第九章 光に寄る影
白雨通りの裏手は、人の気配もまばらで、いつも薄曇りのように静かだ。
苔むした石組みの浅井戸は、澪にとって心を落ち着ける場所だ。
彼女は桶の脇に腰を下ろし、両手を重ねるようにして膝に置いた。指先には、陶京の町で過ごした一日の疲れが残っている。水の底から立ち上る涼やかな気配が、肌にそっと触れ、火照った思考を鎮めていく。
長い睫毛がふと伏せられ、澪の瞳は水面を映し取る。薄暗い浅井戸の水面に映る自分の顔は、どこか別人のようで、言葉を持たない影のようでもあった。
――この街には、声にならない言葉が幾重にも沈んでいる。
そう胸の奥でつぶやきながら、澪は小さく息を吐く。
井戸の傍らに伸びた蔦が風に揺れ、緑の影が彼女の頬をかすめた。澪はそれに気づきもせず、ただ静かに目を凝らす。自分の心の奥に落ちる小さな揺らぎを、水面の揺れに重ね合わせるように。
――そのときだった。
澪の視線の先、井戸の向こうに淡い影が差し込む。
そこに立っていたのは――青年。
衣は飾り気なく素朴だが、纏う空気には不思議な清らかさがあった。髪は風に揺れ、光を受けて薄く輝き、表情は静かでやさしい。まるで長い時を見渡してきたかのような余裕を湛えているのに、押しつけがましいところは微塵もない。ただそこにいるだけで、澪の胸のざわめきが落ち着いていく。
「……また、ここにいらしたんですね」
気づけば澪が声をかけていた。
青年――澄影はわずかに口角を上げ、やわらかな微笑を返した。
「君も……水に映る影を見るのが好きなのかい?」
その声は低く穏やかで、井戸の水面に静かに落ちる雨粒のように澪の心に染みこんでいった。
胸の奥に抱えていた不安が、ふとした拍子に解きほぐされる。思わず澪は、長く溜め込んでいた想いを言葉にした。
「……この街の人たちの想いが、時々、胸に流れ込んでくるんです」
澪は視線を水面に落とす。
この街で起こっていることが何に起因しているのか、誰も答えを示してはくれない。
そして、自分の力――他人の想いや記憶を抱きとめてしまうこの不可思議な力が、一連の出来事にどう関わっているのかもわからない。
地図のない迷路に放り込まれ、出口を求めてさまよっているようなものだった。
足音は確かに響いているはずなのに、辿り着く先はいつも暗がり。
迷路の壁に手をつきながら、どこまで歩めば光に届くのか――その答えを、澪は探し続けていた。
そんな彼女を映すように、澄影の瞳は静かに澪を見つめていた。まるでその迷路の構造をすでに知っている者のように。
「消えてしまったはずの記憶や、誰も口にしない悲しみ。それがどうしてか、わたしの中に残る……。でも、それが何のためなのか、わからなくて」
澄影は答えを急がず、ただ優しい眼差しを注いでいた。その沈黙さえも、澪には心を包み込む柔らかさに思えた。
やがて彼は、井戸の縁に片手を添えながら口を開いた。
「……きみは、迷っているんだね」
澄影の声は低く穏やかだった。井戸の水面に落ちる雨粒のように、静かに澪の胸に沁み込んでいく。
澪はうつむき、唇を噛んだ。何を言われるでもなく、自分の迷いを言い当てられた気がした。
「思念は……人の心そのもの。喜びも怒りも、憎しみも願いも。すべてが炉に吸い上げられ、この街を支えている。」
澄影の瞳はやわらかかった。けれど、その奥底には言葉以上の重みが潜んでいる。
「器は、それを安定させるための存在。――けれど、現実は違う……弱き者を守るどころか、すり減らし、押し潰している。」
澪は胸の奥がざわめくのを覚えた。彼の静かな言葉は耳に届くよりも先に、心に重く落ちてくる。
「正しさは、光のようでもあり、影のようでもある。その光が強すぎれば、影は濃くなり、本質を見えなくしてしまうんだ。一枚の窓から覗く景色では、何かをわかったようでいて、何もわかりやしない。悪意がなくとも、光の届く範囲だけで語られる世界が重なれば、人は気づかぬうちに押し込められ、心は擦り切れていく。」
澄影の声には、怒りも哀れみも混じらない。ただ、変えることのできない現実を静かに告げていた。
人々は目を背ける。つぶされる未来、消される過去。それでも世界は動き続ける。誰かの苦しみを飲み込みながら。
澪は息をのみ、澄影を見上げた。彼はまるで、その先にある真実をすでに知っているかのように、澪の迷いを包み込む。
答えは示さない。ただ、そこに寄り添うように。
やがて澄影の言葉の断片が、のちに恐ろしい意味を持つことを澪はまだ知らなかった。
それは、触れてはならぬ真実――まるで開かれてはならないパンドラの箱のように、この世界の奥底に眠っていたのだ。
器という存在は、避けようのない未来を示す標となり、この街の命運を左右していく。
──場面は変わる。
夜風が瓦の隙間を渡り、灯火がちらつく部屋の中。
斎は積み重ねた記録の束を広げていた。
紙の端には、人々の証言が走り書きされている。だがどれも、断片的で食い違いばかり。
肝心な核心は、まるで誰かの手で塗りつぶされたかのように欠けていた。
「……やはり、〈炉〉と〈影〉は切り離せぬもののようだな」
斎が低くつぶやく。その目には疲労が滲みながらも、鋭さを失ってはいなかった。
〈影〉の暴走は偶然ではない。人の心に〈炉〉がかかわている。
「古代の記録を洗わねば。思念の流れも、〈器〉という存在も、すべてはそこで繋がっているはずだ」
斎は視線を紙束から外し、闇に沈む窓の外を見た。
遠く、〈炉〉の影が山のように聳え、夜空を赤く染めている。
あの場所が、すべての答えを握っている──そう思うと、胸の奥が重く軋んだ
斎の捜査はなおも続き、知らず知らずその箱の蓋に近づいていくのだった。
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