後ろでは、立体映像が明滅し、淡い光を帯びた円環の機械が鼓動するように脈打っていた。
「感情――喜びも、悲しみも、怒りも、希望も――そのすべては曖昧な幻などではございません!
いまや我らは、それを数値として測り、形ある力として扱う術を手にしたのです!」
人々の目が輝いた。
子どもが父の袖を引き、大人は互いに囁き合い、老人までもが身を乗り出して虚像を凝視している。
「そして! その感情を、ただ蓄えるだけでなく――」
小男は声を高め、右手をぐっと掲げた。
「増幅させることで、無尽蔵のエネルギーを、いつでも、どこからでも引き出すことが可能となるのです!」
ざわめきが広場を駆け抜ける。
興奮の渦が巻き起こり、人々は高揚感はピークに達しようとしている。
澄影はただ、その光景を見ていた。
観客の一人として、群衆に紛れて立っている――はずなのに、どこか自分自身が壇上の小男の姿と重なっているような奇妙な感覚があった。
歓声に揺れる街。熱を帯びた演説。
その中心に自分がいるのか、それとも遠くから眺めているだけなのか。
境界はあいまいで、時間の感覚すら溶けていく。
広場は熱に包まれていた。
小男の言葉が一つ響くたびに、人々の顔が明るくなり、ざわめきが渦のように広がっていく。
拍手、歓声、涙ぐむ者、両手を合わせ祈る者。
誰もが胸を震わせ、これから訪れる明るい未来を信じようとしていた。
立体映像に映る円環の機械は、ひときわ強く光を放つ。
その光が群衆の瞳に宿り、広場全体が揺れる炎のように見えた。
――だが。
そのただ中にありながら、澄影の心は奇妙なほど静かだった。
目に映る景色は鮮やかなのに、胸の内には一滴の熱も流れ込まない。
まるで透明な壁の向こうから、他人の夢を覗き込んでいるようだった。
「なぜ……」
言葉にならぬ問いが、心の底に沈む。
なぜ自分だけが、この熱狂の外に立っているのか。
なぜ、自分は冷ややかに見守ることしかできないのか。
歓声は高まり、街は震え、未来を謳う声がこだました。
その熱の只中で、澄影はただひとり、凍りついたように立ち尽くしていた。
そして視界は、再び真っ白に溶けていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ここから古代文明編が始まります。
お楽しみいただければ幸いです。