03,忍び寄る影
「──な!」
私は足を止め、咄嗟に振り向く。
──シーン。誰もいない。
──気のせい?
私は奇妙に思いながら前を向き、歩みを再開する。するとそれに合わせて再びサクサク音が私の耳に届いた。
私はゴクリと生唾を呑み込む。
──気のせいではない。明らかに〝何か〟がいる──私の背後に。
額に冷や汗が滲む。緊張、不安、恐怖。普段なら心地良い筈の音が今は緊張、不安、恐怖の感情を引き立てるスパイスへと成り下がっていた。
怖い怖い怖い──振り向くたくない。だが逃げたところで何も解決しない。ただ問題を先送りにするだけだ。
──頑張れ私。負けるな私。
私はそう心の中で自分を励まし足を止めると──
「誰だ!」
意を決して振り返った。
──シーン。相も変わらず誰もいない。再放送だ。
──意味分かんない意味分かんない意味分かんない意味分かんない。
だがここで引いては先程と何も変わらない。
「隠れたって無駄だよ!」
──シーン。返答はない。私が強気に出ても相手は態度を改めなかった。
「そ、そう……あくまで白を切るつもりなのね。いいよ、そっちがその気ならこっちにも考えがあるから」
私はワザと聞こえる様にそう言うと首を動かし周囲を注意深く観察する。何か『手掛かり』を残している筈だと考えて。だが予想に反して何もなかった。
──おかしい。普通どんなに巧妙に事に当たろうと足跡の一つぐらい残ってしまう筈。なのに何もない。痕跡一つ残っていない──まるで最初からそこに何も無かったかの様に。
一体どう言う──ってまさか!
私の脳裏にある可能性が過ぎった。
確かめてみる価値はあるか……
私は真相を確かめる為、再び足を踏み出す。するとそれに合わせてサクサク音も再開する。
──サク、サク、サク、サク。
私は足を止める。するとそれに合わせてサクサク音も消える。
──やはりタイミングが完璧すぎる。偶然にしては出来過ぎている。
疑惑が確信に変わっていく。
ならあと一押し……
私はその場で足踏みする。
──サクサクサクサクサクサク。
「──やっぱりこの音、私やないかい!」
サクサク音の正体は私だった。いや、厳密に言えば私の足音だった。
確かにアニメのキャラの中には特殊な足音を持つ人達もいるけどさぁ、それを現実でやるかね普通。
これから私は『サバサバ系女子』ならぬ『サクサク系女子』として生きていかなければならない。
先の能力はなんだかんだ使えたが、今回のこれは人間界に溶け込む上でただただ邪魔な能力だ。いつでもクッキーのASMRを聴ける事ぐらいしか利点がない。
『反応が芳しくないですね。クッキー好きのマスターなら喜ぶと思ったのですが』
「喜ぶわけないでしょ!」
私はクッキーを食べるのが好きなだけであって、クッキーそのものになりたい訳ではない。同じようで全く違う。
『せっかくクッキー神様が『マスターの為に』と、特別にオプションで付けて下さったのに』
「ありがた迷惑だよ! 今すぐ外して!」
『生憎ですが、それは不可能です。諦めて下さい』
「いや、自分で取り付けた部品ぐらい簡単に取り外せるでしょ」
『そうですね。確かに機械であればそれも可能でしょう。ですがマスターは機械ではありません──クッキーです。焼き上がったクッキーから特定の材料を取り除く事は可能ですか?』
焼き上がった以前に生地に混ざった時点で取り除く事は不可能だ。
現実はいつだって非常だった。
『そう悲観する事はありませんよマスター。世の中には音が鳴る靴『ベビーシューズ』を履く赤子も少なからずいますし』
「アレは取り外し出来るでしょ! それに私は赤ちゃんじゃないし!」
『確かにそうでした。すいませんマスター』
そう素直に謝られると責められない。
まあ、本人に悪気がないのは分かってるしね。
「……他に何か隠し──上司のサプライズはあるの?」
『骨がクッキーで出来ています』
「──は?」
『骨がクッキーで出来ています』
「別に聞こえなかった訳じゃないよ!」
私は再び突っ込んでしまった。
しかしまさか骨がクッキーで出来ているとはね。
これでは迂闊に転べない。転んだ拍子に骨がサクッと折れてしまう──クッキーだけに。
『ク骨はそんなに脆くありません。現にク骨はマスターの全体重を支えているではありませんか?』
急に正論をかまして来た。
てか何で急に『ク骨』って鎖骨の親戚みたいな略し方したの? まあ、語感が良いから別に良いけどさ。
『じゃあその骨──ク骨は人間の骨と同じぐらい硬いってこと?』
『いえ、ク骨はあくまでクッキー製の骨ですので、そこまでの強度はありません。乾パンぐらいです』
──不安しかない。
「……時間経過で溶けたりしないの? 実際乾パンはスープに浸してふにゃかしながら食べるでしょ? なら私の血とかでふにゃったりしないの?」
『時間の経過と共に徐々にサクサク感は失われていきますよ。人間の骨が年齢を重ねる毎に脆く折れやすくなるのと同じ様に』
「納得の出来る説明どうも。つまり今の私はクッキーが服を着て歩いてるみたいなもんって事ね」
『そうなりますね──クッキーは服を着ませんが』
「ただのジョークだよ!」
『すいませんマスター。私はユーモアのセンスを持ち合わせてはおりませんので』
ハァ……全くこいつは。
私は呆れて溜息を吐く。だが直ぐに頭を切り替え、話を戻す。
「これも元には戻せないんでしょ?」
答えは分かりきっているが、一応聞いておく。もしかしたら、もしかするかも知れないから。
『はい、そうです。流石マスターです』
悪意はない、素だ。だからこそ尚更タチが悪いのだが。
「ハァ……」
私は再び溜息を吐く。するとそれを見兼ねたアイ子が励ましてくれた。
『そう、落ち込まないで下さいマスター。メリットもありますよ』
「──メリット?」
『クッキーは糖分耐性を持っていますので、糖尿病で死ぬ事はなくなります』
まあ、クッキーが糖尿病で死んだらカッコがつかないしね……てか糖尿病ってゲームで言うところの状態異常だったのね、初耳だよ。
『これからは糖質制限せずに好きなだけクッキーを食べられますね』
「嫌みか貴様!」
『嫌み? はて何の事でしょうか?』
そうだ、こいつこう言う奴だった。
「──他には?」
『以上です』
「そう……」
これ以上不満は漏らさない。文句を言ったところで何も始まらないのだから。ただ悪戯に体力を消耗するだけ。
まあ先程のやり取りで大分体力は消耗してるけど。
私は頭を切り替えて歩き出す。怒りを忘れる様にただ無心でひたすら歩く。
だがいくら歩いても街の外観は見えてこない。いや、それどころか人っ子一人見当たらない。ずっと平地。どこまで行っても平面。建物がひしめき合う様に並んでいる現在日本に住んでいた私からすれば想像も付かない光景だ。
このままでは埒が開かん。
「アイ子、街の場所とか教えてくんない?」
『マッピングはゲームの醍醐味ではないですか?』
「いや、今はそんな事言ってる場合じゃないし」
『駄目です』
「……ねえアイ子……私こんなところで死にたくないよ……せっかくアイ子に会えたのに……」
『私にその手の泣き落としは通用しません』
「何でクッキー神はこいつに感情をプログラムしなかったんだよ!」
『マスターみたいな人が現れるからでは?』
これは一本取られた。
仕方ない、森に入るか。
出来れば避けたかった。私にガールスカウトの心得はない。幼稚園の頃に親同伴でキノコ狩りツアーに行った程度。つまり素人。そんな素人が森に入るのは危険だ。素人がコンパスも持たずに森を探索すれば遭難の危険があるし、最悪猛獣に出会すかもしれない。武器も持っていないこの状況下で猛獣に出くわしたら一巻の終わりだ。クッキー一枚ではどうやっても猛獣に太刀打ち出来ない。だが四の五の言っていられる状況はもうとっくに過ぎている。賞味期限はもう残り二時間を切っているのだから。
焦燥、恐怖。
それら負の感情が私の背中を押す──まるで私を崖側から突き落とす様に。
──何とか猛獣を避け、小動物を狩るしかない。
危険は百も承知だ。だがやるしかない。ここで引けば、死ぬ。背水の陣だ。
それに何も悪い事ばかりではない。
森の中には決まって水源がある。確実にある。出なければ生き物は生息出来ない。この
まま街を探して歩き回るより幾分もマシだ。
リスクはあるが、試す価値はある。
私は意を決して森に入ると木々を掻き分け先に進む。
地面の土も凸凹で歩きずらい。
時々足を踏み外し、その度に毎回転けそうになる。
足元にも神経を払わなくてはならない。
至る所に虫がおり衛生面も最悪の為、ストレスが溜まる。
しかも崖や動物を警戒して神経を使うため、中々前に進まない。
その為少し進むだけでも普段の何倍も体力を使う。
だがそんな事で引き返す訳にはいかない。既に賽は投げられた。後は進むのみ。
私は木々を掻き分け、ひたすら先に進んでいく。
すると遠目にウサギを見つける。野ウサギだ。
──よし。
私はそっと近づく。だが私のわずかな足音に反応して逃げてしまった。
無理だ、絶対無理だ。
何か餌を仕掛けてその餌に意識が向いているうちにヤルしかない。
だが餌なんて──あ。