8.順応した狂気
『竜の血に触れていないのに、その力……。これはあくまでオレの予想だが、まあ、触れすぎたんだろうな。そう何度も狂気に染まっては元に戻ってを繰り返した身体が、マトモなはずがないって訳だ』
すっかり変わり果てた姿の上鳴御削。人を狂わせるという、竜の血へと触れた際に見られる状態だった。
だが、ここに血の持ち主はいない。本来ならばありえない現象だが、天使の見立てでは、何度も血に触れ、狂わされるうちにその身体まで変質してしまったのだろう――と考える。なにしろ彼は、何度も狂っては戻ってを繰り返すイレギュラーなのだから。
巫女は白い翼をはためかせ、狂気に染まった上鳴の放つ全力の拳を避けながら口を開く。
「……天津河神様、どういたしましょうか」
『ああ、殺さない程度に痛めつけて、さっさと《聖心臓》にブチ込んでくれ。なに、あの状態に陥ったら最後、思考、判断能力を失くしてただ突っ込んでくるだけの獣とそう変わらないから安心しろ』
「承知いたしました、天津河神様」
言うと、箱園の鋭い目つきが狂気に飲まれた上鳴を睨みつける。
「――天縛・サラソウジュ」
そして、彼女の詠唱と共に虚空から現れた白い鎖が、上鳴の腕や足、動くために必要な部位を巻き込むように堅く縛っていく。
「俺はここカら生き延びて、神凪に謝らないとならねえんだ、巫女だろうが天使だろうがッ、俺の邪魔をスル奴は――全員ブッ飛ばすッ!!」
バキバキバキィ! と音を立てて、白い鎖はバラバラに砕けていく。狂気のおかげで著しく向上した身体能力があっての結果だろう。普段の彼ならそこで詰んでいた。
その勢いのままに、上鳴は地面を蹴ってさらに加速し、箱園との距離を詰める。だが、
「私程度の力では縛り付けられませんか。殺さずに、とは天津河神様も無茶をおっしゃいます。――天罰・キョウチクトウッ!」
「ぐ、アアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああッッ!?」
対する巫女はふわりとその突進を避けつつ、通り過ぎていった上鳴の背中に向けて、服の内側から取り出した白の御札を銃弾のようにして放つ。
そのまま突き刺さると、御札が金色の輝きを示す。それに合わせて上鳴は、苦しみ混じりの咆哮をあげる。
「……これは効いているようですね。限界まで弱らせて、さっさと《聖心臓》に放り込むとしましょう」
『拍子抜けだな。一人とはいえ、とてもじゃないが、あのツァトエルとやり合ったアイツと同一人物には思えない。まあ、竜の血に直接触れた訳じゃない、要は残り香で発動した狂気みたいなものだしこんなもんか?』
上鳴が以前、狂気に飲まれたあの時と比べれば、速さも力も、何もかもが足りていないように思える。やはり、《竜の血脈》そのものの血が与える狂気とは比べ物にはならないのだろう。
だが、その分。上鳴にとっても有利な面があった。
「くッ、そおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
咆哮を上げながら、彼は金色に光る御札を強引に抜き取る。そして、彼は続けて。再び地を蹴り、まっすぐに飛び出していった。
……だが、それは天使を宿した巫女と戦うため、ではない。
「――ッ!? 逃げようとしていますが。天津河神様、話が違いますよ」
彼が向かったのは、ここまで降りてくるので通った長い石造りの階段だった。
そう。ただ狂気に飲まれているだけではない。無闇に突っ込んでいくだけの獣ではなく、彼にはまだ冷静な判断ができる程度の『理性』が残っていたのだった。少なくとも、天使と巫女、相手との戦力差を前に戦わない選択肢を取れるのだ。
「天縛・サラソウジュ――ッ!」
慌てて白い鎖を虚空から出し、追いかけるが――階段を上がっていくスピードならば流石に鎖よりも、格段に身体能力の上がっている彼のほうが圧倒的に早い。
「逃げられてしまいましたか……」
『今すぐに追いかけろ、箱園紗々羅』
「はい。ですが、そう焦ることはございません。そもそもこの島には結界があり、内側から外側にも簡単には出ることができません。世界から隔絶されたこの狭い島で、私から逃げ切るなど、まず不可能ですので」
巫女の浮かべる表情には、明らかな余裕が見て取れた。




