10
トイレを出た幸恵は、戸を閉めて庭が見える曲がり角まで歩いた。
ここから小屋へ近付けば、障子越しに自分の影を映さず、あの小屋の中を見ることができるかもしれない。そう考え、幸恵は靴下のまま縁側の端から庭へ下りた。足が少し汚れてしまうが、上がるときに軽く叩けば問題ないだろう。
自分の位置が堤からの死角になっているか確認しながら、幸恵は物置の前に立った。戸の取っ手をそっと掴み、一思いに戸を引く。一瞬戸が固く引っかかったが、難なく開けることができた。
幸恵の体が凍り付いた。
奥の壁に背を預けて座っていた人物は、中村冴子だった。頭部には明らかな損傷があり、血の気を失った肌と表情が、すでに生きていないことを証明している。木製の床には葡萄色の染みが残り、肉の腐敗した臭気が幸恵の鼻を衝いた。
幸恵は鼻元を覆い、凄惨な光景から目を逸らした。冴子の遺体から数十センチ離れた壁には、小ぶりな斧が立てかけられている。刃の半分に乾いた血液らしきものが付着していることから、この斧で命を奪われたのだろう。
固まったまま動けず、十数秒ほど幸恵はその場に立ち尽くした。
とにかくこの場を離れよう。
そう判断して、幸恵が身を翻そうとしたときだった。
「見たんですね」
低い声に少し遅れて、側頭部に強い衝撃が走った。
レンガで殴打されたような強い一撃で、幸恵は弾かれたように地面へ倒れ伏した。激痛に襲われ、起き上がる間もなく後ろから片腕を首に回される。強い腕力で首を圧迫され、呼吸が制限された。
「ぐっ……せ、先生……?」
首から腕を剥がそうと、幸恵は太い腕を掴んだ。彼女は決して非力ではないが、成人男性の力に敵うはずもなく、ほとんど状況は変わらない。剥き出しの腕に爪を立てると却って首が強く絞まり、幸恵の両手から力が抜けた。
幸恵が声を絞り出した。
「先生……サ、エちゃんを、殺したんですか……?」
「ええ、そうです」
耳元で、抑揚のない平坦な声が聞こえた。
驚愕と恐怖のあまり、震える声で幸恵は堤へ訊いた。
「そんな、どうして……!」
「殺したかったから。ただ、それだけです」
信じられない言葉に、幸恵は言葉を失った。
中学校の教諭であり、冴子と幸恵の担任である彼が、殺したいからという理由で人を殺した。確かに、彼は言ったのだ。殺したかったから、と。
違う。これは自分の聞き間違いで、先生がそんな残忍なことを口にするはずがない。いや、それなら現にその先生が彼女の首を締め上げているのは、一体なぜなのだ。
混乱に陥っている幸恵に、堤は淡々と告げる。
「ずっと、女の子を殺すことに興味がありました。だから、スイカ畑を荒らしていた西田さんを脅して偽装させたり、倉持先生の腕時計を盗んで畑に放ったりして、準備を進めていました。もっとも、西田さんはちょっと邪魔だったので、ある程度やらせた後、少し引っ込んでもらいましたが」
堤の自供を聞き、幸恵はようやく理解した。
スイカの種だけが抜き出されていたのは、昼間に町内の自宅にいる義之に疑いの目が向けられた方が好都合だから。スイカ畑荒らしがぴたりと収まったのは、おそらく堤が西田の犯行をカメラで撮って脅したから。
すべて、堤が自分の動きやすいように仕組んでいたのだ。
「しかし、あのとき畑で生田さんたちを見ていたときは少しびっくりしました。中村さんが、私の気配に気付いた素振りを見せたものですから。まあ、結局顔を見られずに済んだので、不幸中の幸いでしたが」
「そ、んな……! 嘘っ、嘘です……!」
息苦しさのあまり、幸恵は動けないまま喘いだ。
「先生が……そんなこと、するわけ……」
「おや。お友達のこんな姿を見たのに、まだ信じられませんか?」
軽侮の色を込めて堤が言い、ぐっと腕の力を強めた。より呼吸が困難になり、幸恵は話す余裕も奪われる。視界の端に映る、親友の腐乱死体がかすかにぼやけて見えた。
「が、はっ……」
「私がこうして、すべてを話しているということは、どういう意味か分かりますよね? 生田さん」
少しだけ腕が緩み、幸恵は荒く息を吐いた。せり上がる恐怖が増幅し、涙が止めどなく流れ落ちていく。
夏休み中、堤の行動に違和感を覚えたことはあった。書店で幸恵たちと会ったときに、冴子へ夏休みの過ごし方を詳しく訊いていたことだ。あれは冴子を確実にさらって監禁、殺害するための行動だったのだろう。
いや、あらかじめ幸恵が冴子と書店に行ったことも知っていて、堤は偶然を装ったのだ。こんな小さな田舎町なら、地元の学生がどこへ行ったかなど、近隣の住人に訊けば知ることができる。
すべて、堤は計算していたのだ。
もっと早くそれに気付けていれば、冴子を救うこともできたかもしれない。それに、自分がこうして狙われることもなかったはずだ。
「サエちゃん……うぅ、うっ……」
嗚咽を漏らす幸恵をあざけり、堤が鼻を鳴らした。
「なかなか良い反応ですね。中村さんは、あまり面白くはありませんでしたが」
言ってから、堤は「いえ」とそれを撤回する。
「監禁犯を自分の好きな男だと思い込んだまま死んだのは、大変滑稽でしたねぇ……わざわざレンタカーで白いセダンを用意して倉持先生になりすました甲斐がありましたよ」
堤は笑いを漏らし、再度幸恵の首に回した腕を締めた。
「そういうわけですので、生田さんもお友達のところへ送ってあげますね」
たちまち腕の力が強まり、幸恵はもがいて抵抗を試みた。
「嫌っ! やめてっ、離してぇ! うぐっ……」
叫ぶ声が途中で遮られ、容赦なく気道をふさがれた。酸欠に陥り始め、言葉にならない声が漏れる。
「ふふっ、どうですか? つらいですか? 苦しいですか?」
堤の興奮した声が、耳から入ってくる。耳朶を舐めるような、嗜虐的で不愉快な声だったが、幸恵に反抗する余力は残っていない。
「申し訳ありませんが、諦めてください。すべてを話した以上、生田さんを帰すわけにはいきませんので」
一切力を緩めず、堤は彼女の首を締め続けた。
嫌だ、死にたくない。
叫ぼうとしても、発声どころか呼気を出すことすらほとんどできない。ただ地面に爪を立て、無意味に土を掻くことしかできない。
「あ……がっ…………」
それが幸恵の出せた、最期の声だった。
視覚と聴覚が急速に鈍麻し、全身から力が抜けた。両手が垂れて地面に触れ、意識が水に溶けるように薄らいでいく。
すべての感覚が失われる刹那、男の高笑いが聞こえたような気がした。