16.竜の血は狂気を与える
「誰かと思えば、朝の嘘つきのクソ野郎じゃないか。僕は嘘が大嫌いなんだよ。目障りで不愉快だし、これから行う『儀式』の邪魔にもなるから、大人しく帰ってくれないかな」
「うるせえよ。俺が嘘つきのクソ野郎なら――お前は神凪に手を出そうとする最低のクソ野郎だろうが。……神凪さんッ!」
フードを被った不愉快そうな少年に向けて、上鳴も負けじと言い捨てると。その傍らに倒れる、赤髪の少女へと視線を向ける。
あまりに酷い惨状だった。両足、腹部とあちこちから出血し、力も抜けて起き上がることすらままならない、神凪麗音の姿がそこにはあった。
「……神凪さん、ごめん。俺があの時、強引にでもついていくべきだった。俺の力じゃ何もできないのは分かってる。けど、ここまで酷い状況にはならなかったかもしれなかった」
「だ、ダメっ、こっちに来ちゃ……帰ってよ、御削。アタシのせいで、御削を巻き込みたく……、ないの」
「何言ってるんだよ。そんなに怪我して、倒れてるのを目の当たりにして、そのまま見捨てて帰れって言う方が酷じゃないか?」
とにかく、あの少年の相手よりもまず先に、神凪の応急手当が先だろう。彼女をここまで追いやった危険人物に背を向けることになってしまうが……それほどに、彼女の状態が酷すぎた。
常に持ち歩いてはいるが、結局面倒であまり使っていないハンカチを取り出すと、まずは特に出血の激しい右ふくらはぎを縛ろうと、手を触れようとした。その時――。
「アタシに触らないでッ!!」
「そんな事言ってる場合じゃないだろ! 縛っただけで傷が治るわけじゃないけど、やらないよりはずっと――」
そう言いかけて。神凪の、必死の拒絶が――彼の想像していた内容とは、また別の理由である事に気がついた。
彼女の傷口付近に触れた途端。より正確に言うならば……神凪の血液に触れた瞬間に、まるで煮えたぎる溶岩にでも触れたかのような、全身を焼かれる感覚に襲われた。
ふと頭によぎった、『竜の血は人々に狂気を与える』という言葉。天河が最後に、意味ありげに言い残した『伝承の一節』だったか。思い出した時にはもう遅かった。
「ああああああああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」
全身の血管が破裂してしまう程の勢いで、全身の血流がドクンドクンと激しく脈を打ち始める。彼の身体を構成する肌色は、次第に焦げたように赤黒く変色していき、膨れて浮かび上がった血管と相まって、まるで新鮮なゾンビのようにグロテスクな見た目へと変貌していく。
「み、御削……ッ! だから触らないでって言ったのに。竜の血に、ただの人間が触れて、無事で済むわけがない……」
そもそも、彼をこんな状況に巻き込むつもりもなかった。だからこそ、神凪はこの事を話していなかった。わざわざ話す必要もないと思ったのだ。
なのに、どうして。彼はこんな所に来てしまったのか。助けに来てくれてしまったのか。
いや、そもそも――何故自分は《竜の血脈》について話したというのに、こんなに大事な内容を前もって話しておかなかったのか。今更したところで遅すぎる後悔に苛まれる。
「あ、ああ、ああaあ、ああああああkあああnああtああskえmqrtkァtあykrあ――」
最早、言語としての形さえ成していない、悲痛な呻き声を上げながら。確実に狂っていく上鳴を、神凪はただ見つめる事しかできない。……彼女の血には、人を狂わせる力はあっても、それを戻す力は備わっていなかった。
「殺tmtkttッttッttktktkhhッhkrkれdだnrなrhrたい――」
ただ、どこか違和感があった。彼は、どんどん狂っていく、というよりは――バラバラになった『何か』が収束し、纏まっていっているような――その様子を見ていた神凪にはそんな風にも思えたのだ。まるで、ノイズしか聞こえない録音データを、少しずつ解析していく過程を早送りで見ているような。
……そして。
「kあng、を、kaなぎを、たsけたい」
「え……」
呂律の回っていない、あまりにも聞き取りづらい言葉ながらも、確かに。狂気に飲み込まれているはずの彼は、そう言った。
ただの人間だと、適当に泳がせていたエルフの少年さえも。思わず息を呑み、赤黒く変貌した彼に注目してしまう。
そして、当の本人は――狂気に染まり、意識だって残っているかどうか怪しいながらも。明確な一つの目的を持って地面を蹴り、屋上に吹き荒れる風よりも速く、エルフの少年に向けて突っ込んでいく。
小さな子供がショベルカーを乱雑に振り回すかのように、赤黒い脚を横薙ぎに振るうと同時、今度はハッキリとその言葉を叫ぶ。
『神凪を、助けたいッッ!!』
エルフの少年は驚きながらも寸前で高く飛び上がり、その攻撃を避ける。すたり、と。屋上に作られた、一段高いステージのような祭壇の上へ着地すると、さっきまでの無関心な態度から一転、関心した風に口を開く。
「驚いたなあ。ただの人間と侮っていたけど……いや、キミはそもそも、本当にただの人間かい? 竜の血に触れて、正気を取り戻せる人間が実在するとは思えないよ」
「んなこと、どうだっていい」
狂っている彼は、しかし人間の言葉を紡いで。
「神凪の受けた痛み、そっくりそのままお前に返してやる。覚悟しやがれ、クソ野郎がッ!!」