第一章 灰の匂い
はじめまして、あるいは、ようこそお越しくださいました。
この物語は、少しだけ不思議で、少しだけワクワクする世界の中で、「自分らしく生きる」ということを探す人たちのお話です。
登場人物たちが迷い、傷つき、それでも誰かのために心を動かす――
そんな姿を、どうか楽しんで見守っていただけたら嬉しいです。
一つひとつ、丁寧に紡いでいきたいと思っています。
読んでくださるあなたの時間が、少しでも豊かなものになるよう願いをこめて。
ここまでたどり着いてくださったことに、心からの感謝を込めて。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
風が吹いていた。
山あいの空に重たく垂れ込めた雲は、鈍い灰色をしている。遠く、空の裂け目から差し込む光が、ひとすじの煙を照らしていた。まるで、天が煙そのものを罰するような光だった。
黒ずんだ草を踏みしめる音もなく、男は立っていた。
足元には地割れが走り、灌木が折れて倒れている。あたり一面は焼け焦げたような臭いに満ちていた。
男は静かにその場に佇み、空を仰いでいた。
その眼差しは、まるで何かを思い出そうとしているようであり、あるいは何も思い出したくない者のようでもあった。
──ここは、どこだ。
その問いを口にはしなかった。ただ、胸の内で静かに、波紋のように広がっていた。
目の前に広がる景色は、彼の記憶にあったはずのものとは、何もかもが異なっていた。
否、記憶そのものに霞がかかったように曖昧で、今に至る道筋どころか、何があって、何がなかったのか、己の存在すら定かでない。
けれど、この肌に触れる風の冷たさだけは、確かに“いま”そのものだった。
冷たい。だが、痛みではない。
──感覚がある。
それを、男は一瞬、不思議に感じた。
背後で、何かが転がる音がした。
ゆっくりと振り返ると、燃えかけた家屋の残骸の中に、小さな影が揺れていた。
少女の面影をわずかに残しつつも、すでに大人の静けさをまとう女だった。
その肩が小刻みに震えている。
──なぜ、自分はここに立っている?
男は自らに問うたが、答えはなかった。
ただ一つ、目の前の命に、手を伸ばさねばならないような気がした。
踏み出した一歩は、まるで地面が拒むように重たかった。
それでも、二歩目は少しだけ軽かった。
近づくにつれ、女の顔が上がる。
怯えと、涙と、驚愕と、そして──安堵が、そこにあった。
「……あなたは……」
女がかすれた声でつぶやく。
男は答えない。ただ、彼女の肩に手を置いた。
温もりが、指先に伝わる。
その瞬間、空の煙が──ふっと、音もなく風に裂かれた。
◆ ◆ ◆
この村は「タマガワ」と呼ばれていたが、もはや村と呼べるものは何一つ残っていない。
斜面を焼き尽くし、家々を崩し、畑を黒く染めた何か。
女はそれを「思念に取り込まれた人」と言った。
「……山神さまの怒りです。あの山が、泣いていると、ばあちゃんが」
彼女がそう言って指差した先には、地平にそびえる灰色の山があった。
頂からは、煙が絶えず立ち昇っている。
──それは自然の煙ではなかった。
炎の匂いもしないのに、なぜか胸がざわつく。
鼓動のように、低く、響く。
あれが「炉」なのだ、と男は言葉にはしなかったが、胸の奥の何かが知っていた。
女は、そんな男の顔を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……あのひとも、あなたみたいな人でした」
「……あのひと?」
「陶京から来たって。山神様をなだめる、選ばれし者……だけど、最後は、あの“思念”に食べられた」
男は黙っていた。
その瞳には、遠くの山ではなく、眼前の女が映っていた。
「でも、あなたは……ちがう。怖くない。あのひとと、何かがちがう」
「……」
「……陶京へ、行くの?」
言葉の中にだけ浮かぶその街の名が、奇妙に心に引っかかった。
見たこともないはずのその街の名が、胸の奥で、燻る炭のように火をくべた。
「……そこに、何かがある」
男は低くつぶやいた。
それが記憶なのか、希望なのか、自分でもわからなかった。
ただ──彼は「久遠」という名を思い出した。
名だけが、残っていた。
◆ ◆ ◆
翌朝、焼けた村の外れに立つ久遠を、女は見送った。
「……この道を東に行けば、峠の先が陶京です。でも、気をつけて」
「……なぜだ」
「人の怒りや、妬み、悲しみ……思念は、もう人のかたちをしてないんです」
彼女の言葉には、あどけなさと、底知れぬ覚悟のようなものが混じっていた。
「また会えますか?」
女の声が風に流れた。
久遠は一瞬だけ立ち止まり、振り返った。
静かにうなずくと、その背を再び、風が押した。
彼の影が、朝陽の中に長く伸びていった。
煙の立つ山を背にして──。
第1章、お読みいただきありがとうございました。
ゆっくりとした立ち上がりの物語ではありますが、この先、少しずつ謎や人物たちの想いが動き出していきます。
主人公・久遠が見つめる世界には、まだ語られていない真実や“ひずみ”が潜んでいます。
次章では、彼と出会う「ある人物」が登場し、物語は静かにその深部へと踏み込んでいきます。
もしよければ、次回もお付き合いくださると嬉しいです。
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ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。