00,プロローグ
私は学校から大急ぎで家に帰ると、玄関で靴を脱ぎ捨て、リビングの扉を勢いよく開ける。リビングでは母がソファーで寝転んで煎餅片手にテレビを見ながら寛いでいた。いつもの見慣れた光景だ。
「今日は随分早かったわね。あ、そうだ。通販の荷物が届いてたわよ」
母はそう言って視線を下げる。その視線を反射的に目で追うと、床にダンボールが置かれていた。
やっぱもう届いてた!
私はリビングに入るや否やそれを持って部屋に急ぐ。
「ちょっと待ちなさい千里!」
背中越しに声を掛けられるが、足を止める事はない。今の私はダンボールの中身のことで頭が一杯だ。
バタバタと階段を駆け上がり部屋に入ると後ろ手で扉を閉め鍵を閉める。
これからの至福の一時は誰にも邪魔されたくない。
ダンボールを床に置き、ガムテープを剥がし、ダンボールの蓋(扉)を開ける。
するとマトリョーシカの様に再び二回り程小さい箱が姿を現した。
厳重に包装された箱の周囲には衝撃を和らげる為に発泡スチロール製の緩衝材がこれでもかと言わんばかりに敷き詰められている。私は発泡スチロール製の緩衝材に埋まった箱を取り出し、開けると、蓋に芸術点が高そうな模様が彫られた高級な缶が出てくる。これはクッキー缶だ。
洋菓子ブランドの頂点に君臨する『ROD』から本日発売された高級クッキー。商品名は『至高のフルコース』、七枚入りで、値段は一缶二万円。単純計算で一枚辺り約三千円である。『天下のRODの新作』という事もあって中々のお値段、現役高校生の私では手が出ない。だが一クッキーファンとして『ROD』の新作クッキーは見逃せない。だから私はこの日の為──より正確に言えば『至高のフルコース』のネット販売予約受付が開始される四月九日に間に合わせる為に一ヶ月間バイトを只管頑張った。その頑張りの結果が目の前のクッキー缶と言える。クッキーの為なら一ヶ月間のバイトなんて全然苦ではない。何せ私の原動力はクッキーなのだから。
クッキー缶を勉強机に置き、蓋をパカっと開けると、圧縮された空気と共にそこでようやくクッキーと御対面だ。
パッと目に入る──彩り豊かでバランスの良い構成。鼻に抜ける上品な香り。期待に胸が膨らみ、波打つ鼓動が早まる。
待ちに待っていたよ、この瞬間を。
『至高のフルコース』と銘打っているだけあって、七つのクッキーはそれぞれ『前菜、スープ、魚料理、口直し、肉料理、デザート、飲み物』に小分けされている。私はそれぞれの御尊顔を十分過ぎる程贅沢に眺め終えた後、クッキー缶にクッキーと一緒に同梱されていた折り畳み式の小さいメニュー表を開き、そこに記載された前菜の役割を担う抹茶色のクッキーを震える手で摘むと、そのまま口に持っていく。
心臓の音が煩い。私の心が──身体が次の瞬間を今か今かと待ち詫びている。そしてようやく『念願の前菜が唇を潜ろうか』と言う時──
「──う!」
心臓がドクンッと大きく高鳴り、前菜が手から溢れ落ちた。
そしてその直後、胸を押さえて倒れ込む。
「──カッ! カッ! カッ!」
胸が苦しい。上手く息が出来ない。その為『助け』を呼ぼうにも呼べない。口がパクパクと金魚の様に開くだけ。
やっと念願の『ROD』の新作クッキーが食べられるって時に!
私の目と鼻の先には前菜がある。心残りがある。
これから死ぬにしても、せめて一口食べてから死にたい。
私は最後の力を振り絞って前菜に手を伸ばす。
よろよろと頼りなく、まるで千鳥足の様だが、着実に前に進んでいく。
あと少し、あと少しで前菜に届く!
だがその手が前菜に届く事は無かった。後少しのところで腕は力を失い落下する。その後私はピクリとも動かない。皮肉にもこの日が私の命日となった。