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あんぱん、しょくぱん、かれーぱん

作者: 戯画葉異図

 ぼくがまだ中学生だったときの話である。

その日は、とても寒い冬の日で、二日前に雪が降り、道路の上の、建物で影になる部分にはまだ茶色の混じった雪が融けずに残っていた。その日の天気は曇りだったので、さらに翌日まで、融けきることもないだろうと予想された。

 そのとき、ぼくは数人の友人たちと一緒に、中学校の帰り道を歩いていた。記憶があいまいだが、ぼくを含めて、全部で四人だったように思う。ぼくと、三人の友人で、取るに足らない、何かくだらないことを話しながら、下校の帰路を辿っていた。

 毎日必ずこの四人で帰宅しているというわけではないものの、五日あったらそのうちの三日くらいは共に道を歩いている。少なくとも友人とは呼べそうな、それくらいの仲だった。

会話の合間に吐かれる息も、まだ白い。四人とも、マフラーを必需品として首に巻いていた。

帰路が中ほどにさしかかったとき、前方から、誰かの声が聞こえてきた。声といっても、多人数で、誰かと話しているような様子などではなく、むしろたったの一人で、ぶつぶつ何かをしゃべっているような、不自然な声だった。

それまで談笑していたぼくたちは、ふっと、そちらを見る。ちょうど曲がり角だったので、相手の姿は見えないまま、声だけが徐々に近づいてくるような情況になる。

相手が近付くにつれ、その人物が、かなりの大声でしゃべっているらしいことが分かった。聞く者が他に誰もいないと高をくくって、人目をはばかることなく歌でも歌っているようだったが、しかしメロディーのようなものは少しも感じ取れない。であれば携帯電話で通話しているのかと言われれば、そうとも取れない。

まだ姿は見えていないのに、その内容だけははっきりと聞き取ることができるようになった。

「ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん。ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん……」

 歌を歌っているわけでも、携帯電話で通話しているわけでもない。強いて言うならば呪文を唱えている風であったが、しかしそれにしては、並べられている言葉がどうにもマヌケすぎる。ぼくたち自身が、足が自然と止まっていたことに気が付いたとき、曲がり角からその人物が姿を現した。

 三十から四十くらいの男だった。その男は、こんな寒冷の季節にもかかわらず白いインナーシャツと黄土色の半ズボンという、だらしなく簡素な出で立ちで、毛の伸びきった腹が出ており、ひしゃげた黒縁メガネをかけていた。

 男は自転車に乗っており、唖然として立ち止まっているぼくたちにはチラと目もくれず、何食わぬ顔でぼくたちの横を通り過ぎていった。

「ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん。ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん……」

 ぼくたちの側を走り去るときも、ただひたすらに、その文言を口にしつづけていた。ほとんど叫ぶような大音量で、恥ずかしげもなく。

 単純な時間で言えば、わずか数秒で男は見えなくなった。ぼくたちの後方で見えなくなっても、しばらくは同じ文言が聞こえた。

「ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん。ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん……」

 事態が起きている真っただ中のぼくたちは、あっけにとられ、黙ってその様子を眺めているばかりだったが、事態が通り過ぎ、周囲に再び、冬に似つかわしい静寂が取り戻されたとき、ぼくたちは爆笑した。

 男の文言の声量に負けず劣らずの、大爆笑だった。


 それからは、ほとんど毎日、学校の帰り道でその男を見かけた。学校の終わる時間と、その男が自転車で道を走る時間が重なっているのだろうか。すれ違う場所に多少の違いこそあれど、決まってその男とは帰宅の道中で目撃することになった。

男が、どこかへ向かう途中なのか、それともぼくたちと同じで、どこかから帰る途中なのかは、定かではない。ただ確かなのは、あの日突然、男に自転車で道を走る習慣が出来上がったことと、男にとっての目的地がどこかにあり、けっして町内を徘徊しているわけではないということである。

登校の途中で見かけたことは一度もない。学校から帰るときになって初めて、まるでその男が下校を告げるチャイムであるかのように、ぼく(あるいは、ぼくたち)の前に姿を現すのだ。

 例のおかしな文言も、いつも決まって叫んでいる。

「ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん。ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん……」

 それ以外の文言を口にしている場面にも、遭遇したことはない。男が、たとえば道を逆向きに走っていたり、自転車を降りて歩いていたり、異なる服装を着込んでいた場面についても、また同様に。

 規則的な生活習慣というやつは、たいていの場合、健康上の理由から推奨されるものであるが、人一人の行動にこうまで変化が見られないとなると、かえって不気味なものである。あまり細かい部分まで記憶できるわけではないが、そのような視点で男を見てみると、自転車の操り方や、自転車のタイヤが踏みしめるアスファルト上のラインまでが、寸分の狂いもなく、つねに同一であるような気さえしてくるのだ。

 最初の二、三回は、まだよかった。男の姿を、友人とともに目撃したときには、一回目と同様に爆笑したし、ぼく一人で目撃したときには、苦笑しながら、男の走り去る様を黙って眺めていた。しかし五回目にもなってくると、もう笑えない。あまりにも酷似したシーンの反復に、面白がる心を恐怖心が上まわり、口角の筋肉もグニャリと歪む。

笑うどころか、ついには逃げだしたくなるのだ。可能なかぎり出会いたくないと願ってはみるものの、しかし下校の時間になれば、下校しなくてはならない。下校すれば、例の文言が聞こえてくる。

「ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん。ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん……」

 録画された映像のようなものを、ぼくだけが幻影として見ているのならば、まだ説明に納得できる分、ましだったかもしれない。しかし四人そろってとなると、そんな理屈は苦しくなる。

 ある日、友人のうちの一人がこんな提案をした。つまり、学校の図書委員のメンバーの中に、とびきり美人の先輩がいるらしいので、帰宅する前に図書室に立ち寄って、その容姿を確かめにいこうというのである。

提案した友人をのぞく、ぼくを含めた他の三人は、一発でピーンときた。すなわち、美人の先輩を確かめるなどというのはただの建前で、本当の目的は、帰宅の時間を少しでも長くズラす点にこそあるのだ。うまくいけば、男との鉢合わせを避けることができる。

ぼくたちは、普段は目もくれない図書室を訪れて、なるべく多くの時間を浪費する。美人の先輩などというものはどこにも見当たらなかったが、誰もそんなことを咎めはしなかった。四人とも、読みもしない本を広げたり、意味もなく筆記用具を取り出したりして、迷惑な客のような態度で図書室に居座りつづけた。

 一時間がすぎたころに、ぼくたちは図書室を出た。

 さすがに十分なタイムラグだろうと、誰もが思惑の成功に期待を寄せた。しかしその期待は、儚くも打ち砕かれることとなる。

 最初に出会った場所と同じ、あの曲がり角で、声が聞こえてくる。

「ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん。ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん……」

 恐怖に凍りつくぼくたちを尻目に、男は、自転車に跨った姿で悠然と姿を見せる。あらかじめ撮影された動画を再生するように、いつもと同じ、何食わぬ顔。

 ぼくたちは息をひそめて、ただ男が通過するのをじっと待つより他なかった。


 男の目撃が十を超えたところで、今度はぼくの方から、新たな提案をした。男の正体を突き止めるため、いつもならすれ違うままにしているところを、追いかけるのだ。相手は自転車だが、そこまで速度を出しているわけではない。信号のこともある。追跡は可能だと、ぼくは力説した。

 しかし友人たちは、気乗りしないようだった。もはや恐怖心から、必要以上に関わることさえ嫌だと言うのだ。

 仕方なくぼくは、一人でこの計画を実行することになる。普段であれば四人で帰宅しているところを、ぼくだけが先行して、単独で学校を出た。

「ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん。ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん……」

 いつものように、男は現れる。いつもと異なるのは、男がぼくの横を通りすぎたところで、ぼくがくるりと回れ右をし、男の背中をめがけ走りだした点だ。想定通り、追跡は可能だった。

 一定の距離を保ちながら、ぼくは走りつづける。

 しかしすぐに、思いもよらないことが起きた。一切の前触れなく、男が突然、自転車を止めたのだ。あの自転車が止まることなど、想定していなかった。何者かが動画の一時停止ボタンでも押したかのように、あまりにも脈絡のない、動から静への移行だった。

男は自転車を降り、ぼくの方を振り向いた。言い訳のしようもなく、目が合った。男は、自転車をその場に投げ捨てて、こちらに走り出す。

今度はぼくが追われる番だった。男は顔を左右に振りながら、両腕を真下に伸ばした状態で走っていた。自転車などよりも圧倒的に速かった。

その光景のおぞましさに半泣きの状態になるも、たちまち、ぼくは追いつかれる。

「ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん。ぱんぱんぱん、ぱんぱんぱん。あんぱん、しょくぱん、かれーぱん。ストーキング行為、発見! ジャスティス・正義のスーパー・パンチ! レッツ・ゴー!」

 ぼくは、男の冗談みたいな腕力で地面に押さえつけられ、胸の中央付近を殴られた。その一発で、あっさりとぼくは意識を失った。

 闇の中に引きずり込まれるときにも、男は例の文言を叫びつづけていた。


 目が覚めたとき、ぼくは病院のベッドの上で横になっていた。ベッドの脇には、母親と、看護師らしき女性と、刑事らしき男が立っていた。

 上体を起こそうとすると、胸に痛みが走った。そんなぼくを、看護師が制した。

 ぼくは刑事に、起きたことをありのままに話した。男の容姿などはもちろんのこと、例の文言のことや、ぼくの方から追いかけたことも、包み隠すことなくすべて話した。友人たちがすでに証言していたらしく、特に驚かれることもなかった。

 すぐに男の身元の特定や捜索が開始されたが、男の詳細も、行方も、明らかになることはなかった。まるで初めから、そのような男など存在しなかったかのように。


 追求することが必ずしも正しいとはかぎらないことを、ぼくはこの経験から思い知った。きっとこの世には、追求してはならないものが、時と場所を選ばず一定数存在していて、ぼく以外の人々は、ぼくなんかよりも早々にそれを承知していたのだ。

ぼくだけが、遅かったのだ。友人たちがぼくの提案を拒絶したのも、そういうことだったのだろう。

 青春の本質が探究心にあるのだとすれば、ぼくの青春はそのときに終わりを迎えた。今にして思えば、あの男の出現こそが、ぼくの青春の終わりそのものだったような気がする。

 青春に未練などないが、あの後も、男はぼくの前に現れつづけた。ぼくを殴ったことなど忘れてしまったかのような、無頓着な表情で、以前と変わらず、例の文言を口にする。友人たちが次第にその姿を見なくなっていった中で、ぼくだけがいつまでも、どれだけ月日が流れても、男のことを目撃しつづけた。男がぼくにだけ敵意を向けた結果なのか、それとも他に理由があるのか、それは定かでない。

 中学を卒業して高校生になっても、高校を卒業して大学生になっても、ぼくがどこかから家へ帰るたびに、男は自転車に乗って、やってくるのだ。帰り道が同じであるかぎり、決まって同じように。

 男のことを目撃したとき、何度かぼくは、警察への通報を試したことがある。しかし警察が到着するころには、もう男は走り去った後で、結局は無駄骨に終わるのだ。それならばと恥を飲んで、他人に付き添いを頼んでみれば、そもそも男は現れない。もう友人の誰も、そんな男が存在していたことなど憶えちゃいない。

 今日も、明日も、明後日も、男はぼくの前にだけ現れる。

 理不尽だが、受け入れざるをえない。受け入れざるをえないからこそ、理不尽であるとも言える。

 そうやってぼくは、去りゆく青春に手を振ったのだ。

この物語はフィクションです。登場する人物は架空であり、実在のものとは関係がありません。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 同じ「理解不能な」行動を繰り返す人間ほど、何をするか分からない恐ろしさがある、ってのは現代の都会ならではの文明病なんだなあ、と改めて認識させるお話でした。 変と思えるものを子供ですら笑っ…
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