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9.狂気を従えた黒獣と巫女

 上鳴(うわなき)は、無表情のまま襲いかかってくる巫女から命からがら逃げ出して。神社から少し離れたところ、森の高台で身を潜めていた。


 神社の裏手にある、今も巫女と天使がいるはずの地下へと繋がる階段がよく見える場所だ。しかし、あれから扉を見張り続けてはいるが、地下から出てきて箱園紗々羅(はこぞの ささら)がこちらを追いかけてくるような気配はない。


 普通は、時間が経てば経つほど探しにくくなるのですぐにでも追いかけてくるのだろう、と思ったのだが……。適当に泳がせていても、島の中ならばすぐに見つけられるという自信の表れか。


「まあ、向こうが出てこないなら出てこないで、こっちにも考えはある」


 上鳴はふと思い出す。昨日、村を歩いていた時に見た記憶があった。


「……港。島の外には出られないって事はきっと、漁にでも使うための物なんだろうけど、船であることには変わりないし……来た時の方法が使えないなら、それしか方法は残ってないよな」


 昨日は天使、天河一基(あまかわ いつき)の力で空を飛び、ここまでやってきた。


 だが、彼は既に上鳴ではなく箱園の方へとついてしまった。となると、残された手段は一つしかない。あくまで漁に使う船なので、不安は残るが……何も直接日本へと帰ろうとしている訳じゃない。


 ここから日本の間にはアメリカ大陸を挟んでいる。まずはそこまで逃げる事を目標にして、それから先の事はその時にでも考える。……我ながら普通の高校生らしい、なんの捻りもなく計画性だってない、すぐにでも破綻してしまいそうな考えだが。


「向こうから動く気配がないのなら、こっちが先に動くしかない。そもそもこの場所自体、箱園の管理する島って時点でこっちは圧倒的に不利なんだ。待ちの戦法は通用しないだろうしな」


 あの《聖心臓(カディエータ)》がある地下の大部屋まで向かう方法があの階段だけではないとすれば、このまま待っていても意味がないどころか、見つかれば逆に不意を突かれて圧倒的に不利な状況に立たされる。


 これだけ待っても一向に現れる気配がないというのなら、その可能性も考慮して、こちらもまた動いた方が立ち回りとしては正解……だと信じたい。


 これからどうなるか、一切分からないこの状況。不安を振り払おうとでも思ったからか、気持ちを切り替えようとでも思ったのか――強く、髪をかきむしった――その時だった。


 上鳴の髪の中で、()()()()()()がその手に触れた。



 ***



「……動きましたか」


 手元のタッチパネル式の端末――スマホとは別で持っている、島の巫女としての仕事用タブレット端末だ――を見つめながら、そう声に出す巫女装束姿の女性。


「追うのか?」

「ええ。どうやら港に向かっているようです。待ち伏せで私を攻撃する事は流石に諦めたのでしょう。いくら彼の大まかな位置が分かるとはいえ、どの方位からどんな攻撃が来るかまでは把握できませんので、向こうから動いてくれたのは正直助かりました」


 言うと、巫女は地上へと繋がる石造りの階段を駆け上がっていった。


 長い階段を上りながら、箱園はふと一人つぶやく。ただし、その声、口調はさっきまでの、島の管理者としての人格ではなく。


「……短い時間だったとはいえ、なーくんと過ごした時間だけは噓じゃなかった。久しぶりに心から楽しいって感じたんだよ」


 どこか悲しげな声と共に、仕事中であるにも関わらずほんの一瞬、緩んでしまった表情を再びキリッと戻して。


「……でも、天津河神(あまつかわのかみ)様のご命令とあれば、この島の管理者である私はそれに背くことができません。あの時、一撃で終わらせられていれば、お互い楽に終えられていたのですが。私の力不足が招いたこの失態。早々に終わらせるとしましょう」


 今になって思えば、同年代の人と話す機会なんてそうなかった。生まれてからずっと、それが普通だったので疑問に感じることさえなかったのだが。


 島に同年代の子供がいないという訳でもないが、巫女という立場上、島の人々と深い交流を持つことはできなかった。……島の外からやってきた彼は、彼女にとって初めての、深く交流することを許された相手だった。


 だが、彼女はどこまでいっても、この隠祇(おぎ)島の『管理者』だ。崇める神の命令ならば、巫女である箱園紗々羅はそれに従うしかない。たとえ、初めて特別な感情を抱いてしまった相手だとしても。

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