牧師
書いたそばからアゲてますので、ちょくちょく追加されるか訂正されるかしてると思います。
③
次の日、ミノワールはタクシーを呼ばなかった。ウドリシテの指定してきた場所は、市街地の中心部、すなわち教会だったので、ミノワールの滞在するホテルから十分歩いて行ける距離だったのだ。
タクシーの運転手は喜んだ。上層部は彼をミノワール専属の運転手として雇っているが、こちらが呼ばない時は自分で客を拾っても構わないことにしてあるので、沢山稼ぎたい時はありがたいのだ。
ミノワールはひととおり街の中心部を散策し、約束の15時きっかりに教会へ到着した。
教会というのは、通常の昼間は扉が開いているものである。ミノワールは、歴史ありそうな堂々たる教会堂の、その大きな木扉を開いて、礼拝堂へ入った。中からオルガンと合唱が聞こえてくる。
女性が1人、ミノワールを出迎えに来た。
「ウドリシテさんにお会いしたいんですが。」
「あ、ウドリシテ牧師ですね、わかりました。」女性は感じよく微笑むと、奥に向かって呼びかけた。「先生!お客様です!」
音楽が止んだ。
奥から長身の眼鏡をかけた男がよく通るバリトンの声で応じた。
「ミノワールさん!…すみません、聖歌隊の練習が長引いてしまって。もう終わりますので!」
ウドリシテは聖歌隊員に何言か指示を出し、その日は練習が終了になった。
彼は楽譜の束を抱えてミノワールの元へやって来た。
「すみません、本当は30分前には終わっている予定だったんですが、ソリストが急病になってしまって…対応してたものですから」
「…灰病、ですか?」
「…ええ、まぁ。」彼は気まずそうに、口籠もりながら答えた。
ミノワールは、研修で身につけた記憶力で、目の前の男の特徴を瞬時に頭に叩き込んだ。
トマ・ウドリシテ。身長190位、痩せ型、ブロンド。服装は、聖職者にしてはラフな普段着。短髪でも長髪でもなく、少し癖のある柔らかい髪をザックリと七三に分けている。縁の細い眼鏡をかけている。眼鏡の奥の瞳の色は、薄暗くて判別が難しいが、おそらくブルーかグレー。年齢は、顔つきから40絡みと思われる。笑顔に妙な魅力がある。髭は無く清潔感がある風貌。眼鏡を取れば案外ハンサムなのかもしれない。職業、牧師…
「…牧師?」
「…あぁ、そのことですか。」
ウドリシテは少し訝しげな表情をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「この教会ですよね?…ここ、新教なんです。だから私も、牧師。礼拝の時も司祭の礼服ではなく、スーツで説教しますよ。」
なるほど。だが通常、新教の教会というのはシンプルに作られている。よく響く造りになっていたりそれなりに立派なオルガンがあったりする事もあるが、宗教的なシンボルは十字架だけで、建物自体もシンプルな建築の教会がほとんどだ。
それにひきかえ、この教会は、旧市街のシンボルともいえるような天井の高い、荘厳なゴシック建築の教会堂だし、旧教の特徴とも言える、ステンドグラスなどの華美な美術品が多い。だが、言われてみれば、旧教の教会につきものの聖マリア像や聖人像が見当たらない。
ミノワールが物珍しそうに礼拝堂内を見回している様子を見て、ウドリシテは、来訪者の疑問に答えるように自ら説明を始めた。
「…元はここ、旧教の教会だったんです。色々あって、今では新教の持ち物です。…まぁ私は、この教会に派遣されてきたんですけど、たまたま音楽が得意なので、聖歌隊の指導やらオルガニストやら…まぁ要するに教会音楽監督みたいなこともやってます。ウチの教団は人使い荒いんですよ。」
彼は苦笑してみせた。
ウドリシテは、さらっと言ったが、ミノワールの知る限りでは、教会音楽監督というのは、そんなにたやすい仕事ではない。教会で行われる様々な礼拝や行事の音楽を取り仕切り、聖歌隊を指導したり指揮をしたりオルガンを弾いたり、とてもではないが一介の牧師が片手間に出来るような役目ではない。
「失礼ながら、ウドリシテさん…音楽は、どちらかで勉強を?」
「あぁ。…一応、ドイツの音楽大学を卒業してます。親が牧師だったので、教会オルガニストを目指してましてね。」
「…そうなんだ。…では、この教会でも、オルガンを?」
「んー…」ウドリシテは眼鏡の向こうの青い眼を細めながら考え、「まぁ弾くこともありますけど、日曜日の礼拝は、どうしたって私が説教しなきゃならないので…それ以外の集まりの時とか、たまにゲストで来られる牧師先生が説教される時ぐらいですね。礼拝以外では、日曜の夕方から1時間ばかり、どなたでも来られるオルガンのコンサートを無料でやってますよ。あなたもお時間、あったら是非。」
「ええ…是非。」
はぁ。なるほど…と感心したところで、ミノワールはハッと気づき、
「いけない、ウドリシテさん、仕事の話、しないと…」
「あれ?…もう、してますよ。」牧師は神に仕える人に相応しい表情でニッコリと笑った。
「え?…どういう事です?」彼には牧師の意図がわからない。
「ミノワールさん、まずは私の事を知っていただきたかったんです。我々の仕事は、とてもデリケートなものだ。信頼関係がないと、出来ないでしょ。」
なるほど。さすがは心を扱う専門家だ。
④
まぁ、それでも立ち話もなんだからお茶にしましょう、と、牧師はミノワールを客間へ誘った。ええ行きましょう、とミノワールも従った。
礼拝堂の奥の通路は立派な建物の牧師館に繋がっていた。ここは、旧教教会時代は、司祭や教会関係者の居住区域だったのだろう。
「大きなお宅ですね…」ミノワールは思わず口にした。が、咄嗟に、「失礼、牧師さんが贅沢してると思ってるわけではないんですよ。」と弁解した。
ウドリシテは、そんなことは気にならないと言いたげに微笑み、
「大きな建物ですよ。昔は司祭が独占していたそうです。今は内装を大分いじって、集合住宅と店舗になってます。」
と、こちらの疑問を見透かすように答えた。
「私もここの住人の1人です。このアパートには、あと11世帯が入っています。この建物は中庭を囲むように筒のような形になっており、建物のこちら側の棟は中庭に面していて、中庭の向こう側の棟は大通りに面しています。そっちにはブティックとカフェと、上階にはオフィスが入ってますよ。」
なるほど。旧市街の建物にありがちな住み分けの仕方だな。
「ちなみに、さすがにここの管理人は、私じゃありません。私は、家の管理がめちゃくちゃ下手なので。…さすがに教団もそこまでは押し付けませんでしたよ。」
建物のドアの鍵を開け、中に入る。廊下には窓を通して外からの太陽光が入ってきているが、昼なお薄暗い空間である。大戦前からの古い建物であることは、間違いないだろう。確かに郵便受けのあるドアが並んでいる。アパートになっているというのは、本当のようだ。
「うちは、上の階です。」牧師とミノワールは4階まで階段を登った。エレベーターは無い。
玄関のドアを開け、牧師が招き入れた先にあったのは、やはりごく普通の住居だった。白とブルーで統一された、シンプルで落ち着いた雰囲気の室内である。他の人の気配はない。
「一人暮らしでしてね。本だの譜面だのの片付けが、ほんと苦労しますよ。…これでも貴方をお呼びするために頑張って片付けたんです…」
「ふふ…」
大柄な男が柄にも無く小声で恥ずかし気にそう言うのが可笑しくて、ミノワールは小声で笑ってしまった。
「あ、どうぞお掛けください。今、お茶を入れますので…あ、コーヒーがいいですか?」
「どちらでも。」
牧師は、電気湯沸かし器をセットしながら
「あー茶葉が切れそう…ギリギリ2人分ですね。よかった。」と言い、ポットを出し、
「紅茶はね…けっこう真面目に淹れるんですよ。以前、つ…あっ…私は、イギリスにいた事があってね。特訓したんですよ…」
牧師が「以前」という言葉の後に言い淀んだ言葉が、何故かとてもミノワールには気になった。が、この場では何も感じていないように彼は振る舞った。
しばらくするとウドリシテがトレーの上にポットと茶器をセットしてやって来た。
「信徒の方が、クッキーを焼いて聖歌隊のみんなに振る舞って下さったんですよ。」と、大ぶりのチョコチップクッキーが盛られた皿を指して言った。「甘い物がお嫌いでなければ、どうぞ。」
「いただきます。」
一口かじった。サクッとして、口の中にほんのり甘く、ふわっと広がるクッキーは、ミノワールの心に染みて、彼は不思議な安心感に満たされるのを感じた…そして彼は、実はあぁ、俺はずっと緊張していたんだな、と気づいた。
「美味しいでしょう?」
牧師はまた、人たらしに微笑んだ。
「ありがとうございます。…美味しいですね。牧師先生の紅茶も、香も色も…味も素晴らしいです。」
「ふふ。ありがとうございます。…先生なんて、やめてください。私を先生なんて呼ぶのは、信徒と、酒場の口の悪い飲み友達だけですよ。」
牧師は自分もカップに口をつけ、確かめるように紅茶を飲んだ。「うん。上手く行った。」
「それはよかった。」
「うん。今日はとても出来がいい。あいつに負けないくらい…っ、と」また言い淀んだ。そして、少し寂しそうな顔をした。
「先程も、言いかけましたよね?」
ミノワールが尋ねると、ウドリシテは曖昧に微笑んだ。
「どなたなんですか?…お聞きしても良い話ですか?」
「うん…まぁ。」ウドリシテは再び、今度は寂しそうに微笑んだ。「私の、妻です。…他界しましたが。」
「それは…」ミノワールは、さすがに口籠って「悪いことを…お聞きしました。すみません。」
「もう、昔の話です。彼女も信仰を持ってましたから…今頃は、神のお隣で出来の悪い信仰者の私を見守ってくれてますよ。」
ウドリシテはほんの少し夢をなぞる様な眼差しを宙に流していたが、直ぐに我に返った。
「クッキー、美味しいでしょう?よろしければもっとどうぞ。ヴンダーマンさんのクッキーは、いつも美味しいんです…」
彼の笑顔は、ミノワールが最初に見た時と同じ、人たらしの笑顔に戻っていた。