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アイドル神話の崩壊~『〇〇〇に行ってもいいですか?』~

人生には、どうしても戦わなければならない瞬間がある。逃げることが許されない瞬間がある。


それはどれほどの痛みを伴い、魂を削るような試練であったとしても━━運命は、容赦なく私たちを飲み込んでくる。


完璧美少女の私━━下園瀬奈(しもぞのせな)であったとしてもだ。


まさか、まさか私の人生を根底から揺るがす”それ”が、あんな形でやって来るなんて…


心の準備なんてできているわけがなかった。

それでも逃げることが許されない。

これは私と私に課された運命との正面とのぶつかり合い━━━




「めっちゃトイレ行きてぇ……」



私は、この学園の偶像、「アイドル」と呼ぶにふさわしい存在だ。


その銀髪は、まるで夜空を彩る銀河をそのまま編み込んだかのように美しく輝き、恒星のような瞳に周囲の生徒たちはうっとりと頬を緩める。下園瀬奈は、この学園における中心であり、まさしく”光”そのものだった。


学業においては常に首席。スポーツにおいても例外ではなく、日本記録を何度も塗り替えていた。


家柄もまた由緒正しい名家の出であり、伝統と格式を重んじる家庭で育てられている。


そんな完璧な私が微笑めば、まるで世界そのものが祝福するかのように、空は晴れ渡り、鳥はさえずり、花は風にそよぐ。逆に悲しみに暮れれば空は灰色に曇り、ぽつりぽつりと雨粒が世界を覆う。


森羅万象すらも味方につけた私にとって、すべてが思い通り。人生とは楽で退屈なものであった。


数分前までは━━━


私のクラスは体育の授業で、誰もが憂鬱になる「長距離走」に取り組んでいた。学校の敷地内には、陸上部が使用する校舎の周囲をぐるりと囲む形で特設のトラックが設けられている。単調なグラウンドとは違い、コース沿いの景色は適度に変化するので、走るのには良い環境だと言える。


(アカンアカンアカン、マジで漏れる!)


そんな悲鳴が頭の中で何度もループしている。もはや思考の99%が便意で埋め尽くされていた。


「下園良いペースだぞ~」


「は~い、頑張りま~す!」


一周目を終えて、体育の先生にファンサービス。私は完璧なアイドル。この程度の困難で表情を歪めるわけにはいかない。アイドルはどんな時でも輝いていなければならない。


━━━たとえ、膀胱が破裂しそうであったとしてもだ


ここで『先生トイレ』などとは言ってはいけない。いや、言えるはずがない。言ってはならないのだ。


なぜなら、私は下園瀬奈だからだ。


ここで、トイレなんて言った日には、『下園瀬奈はトイレに行かない』という神聖なる都市伝説は崩壊し、信者たちの心を深く傷つけてしまうことになる。彼らは深い絶望に沈み、明日を生きる気力すら失ってしまうかもしれない。


まぁ、それはそれとしてトイレに行きたいのは事実としてあるわけなんですわ。


校舎裏まで走れば簡易トイレがある。


ファンたちには私がトイレに行く姿さえ見せなければ問題ないので、そこに駆け込み、最短で出てくれば問題ない。


ただ、それは不可能だ。


なぜなら━━━


「は、は、は、は」


ちらっと後ろを見ると、鬼の形相で私の五メートルをピッタリと付いてくる女がいた。


小島夜(こじまよる)。夜空を切り取ったような美しい髪をポニーテールにしている。その鋭いルビーの瞳が私を射抜いていた。私よりは美女度は低いが美少女には変わりない。


彼女は私を常に敵視していて、ことあるごとに勝負を挑んでは、返り討ちに遭っている。中々いい線はいっているが、私という”絶対王者”がいる限り、彼女の座はいつだって二番手に留まるしかない。


私としては正直言って鬱陶しいことこの上ない。けれど、これも王者たる者の務め。民の期待に応える責任というやつだ。


(というか、ここまで目の敵にされるって、私やっぱり天才過ぎるわwwwどこまで行っても輝いてしまうこのカリスマ性が怖いわwww)


小島夜には申し訳ないが、私という存在の輝きを際立たせるためのかませ犬だ。強い敵がいるからこそ、王の強さが映える。


生徒たち、いや《ファン》たちの間では、「NO.1の私」と「NO.2の小島 夜」との戦いは“尊い”ものとされているらしいが、特に気にしたことはなかった。


━━━今日までは


今、目の前に聖域(トイレ)が見えている。でも、ここで駆け込んでしまったら、彼女に追い抜かれる。いや、それ自体は問題ない。すぐに追い抜けばいいだけだ。


だが、それ以上に問題なのは、生徒の前で”私がトイレに駆け込む姿”を晒すことだ。


それだけは絶対に避けなければならない。王としての尊厳のために。


「はぁ、はぁ!逃がさないわよ!今日こそは貴方を地に引きずり降ろしてあげるんだから!」


「ふふ、怖い怖い」


(下剋上するにしても、TPOってものがあるやろうが、ボケ!?)


王たる私はいついかなるときでも挑戦を受ける覚悟はできているが、これは流石に想定外過ぎる。すると━━━


「下園さ~ん!」

「頑張れ!」

「走ってる姿すら美しぃ……」


移動教室の途中に外を覗いていた生徒たちから私にラブコールが送られた。


「今は授業中ですよ?静かにしなきゃ『めっ』ですよ?」


人差し指で口元を抑えつつ、ウィンクでファンサービスをする。


「「きゃあああ」」

「「うおおおお!」」


喜んでくれたなら、良かった。私の身体は私のためにあるのではない。世界のためにあるのだ。


「その余裕そうな表情を屈辱で歪ませてあげるわ!」


余裕じゃねぇよ!?


背後で小島夜が私を憎々し気に見ているが、それはこっちのセリフだ。


(お前がいなければ今ごろ、トイレに行けていたんやぞ!?)


そうこうしているうちに二周目が終わった。この辺りになると、一周遅れの生徒を追い抜くことになる。私に視線が一気に集まる。何なら、私と一緒に走ろうと頑張って付いて来ようとする者までいる。


三周目の簡易聖域が見えた。その神々しくも荘厳な建造物を眼にした瞬間、私はまるで禁断の果実に手を伸ばしてしまったアダムのような、ある種の背徳と救済が入り混じるような複雑な感情に包まれた。


「こっちに来て」「楽になろうよ」「ほら、BENZAだよ?」


天使がラッパを吹きながら甘い言葉を耳元で囁いてくる。


(あ、もう無理や。ここまで来て、負けるのは癪だけど、漏らすよりはええねん)


「はぁ、はぁ、はぁ!下園瀬奈!貴方、もうへばったのかしら?」


(あ~、はいはい。好きなだけ吠えておいてくださいな。たまには王座をくれてやるわボケ。便座だけは渡さんけどな)


こんな苦しみから逃れるためだったら、プライドを折らなければならない。ファンだって分かってくれるはずだ。


私が天国の門に向かって歩を進めようとすると、


「あっぶね~、漏れる~」


私の前を走る周回遅れのギャル生徒がトイレに駆け込んで行った。


瞬間、あの耳障りなほど小さな鍵の音が鳴り響き、赤い絶望が私に去来した。


「━━━」


私は人を恨んだり、嫉妬することがない。なぜなら、常にそれは私に向けられたものだったからだ。私は走りながら、聖域をずっと見つめ続ける。


次会ったら殺す━━━


怒りも悲しみも羨望もすべてが混ざり合い、波一つ立てずに、殺意という純粋な海に飲み込まれていく。


どのような報復をしてやろうかと考えていると、身体に異変が起こった。


「尿意が……止まった……?」


それはまるで、荒れ狂う嵐が凪ぎ、暗雲が晴れ渡った瞬間だった。理性を焼き尽くすような切迫感が今や跡形もなくなった。


信じられない。


あの地獄のような時間は夢だったのか?


けれど、この静けさは虚ろではない。今、ここにある身の軽さが雄弁に真実を語っている。


「━━━小島夜さん」


「何よ……?」


小島夜の方を振り返ると、肩で息をしながら額には大量の汗を滲み出ていた。


そんな様子を見て私は邪悪な笑みを浮かべた。すると、小島夜の瞳に恐怖が見えた。


「そろそろ━━━本気を出していいですか?」


「え?」


夢を見ていたのだろう。儚くも甘い幻想━━━私に勝てるかもしれないという夢を


その幻想が打ち砕かれる瞬間、絶望に染まる彼女の表情はあまりにも甘美だった。心の奥底をくすぶる全能感に身を委ねながら、私は軽く地面を蹴る。


次の瞬間、私の身体は一気に加速した。


ほんの数秒前まで喉元まで迫っていた小島夜の気配が遠ざかっていく。


痛みと重圧から解き放たれた今、私にとってギアを一段階上げるなど造作もない。


”セカンドウィンド”━━━ランナーズハイという言葉が一般的だ。長距離では身体が楽になって辛さを感じることなくなることがある。


「ふふふふ……!」


勝ったわこれ!


私は風になったかのように滑空する。


けれど、私は下園瀬奈。完璧で理性的な生命体。今起こっている現象を冷静に分析すると、セカンドウィンドが長く続かないことくらいは知っている。結局、セカンドウィンドは一瞬の麻薬のようなもの。


一瞬の恍惚、一時の猶予。


この間にゴールをしなければ、先ほどとは比べ物にならないほどの地獄が私を襲ってくるのは想像に難くない。


距離にして、後、五百メートルほど。これくらいなら、二分もあれば間に合う。


「グホ!?」


え?


急に体が重くなり、じっとりと嫌な汗が噴き出してきた。『セカンドウィンド』が来てから、まだ一分も経っていない。


嫌な予感が止まらない。考えたくない現実が私に襲い掛かる。


(ここに来て、う〇こに行きたくなるとかどうなっとんねん!?)


追い打ちをかけるようにセカンドウィンドが解除され、膀胱も痛くなってきた。顔から血の気が引いていくのが分かる。


ヤバイ。本気でヤバイ。


さて、ここで問題です。私は今、どこにいるでしょうか?


答えは校舎とは反対側にあるグラウンドのトラックの上。つまり、トイレからは最も離れた遠い場所。絶望的なロケーションで、まさに地獄の真っただ中。


そして、うるさい猛犬が後ろから追いすがる。


「下園瀬奈!追いついたわよ!」


しつこいなぁ!もぉ!


「ここであったが百年目!絶対に負けないわ!」


「ふ、ふふ。頑張ってくださいね」


「その余裕そうな表情!もうすぐ屈辱に染めてあげるんだから!」


知るかっての!


一周遅れの生徒たちが点々と走っていて、その間を縫って走るだけでも神経を使う。今は振動すら危険で下手にジャンプでもしようものなら、何かが終わる。


絶対に気付かれてはいけない。これだけは絶対に。


ゴールまで後、二百メートルほど。後、四十秒ほどでたどり着く。


行ける!行ける……!間に合え……!


「舐めるなあああ!」


「なっ!?」


小島夜が私の横に並び、そして、抜き去った。


一瞬、時間が止まったように感じた。音が消えた。心臓の鼓動だけがやけに大きく耳に響く。


人生で初めて、誰かの背中を追っている。


(ああ、もう終わりだ)


後、数分後には学校中で下園瀬奈が小島夜に負けたという話が校内を駆け巡るだろいう。


私は絶対に負けてはいけない学校のアイドル。


完璧で、無敵で、誰もが憧れる”学園のアイドル”


その私が、敗北する?


そんなこと━━━


「ゆるせるわけねえよなあああ!」


「なっ!?」


怒号が空気を割くとこの学校の時間が止まる。


獰猛で手負いの獣のような私を見た彼らに動揺が波紋のように広がっていく。


私は━━━下園瀬奈。


勝つために生まれ、勝ち続けることを宿命付けられた存在。


「負けるくらいなら……!」


漏らした方がマシなんだよ!


叫びは狂気じみていた。だが、そこに嘘偽りない。


完璧という仮面をはぎ取った下園瀬奈がそこにあった。


ただ勝利を望む獣━━━それが下園瀬奈というど真ん中!


完璧な笑顔?上品さ?美しいフォーム?


そんなものはただの飾りだ。


━━━勝利のためにはすべてが邪魔だ。


尿意?知るか!


便意?知るかつってんだよ!!


敗北の味を噛み締めながら生きていくことに価値はない。


命を削ってでも、プライドを潰してでも勝つ。


それが私━━━下園瀬奈だ!


「ッ!それでこそ私の目標!」


私たちは本気で走る。この瞬間だけは、肩書も、立場も、何もかもを捨て去った。


ただ、走るだけに自分のすべてを注ぎ込む。


息をするのも惜しいほどに、全身の筋肉を爆発させて風を切って走った。


心臓の音が太古のように鳴り響き、視界の端はすでに霞んでいった。


眼の前に見えた、石灰で引かれたゴールライン━━━それを私たちは同時に踏み越えて、地面に尻もちをつく。


そして、息を突く間もなく、タイムを計っていた体育教師の方を振り返る。


順位は━━


「同着だな」


同着……


私の勝利ではない。ただし、負けたわけでもない。人生初の引き分けだった。


私は放心しながら、地面に倒れ込んだ。


空が青く青く澄み渡っていた。鳥は空を撫でるように滑空し、雲はゆっくりと青を覆う。


まるで自分という存在が浄化されたかのようだった。


それを一言で表すなら、”満足”なのだろう。


「悔しいけど……流石ね。絶対勝ったと思ったのに……」


汗の滲む額を拭いながら達成感のようなものさえ感じられる表情で小島夜は私を見ていた。


「え? ああ、どうも。ナイスファイトでした、小島さん」


「……夜でいいわよ。今さら名字なんて照れるじゃない」


言葉と同時に、そっと手が差し出される。私はその手を一瞬だけ見つめ、そして握り返した。すると、周りで歓声が巻き起こった。


「いつも、軽く一位を取る貴方が憎かった。正直、気にくわなかったのよ。あっけらかんとしてる貴方がね。だから、いつか、そんな貴方の“本気”と戦ってみたいって思ってたのよ」


彼女の言葉は鋭くも、どこか柔らかかった。


「今日の貴方は……完璧な、作られた“下園瀬奈”じゃなかった。等身大の、本物の貴方だった。だから私は、満足よ」


沸き上がる熱狂的な声援。鳴り止まぬ拍手。歓喜と賞賛と興奮が、渦のように巻き起こる。


今まで、どれだけ勝ち続けても得られなかった世界が、そこにあった。孤高の王者としての拍手ではない。挑み、ぶつかり合い、限界を越えた先にしか得られない、本物の喝采。


これが━━━本気で戦うということ。


私は、確かに戦った。守るためでなく、ただ純粋に、敗北を恐れ、勝利に貪欲に全力を尽くした私は、かつてないほど……美しかったのかもしれない。


「ふふ、大事なことを教えてもらいました。自分を曝け出して本気を出すことがここまで気持ちの良いことだなんて」


人生の通知表に並んだ白丸の中に、紛れ込んだ三角印。


今はそんな異物をとても誇らしく思った。


もう私は完璧ではない。


だからこそ、ずっと胸にしまっていたあの言葉を言ってもいいだろう。


「先生」


「ん?どうかしたか?」


それはきっと私の人生で一番いい笑顔だっただろう。


「トイレに行ってもいいですか?漏れそうです」


神話の終わりを告げる一言。


これからはただの下園瀬奈として生きていこう。

『重要なお願い』

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